日本国憲法21条に「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 検閲は、これをしてはならない」とあるように、
現在の日本では言論・出版の自由があります。
「言論」とは何か。
明治37年(1904年)の辞書『言海』には、
「言論…議論に同じ」とあり、それではと「議論」を調べると、「互いに己が説を言出して論ずるヿ(こと)」とあります。
続いて「出版」を調べてみると、「書物を版に刻り、摺りて、世に出すヿ」とあります。
つまり、「言論・出版の自由」とは、「自分の考えていることを口にしたり、書物にして世の中に出したりすること」が自由、ということになります。
しかし戦前では、「言論・出版の自由」に制限が加えられていました。
大日本帝国憲法29条に「日本臣民は法律の範囲内に於て言論著作印行集会及結社の自由を有す」…とあるように、法律によって制限を受けていたのです。
では、その法律とはどのような内容であったのか、その法律に対し当時の人々はどのような反応を示したのか…それについて、今回は見ていこうと思います😄
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇言論・出版の自由の制限
・新著翻刻書私刊禁止布告(行政官布告第358号)…明治元年(1868年)閏4月28日
「新著幷翻刻書類」は、「以後総て官許を経ざる品売買堅く差し停められ候事」とあり、出版物について全て許可制となりました。
現在の日本では出版するのに許可は必要ありませんが、なぜ昔は出版するのに許可が必要だったのか?(゜-゜)
その理由が、次の法律に書かれています。
・太政官布告451号…明治元年(1868年)6月8日
「近日、新聞紙頻りに刊行、人心を惑わし候品少なからざるに付、先達て官許を経ざる書類刊行差し停められ候段御沙汰候処、猶且陸続上梓致候趣に付、官許之無く分は、御吟味の上、板木・製本も取上、以後相背候節は、刊行書林は勿論、頭取幷に売弘候者迄、屹度御咎仰せ付けらるべく候間、此旨相心得べく候事」
(最近、いろんな新聞紙が出まくっているけど、その中には人々の心を混乱させるような内容の物が少なくない。2か月前の閏4月28日に行政官布告358号で出版物は官許を経ずに売買するのは禁止だよ、って言ったよね!?その後も勝手に新聞がどんどん出されている。官許が無いのに出した物に付いては、よく取り調べたうえで、その新聞の版木[印刷のもとになる木版]・製本を取り上げ、その後も無許可で出した場合は、その新聞の販売にかかわった者たちを厳しく処罰するから、肝に銘じておくように。)
これを見ると、明治の初めから新聞が多数創刊されまくっていたことがわかりますね(;^_^A
明治11年(1878年)の『教育新誌』には、
明治6年(1873年)6月までに創刊された新聞紙は80(そのうち14が現存)、その後明治7年(1874年)2月までに創刊されたのは18(うち1が現存)、2~12月に創刊されたのは25(うち3が現存)、明治8年(1875年)中に創刊された新聞は61(うち13が現存)、明治9年(1876年)は108(現存24)、明治10年(1877年)10月までは432(現存122)
…とあり、新聞が創刊されまくっている様子がわかります(明治10年10月までに計724)。
一方で廃刊も多く(明治10年10月までに計547。約76%、4分の3にものぼる)、長続きさせることは至難の業であったようです(;^_^A
当時は正確な情報を手に入れるのは難しかったでしょうし、噂程度のものを新聞に載せたり、売れるために実際より誇張して書いたり、実際にはないことをあったように書いたりすることもよくあったでしょう。
やりたい放題を防ぐためにも、「当時は」許可制が必要だったのです。
さて、書物を出版するための許可を得るためには、どこに持っていけばよかったのでしょうか?
