「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」第29回「江戸生蔦屋仇討(えどうまれつたやのあだうち)」にて、山東京伝の代表作の1つ、『江戸生艶気樺焼』が出てきましたね!
高校の日本史教科書にも載っていましたが、自分は『金々先生栄花夢』しか覚えていませんでした(;^_^A
いったいどういう作品なのか調べるととても面白かったので、紹介したいと思います!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●戯作界のトップランナー
曲亭馬琴が『近世物之本江戸作者部類』で「天明(一七八一~八九年)中、初てかたき討のくさざうし(草双紙)を著す。是その初作也。自然と滑稽の才、世に勝れたりければ、寛政中より文化に至る(一七八九~一八一八年)まで、この人の作いたく行れて、当時第一人と称せらる」と評した山東京伝(1761~1816年)。
山東京伝の本名は岩瀬田藏(でんぞう・のぶよし。曲亭馬琴によると、京伝は寛政の頃まで「灰田」という名字であった、という)、後に醒(さむる)で、
父は伊勢出身で9歳の時に江戸にやって来て、その後京橋銀座にある町屋敷の家主になっていた人物でした。京伝はつまり江戸の町人の子として生まれたわけです。
曲亭馬琴によれば京伝の家は「富るにはあらねども、而も貧しからずぞ見えし」と書いているように貧乏なわけではなかったようです。
京伝は若いころ浮世絵を北尾重政に学び、画号は「政演(まさのぶ)」と名乗っていました。この画才を活かして1778年頃から黄表紙(草双紙の一種。ほぼすべてのページに絵が入っている娯楽小説)の挿絵を描き始め、1780年に蔦谷重三郎が黄表紙出版を開始した際には、この年重三郎が出版した10点の黄表紙のうち3点の挿絵を描いています。
(曲亭馬琴は『近世物之本江戸作者部類』にて「画は得意にあらざりければ、棄て多く画かず」と記している。例えば1808年に京伝が書いた『岩井櫛粂野仇討』や『絞染五郎強勢談』『八重霞かしくの仇討』『妬湯仇討話』は、歌川豊国が絵を描いている)
そして挿絵を描き始めるのと時を同じくして黄表紙も書き始めます。文も書いて絵も描くという二刀流であったわけですが、これは京伝に限ったことではなく、『金々先生栄花夢』を書いた恋川春町も文・絵の二刀流でしたが、非常に珍しいことであったのは確かです。
大田南畝は作品や作者をランク付けた『岡目八目』(1782年)で、「作者之部」では京伝を4番目(1番目は朋誠堂喜三二、2番目恋川春町、3番目芝全交)に、「画工之部」では政演を2番目(1番目は鳥居清長、3番目は北尾政美)に挙げています。
さて、今回紹介する『江戸生艶気樺焼』(一七八五年刊行)も、山東京伝が作・画両方を担当した作品になるのですが、これは「大に行れ再板におよべり 依之京伝の名ますます雷同せり」と京伝の弟の京山が記しているほどの大ヒットとなった作品でした。
(※『江戸生艶気樺焼』は「ウナギの蒲焼」をもじったものであるが、読みづらかったようで、一七九三年以降の版は「江戸生浮気蒲焼」に改められている)
明治時代には幸堂得知(高橋利平)が『大通世界』(1891年)や『黄表紙百種』(1901年)にて「此作は二十三部(※式亭三馬の『億説年代記』の最後に載せられている「名作青本略記」に式亭三馬が選んだ名作23作品のタイトルが紹介されている)の内には洩れたれども名作なり 京伝の戯作中善玉悪玉と此艶次郎の低ひ鼻は世の中の流行ものと成り後に京伝鼻といひしは則ち艶次郎に書し獅子鼻の事なり 又ニヤケた男を艶次郎といひしも是が始めなり」と『江戸生艶気樺焼』を評価しています。
では、いったいどのような作品であったのか、見てみましょう。
●あれやこれやのモテモテ大作戦
ここにいるのは、「百万両分限」(百万長者)と言われた仇気屋の一人息子、艶二郎(年は19・20歳頃)は、「貧乏ほどつらい病は気にしないでよいけれども大金持ち故の病にとりつかれないと良いが」と心配されていたが、生まれながらに「浮気」(色恋沙汰)を好み、「新内節」(浄瑠璃節の一種。当時大流行した)の正本(脚本)を読んで、「こういう身の上(境遇)になったら、さぞ面白かろう。よい月日(運勢)の下で生まれた手合いだ」とその主人公の玉木屋伊太八・浮世猪之介などをうらやましく思い、この者たちのような人々に知れ渡るような色恋沙汰ができれば、命を捨てても惜しくないと、馬鹿らしいことを考えていた。