それは次の法律に書かれています。
・明治2年(1869年)出版条例
あとで出版条例の内容を見ていこうと思いますが、まずは許可を得る先がどこかについて述べられている部分を見てみましょう。
「一、図書を出版するに先だちて、書名、著述者・出版人の姓名・住所、書中の大意等を具え学校へ出し、学校にて検印を押して彼に付す。此れ即ち免許状なり」
なんと提出先は学校!Σ( ̄□ ̄|||)
しかし「学校」といっても今の小中学校とかではなく、
国の機関の昌平学校と開成学校のことを指しています。
昌平学校は江戸幕府の「昌平坂学問所」由来の漢学系の学校ですね。
一方の開成学校は江戸幕府の「蕃書調所」→「開成所」由来の洋学系の学校です。
書物を研究するところだから適任と考えられたのでしょうが、
怒涛の如く出版物が届けられると本職がおろそかになってしまいますから、
出版を管理する機関はすぐに変更され、
明治3年(1870年)に大史局→明治4年(1871年)文部省→明治8年(1875年)内務省…と移っていきます。
さて、出版条例の内容をかいつまんで見てみましょう。
①出版物には必ず作者・出版者・販売店の姓名や住所を明記すること。冊子ではなく一枚の紙に印刷された物も同様である。これに違反する者は罰金。
②「妄に教法を説き、人罪を誣告し、政務の機密を洩し或いは誹謗し、及び淫蕩を導くことを記載する者、軽重に随て罪を科す」(むやみやたらに宗教の教えを説いたり、虚偽のことを書いて人を貶めたり、政府の機密について書いたり、政府のことを悪く書いたり、よくない生活に導こうとすることを書いたりした場合、その重大性を考えて、罰を与える)
③出版した者は、その出版した物を専売できる。その期間は、それを書いた者が生きている間とする。その親族が延長を望んだ場合はその限りではない。
④出版物を出す前に、書名・著者・出版者の姓名・住所、内容の要点を書いて学校に提出し、免許状を得ること。
⑤出版物が許可を得た後は、5部を学校に納めること。これは各所の書庫に分配するためである。
(現在の日本でも、出版物は国立国会図書館に納本する義務、というのがあります[文化財の蓄積が目的]。なんと同人誌や自費出版もその対象で、出版から30日以内に国会図書館に最良で完全な物を一部納めなければなりません。これに違反したらば価格の5倍の金額を国に納めなくてはならなくなります(◎_◎;)…実際はそこまで厳しく取り締まられておらず、納本する人は少ないようですが…(;^_^A)
⑥許可を得ずに出版した者・これを売った者は、出版物の版木・製本を没収する。売上金も没収する。
⑦政府の許可を得たと偽った場合は罰金とする。
⑧重版(この場合、出版者以外の者がその出版物を印刷して売ること)した場合、版木・製本を没収し、罰金とする。罰金の多少は著者・出版者に与えた被害の程度によって変わる。罰金は著者・出版者に与えられる。
…この内容を見ると、「言論・出版の自由」に制限がかかる場合は、
「宗教関係・ウソを書いて人に苦痛を与えること・政府の機密漏洩・政府の批判・風紀を乱すこと」の5つであったことがわかります。
これについて、同じく明治2年(1869年)の新聞紙印行条例では、次のように書かれています。
・明治2年(1869年)新聞紙印行条例
①新聞の記事に怪しい部分がある場合、編集者は弁解しなければならない。答えられない場合は罰金とする。
②法律をむやみやたらと批評してはならない。
③軍事のことについて、誤ったことを書いていたら罰を与える。
④天変地異・物価・火災・嫁娶(結婚)・生死・学芸・遊宴(宴会)・衣服・飲食・洋書の訳文・海外の雑話など、世の中に害のない内容は書いてもよい。
⑤虚偽のことを書いて人を貶めてはならない。
⑥むやみやたらと宗教のことを説いてはならない。
これを見ると、「機密」のことについては書かれていませんが、政府の批判、というのは法律の内容に対しやたらとあーだこーだいう事であったということがわかります。
批評自体を禁止しているのではなく、やたらと批評してはならない、と言っているのでまだソフトな感じはしますね(;^_^A
この内容が、明治4年(1871年)になると次のように変わります。
・明治4年(1871年)新聞紙条例
①新聞紙の目的は新たな知識を人に伝えることで、見る者の見聞を広めることで頑固で偏った考え方を改め、世の中を文明開化に導くことにある。
②外国に対し失礼なこと、外国に対し日本を大きく見せるようなことを書いてはならない。
③法律について少しでも悪口を書いてはならない。
④むやみやたらに宗教のことを説いてはならない。
⑤事実無根のことを書いて人を貶めてはならない。
⑥常識から外れたことを書いてはならない。
⑦人の心を惑わすようなことを書いてはならない。
⑧匿名の投書を載せてはならない。
⑨人々の行動をいましめるようなこと、新発明の器具のことなど、世の利益になるようなことはどんどん書いてよろしい。人に害を与えず、人を笑わせるような内容も書いてよろしい。しかし、酒色にふけるような生活に導くような文章は書いてはならない。
⑩不思議なこと・珍しい話を載せてもいいが、真実でないような内容の物は、そのようにはっきり書くこと。実際のことでなかった場合は、その後の号で弁明すること。
⑪文章はわかりやすく、やさしくすること。
⑫近い範囲の者だけに利益のある内容にしてはならない。
⑬新聞紙は、歴史書を書くように書くべし。そうすれば、でたらめなことを書くことが少なくなる。一方で、小説を書くようにも書くべし。そうでないと、まじめすぎて、人々は読みたくなくなる。
⑭新聞紙は人々を退屈させるようなものであってはならないが、起きていないことをあったかのように書き、そうでないことをそうであったかのように書いて人々の心をあおってはならない。
⑮発行の際、8部を国に納めること。
後半部分は今の新聞を書いている方々にも読んでもらいたい内容ですね(心がけておられると思いますが)。
また、書いてもいいものの例に、風雨水旱(風水害)・疾疫(伝染病)・盗賊・豊凶・昆虫草木…のことなどが追加されています。
制限については、法律の批判は少しも許さない、と変わっており、制限が厳しくなっていることがわかります(◎_◎;)
一方で、明治5年(1872年)、出版条例の内容は、次のように改められました。
・明治5年(1872年)出版条例
<変更点>
①出版物に、販売店の情報を記載する必要が無くなった(そりゃそうだ)
②書いてはいけない内容が、「妄に成法を誹議し人罪を誣告する事を著することを許さず」(できた法律を悪く言う事・虚偽のことを書いて人を貶める事)の2点になった。
政府の機密洩らしてもいいんでしょうか(;^_^A(新聞紙条例にも書かれていませんし…)
当時の政府は、法律の批判・虚偽のことを書くこと、を制限することに主眼を置いていたことがわかりますね(゜-゜)
明治6年(1873年)に改正(?)された新聞紙条例にもその傾向が見られます。
・明治6年(1873年)新聞紙発行条目
①国の体制を悪く言ったり、法律を議論したり、外国の法律を紹介したりすることで、日本の法律の妨害をすることを禁止する。
②政治・法律のことについて、やたらと批評することを禁止する。
③やたらと宗教の教えを書いて、法律の妨害をすることを禁止する。
④人々の心を惑わしたり、性に関してだらしがないような雰囲気に誘導することを禁止する。
⑤事実無根のことを書いて人を貶めてはならない。
⑥役人は、事務の事、外交のことを新聞に掲載してはならない(公開されているものは除く)。
⑦記事に誤りがあれば改めること。
⑧記事の内容に疑いがある時は編集者は弁解する責任があること。
「法律を少しでも悪く言ってはならない」から、「やたらと批評してはならない」に戻っています。
しかし制限が加わった箇所もあり、
外国の法律はこうなのに、日本の法律ときたら…!という風に書けなくなったり、
ようやく機密漏洩の禁止が盛り込こまれたりしています。
宗教の教えを書くのはなんでダメなんだろう、と思っていたら、
ここにようやく理由が書いてありましたね(;^_^A
〇〇教の教えではこうなのに、日本の法律はこうなのはおかしい!…となるのがイヤだったんですね(-_-;)
当時の政府はとにかく法律のことについて悪く言われるのがイヤだったようですが、
これに対して、津田真道(1829~1903年。官僚、政治家)は明治7年(1874年)4月に『明六雑誌』に「出版自由ならんことを望む論」を書きます。
その内容は次のようになります。