そこで、艶二郎は近所の道楽息子の北里(きたり)喜之介(吉原通いを好むという意味の名前)、人の太鼓持ち(ヨイショ)ばかりする医者の悪井志庵(悪巧みという意味の名前)と親しくなり、人目を引く色恋沙汰の方法について相談する。
艶二郎「とんでもなく浮名の立つ仕打ち(やり方)がありそうなものだ」
喜之介「まず めりやす(安永・天明[一七七二~八九年]の頃に流行した長唄。『大辞泉』には、「物思い・愁嘆などの無言の演技のとき、叙情的効果を上げるために独吟または両吟で演奏するもの。もの静かな沈んだ曲調が多い。メリヤスのように曲が劇に合わせて伸び縮みするからとも、「滅入りやすい」調子の曲だからともいう」とある。「メリヤス」は延宝 ・元禄年間[一六七三年 ~一七〇四年]にオランダからもたらされたニット生地で作られた製品のことで、ポルトガルやスペインで「靴下」を意味する「メイアス」[meias]・「メディアス」[medias]がなまったもの)というやつが、浮気にするやつさ。こいつを知らねばなりやせん。(恋)文の文句には、だいぶ伝授(奥義)のあることさ(『女用文忍草』などという、恋文のレクチャー本なども売られていた)。封じ目をつけぬと、縁が切れると申しやす。文の末へ幼名を書くようになると、難しいね(遊女が恋文に本名を書くような深い仲になってしまうと、後が面倒だ)」
志庵「ひっ裂き目に口紅のついているのは、いつでも地者の文ではねえのさ(巻いた紙に文章を書き終わったら、その部分で切り取っていたが、その際に切り口を口で濡らして裂きやすくするやり方があった。その際に口紅がついたものは、素人ではないとわかる、と言っている)。どねえに地味でも、耳のわきに枕だこのあるので、商売あがりは、ソレじきに知れやす(どんなに地味なようにしていても、耳のわきにタコができているのは、遊女上がりだというのがわかる)」
①当時は愛人の名前を体に入れ墨する(「○○命」などと書いた)のが流行っていたが、艶二郎は色男(モテ男)と見せかけるために痛いのを我慢して、両方の腕、指の股まで、2・30も架空の名前を彫らせた。
喜之介「中にちと消えたのもなくてはわるいから、あとでまた灸をすえやしょう」(別の女ができた際には名前を灸で焼き消して上書きしていたという。たくさん上書きした跡がある=モテているということ)
艶二郎「色男になるも、とんだつらいものだ」
②艶二郎は、熱狂的なファンが役者の家に駆けこむのを浮気なものだとうらやましく思い、近所の評判の芸者である「おえん」という踊り子を50両で雇うことにした。
志庵「これが頼みの、ともかくも、おあやかり申して、ちと出世の筋さ」(あなたが頼みだ、とにもかくにも、あなたの名前にあやかることが、艶二郎が色男と評判になるために必要な筋書きだ)
おえん「駆けこむばかりなら、随分承知さ」
駆けこんできた「おえん」をのぞき見て、仇気屋に奉公する下女たちは「おらが若旦那に惚れるとは、千家か古流か遠州か知らぬが、とんだ茶人(変わり者)だ」とささやきあう。
おえんは「みずからと申すは、そも、寄るべ定めぬ転び妻、この新道に住みなれて、ひとの心を浮気にする、白拍子でござんす(私は決まった夫を持たない、日ごとに男を取り替えるような、男をその気にさせる遊女であります)。茅場丁の夕薬師で、こちの艶二郎さんを、植木の陰から見染めました。女房にすることならずは、お飯など炊いても居りたいのさ(飯炊き女でも構いません)。それもならぬとおっしゃれば、死ぬ覚悟でござります」と、要望通りのセリフを述べ立てる。
艶二郎は「ハテ色男というものは、どんなことで難儀をしようかしれぬものだぞ」とわざと困ったように言い、それから、おえんに、「もう十両遣ろうから、もちっと大きな声で、隣あたりへ聞こえるように、頼む頼む」と要望する。
これを見て番頭の候兵衛は、「若旦那のお顔では、よもやこういう事はあるまいと思ったに。コレお女中、門違いではないかの(駆けこむ家を間違ったのではありませんか)」と「おえん」に声をかける。