・野蛮の政治は人を束縛する。文明の政治は人を束縛しない。文明・野蛮を分けるものは、言論の自由があるかないか、である。人はそもそも自由である。「大悪魔王」であっても自由を妨げてはならないのであるが、言論の自由を、権力をもって禁止したり、法律をもって制限したりする場合が見られる。権力をもって自由な発言を禁止するのは、「野蛮の醜政」、論外である。法律をもって制限するのは、「半開の国」(野蛮・文明国の中間。主にアジア諸国)の専制政治でよく見られるし、文明国でも見受けられることである。イギリス・アメリカは言論の自由がある。人に迷惑を与えてはいけない、という条件があるだけである。フランスなどでは出版条例があり、政府の許可を得ないと出版ができない。フランスなどでは政治の議論が活発で、世論が沸騰しやすく、これが何度も政府が倒れるもとになったので、政府はこれに懲りて、治安を保つために言論を制限した、…というが、私は、言論の自由を妨げたのが、政府の倒れるもとになったと思う。日本の政府は、民間の人々が議論するのを憂えてはならない。出版条例があっても、年間数十~数百万にもなる出版物の語句をいちいち調べることは難しいだろう。政府は堂々として、小さなことにこだわらず、政令を出して出版の自由を認めるべきである。これが文明国に進むための近道であると思う。
しかし事態は津田真道の考えたものとは違う方向に進むことになります。
政府は言論・出版の自由の制限の度合いを強めていくのです。
その理由として、
同時代の末広鉄腸(重恭。1849~1896年。のち衆議院議員)は『新聞経歴談』で、
「前年副島・板垣の諸氏が民撰議院の献言を為せしより国民は参政権を得るの熱心を増加し速かに国会の開設あらん事を希望し、当時の慣用語にて云えば新聞社の多数は所謂急進論に傾き、政府の意思を代表して漸進論を主張する者は一の日々新聞あるにすぎず。各社其論鋒を一にして政府を攻撃し時には頗る激烈の議論ありたり。其の中に就き評論新聞と云う一ヶ月数回発兌する雑誌あり、其の社長は鹿児島人にて十年の役に西鄉に通じて禁鋼せられし海老原穆氏が社主となり、…其の社は実に長州派に反対する者の梁山伯なり。此の雑誌は毎号内閣を攻撃して余力を遣さず。殊に尾去沢鉱山一件にて井上馨氏を初め之に関係する人々の秘密を発摘して之を攻撃せしに至ては実に痛快を極めたり。此等は最も直接に政府の注意を呼起せしならん。且当時我が国内を観れば鹿児島には私学校の団体あつて何時破裂すべきを知らず、不平士族は天下に充満して兵乱の起るを待つ勢あれば、新聞紙の漸く勢力を増加して人心を煽動するは政府の最も危険とする所なり。是に於てか一二学者の献言により新聞条例を制定するに至れり。」と記し、
岡義武(1902~1990年。政治学者。東京大学教授)は『明治政治史』で、
「征韓論争、ついで民撰議院設立建白がなされて、世上でこれらについて種々論議が行われるようになると、諸新聞は世上の政論を記事として報道するようになったが、明治八年には多くの新聞は社説を設けて、政治問題、そのほか時の重要問題について新聞社としての意見を表明する有様になった。しかも、新聞がこのように次第に政治的色彩を帯びるにいたったとき、東京の代表的新聞のきわめて多くは反政府的立場をとることになった。それは、この前後の時期に新聞を主宰したものが薩長以外の諸藩出身の士族であり、しかも、有力な若干の新聞の中心には主家を倒した薩長に対する憤りと憎しみとに燃える旧幕臣たちがいたのによること、大である。そして、藩閥政治に対するこれら諸新聞の痛烈な攻撃、嘲弄の筆陣は、士族層を中心にひろく鬱積する現状不満の空気の中で大きな反響を世上に生み出すようになった。新政府は、その成立の当初には前述したように、新聞の啓蒙的役割をきわめて重要視して、新聞事業に対して保護、奨励の方針をとった。けれども、新聞が以上のようにして政治的色彩を帯びるにいたったとき、ここに新聞に対するその方針を改めて、新聞紙条例の改正と讒謗律の制定を行って、反政府的言論を厳重に取締るようになった」…と説明しています。
こうして、明治8年(1875年)に至って、新聞紙条例の改正(悪?)・讒謗律の制定となったわけです(◎_◎;)
・明治8年(1875年)新聞紙条例
第1条:許可を得ずに新聞を発行した場合、発酵を禁止、社主・編集人・印刷人に罰金100円。国の許可を得たと偽った場合は、罰金100~200円の上、印刷機も没収する。
第8条:筆者が変名を使った時は、禁獄30日・罰金10円。他人の名前を借りた時は、禁獄70日・罰金20円。
第12条:新聞でもって人をそそのかし、罪を犯させた場合、犯した者と同罪とする。
第13条:政府を変更したり、倒したりすることについて書いた者は、禁獄1年~3年。
第14条:法律を悪く言ったり、法律に違反した者をかばう記事を書いた者は、禁獄1月~1年・罰金5円~100円。
第16条:許可を得ずに建白書(政府に提出する意見書)を載せた者は、禁獄1月~1年・罰金100円~500円。
内容が非常に厳しくなり、また、内容が政府批判に対するものに偏っていることがわかります。
・讒謗律
〇事実かどうかを確認せずに人の名誉を傷つけること、これを讒毀(ざんき)という。悪い評判を広めること、これを誹謗という。出版物によって讒毀・誹謗する者は、次の罰を与える。
①天皇を讒毀・誹謗→禁獄3月~3年・罰金50円~1000円。
②皇族を讒毀・誹謗→禁獄15日~2年半・罰金15円~700円。
③役人を讒毀→禁獄10日~2年・罰金10円~500円。
役人を誹謗→禁獄5日~1年・罰金5円~300円。
④その他を讒毀→禁獄7日~1年半・罰金5円~300円。
その他を誹謗→罰金3円~100円。
「讒毀」は辞書で引くと悪口を言うことだと出てきます。
「誹謗」は辞書で引くと悪く言うことだと出てきます。
…実際には意味には違いはないのですが(;^_^A、ここでは讒毀のほうが程度がヒドイとみなされているようです。
「讒」だけで引くと、事実でない悪口を言う事だとでてきます。
「謗」だけで引くと、悪口を言う事だとでてきます。
こちらの方が合っているようですね(;^_^A
つまり、「誹謗」は実際に良くないことをしたことに対して攻撃することで、「讒毀」は良くないことをしてないのに、やったことにして攻撃するすることなので、「讒毀」の方が罪が重くなっているわけですね。
さて、法律の内容ですが、役人を批判から手厚く守っていることがわかります。
役人だけ士族・平民の中で独立して扱われていますからね(;^_^A
三宅雪嶺も『同時代史』で、皇族と役人の差が特に少なく、ほとんど同一である、と言っています💦
しかし、政治家を「誹謗」…批判することは悪いことなのでしょうか??
政治家は一般人と違い権力があるわけですから、批判ができないと、人々に都合の悪いことが行われたり、政治家に都合のいいことが行われたり、みんなから集めた税金を好き勝手に使われたりしてしまいます。
税金で生活し、税金を使う立場にある政治家に対する批判はあってしかるべきものです。
まぁ、確かに当時は、例えば『草莽雑誌』は「暴虐官吏は刺殺す可きの論」を載せ、『評論新聞』は1876年1月に「圧制政府は転覆すべきの論」を載せ、「政府の義務は人々を保護し、自由の幸福を受けさせることにある。それなのに、世には むやみにいばり、法律を増やし、行動・言論の自由を束縛する、人々の幸福の上で害毒でしかない政府がある。これは政府の義務を果たさない暴政府である。このような政府に対し、人民は精一杯抵抗し、やむを得ない場合は暴政府を倒して新たに自由の新政府を立てる必要がある。アメリカ独立の檄文には人民の自由を剥奪する暴政府は倒して新たに自由の政府を作るのは人民の義務である、とあり、フランス革命の檄文にも同様の文章が載っている。今の日本政府は江戸時代の束縛をゆるめ、人民に自由の権を与え、人民に大いに安全幸福を与えている。今、日本に生きる人民はなんと幸せなことか。しかし今後、先に述べた暴政府が現れないとも限らない。その時には人民の義務を果たして政府を倒さなくてはならない」と書いて革命をあおったり、「四大臣を斬らんとするの建言」を載せ、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・大隈重信の暗殺をあおったりしていたので、
末広鉄腸が「政府が此の処置を取りしは幾分か治安を維持するの道に於て已を得ざるもの有りしならん」と『新聞経歴談』で述べているように、度を越えた誹謗を抑えるためには仕方ない面もあったかもしれません。
それでも、政治家に対する批判全てを禁止するかのような法律はどう見てもおかしいでしょう。
感情的な批判は取り締まられるべきですが、論理的な批判は許されるべきです。
0 件のコメント:
コメントを投稿