艶二郎の親の弥二右衛門は、頼まれてやったことだとはつゆ知らず、気の毒に思って、「おえん」に色々と話をして帰らせた。
③このことは世間でさぞ噂になるだろうと思っていたら、隣の家の者でさえ知らなかったので、拍子抜けしてしまった。そこで、今回の顛末を文章に起こして一枚刷りの印刷物にし、一両でやとった読売りたちに江戸中にこれを売らせた。
読売り「評判評判。仇気屋の息子艶二郎という色男に、美しい芸者が惚れて駆けこみました。とんだ事とんだ事。こと明細こと明細(詳しいことはこれに書いてある)。紙代板行代に及ばず、ただ(無料。瓦版はふつう3~4文で売られていた)じゃただじゃ」
女「なにさ、かたもない事(根も葉もないこと)だのさ。みんなこしらえ事(つくりごと)さ。ただでも読むが面倒でござんす」
④艶二郎はくしゃみをするたび、世間が俺の事を噂しているのだろうと思っていたが、一向に町内の者でも知らないので、かくなる上は「女郎買い」(遊女と遊ぶこと)をして浮名を立てようと決心した。そこで北里喜之介・悪井志庵とともに中の丁浮気松屋(引手茶屋。遊女と遊ぶ際の窓口であった)にやって来て、さも「通人」(粋な男)なようにふるまった。
女「瀬川さんと歌姫さん(どちらも吉原の遊女)のうち(先客がいないかどうか)を聞きに遣わしましたが、さっき小松屋で、このも(かむろ。遊女見習の少女。花魁の身の回りの世話をする)を見かけましたから、歌姫さんはてっきりお悪うござりましょう。木挽丁で高麗屋(歌舞伎役者の松本幸四郎)が、墨河さんをする(扇屋で遊ぶ)そうでござりますね」
艶二郎は浮名屋の「浮名」という手のある(床上手な)女郎に決めて、必ず惚れられようと思って、精一杯に粋な男なように取り繕い、身づくろいにも大変に気を遣った。色男というのもさてさて窮屈なものである。
志庵「モシおいらん。おまえをば世間で、とんだ手のある女郎だと申します」
喜之介「大黒屋(吉原の元締め)じゃァねえが、なんでも女郎の総録(元締め)だね」
浮名「茶を言いなすんな(いい加減なことを言わないでください)。拝みんす(お願いします)」
⑤艶二郎は女郎買いをしても家でやきもちを焼く者がいないと張り合いがないと思って、肝入(周旋屋)に頼んで、やきもちさえよく焼く女であれば、どんな容姿でも構わないと注文を付けて、40近い女を200両で妾とした。
艶二郎「去年の春、中洲で買った地獄(素人の売春婦のこと。由来は諸説あるが、『了阿遺書』によると地者[素人]の中でも極上、から来ているという。地獄は上品は金一分、下品は金二朱という高値であったという)ではねえかしらん。小便組(妾として買われたが、わざと寝小便ばかりして、お金だけ手に入れてすぐに解雇されようと企む者)などというところは御免だよ」
妾は、「わたしをお抱えなされましても、大かた女郎買や色ごとで、わたしをお構いはなされますまい」と、すでにやきもちの手並みを見せていた。
⑥艶二郎は根っからの浮気者(いろんなところに目移りする)であったので、深川・品川・新宿の遊女と片っ端から遊んでみたが、やはり浮名ほどの床上手な女郎はいないと思ったものの、ふつうに遊ぶのは面白くないと考え、悪井志庵を表向きの客にして、浮名を揚げ詰め(特定の遊女を連日独占して遊ぶこと)して、自分は新造買い(妹分の遊女見習いの新造を買うと見せかけて、実は姉女郎と密会するやり方)にて、浮名と密会して、思い切り金を使って遊び、この不自由さが「日本」(当時の流行語で最高という意味)だ、とうれしがった。
艶二郎「てまえがおれがとこへ来ると、あっちらのお大尽(金持ち客)がやけを起こして、遣手(遊女の監督をする女性)や廻し(遊女屋の雑用)を呼んで、小言(文句)を言ううちの心持ちのよさは、どう安く踏んでも(見積もっても)、五六百両がものはあるのさ」
浮名「ほんにぬしは粋狂(物好き)な人でござりんす」
志庵「おれが役もつらい役だ。座敷(酒宴)のうちはお大尽で、床がおさまると(酒宴後は浮名と艶二郎が寝床に入るので)、蒔絵の煙草盆とおればかり。これも渡世(世渡り)だと思えば腹も立たぬが、五ツ蒲団・錦の夜着で寝るだけ、ぢ(得)にならねえ」
⑦艶二郎は河東節の『助六廓の家桜』にある「帰るさ告げる家桜、口舌(くぜつ)の蕾、ほころびし袖をかぶろが力草、引かれて行くや後髪、心強くも桐が谷(やつ)」(無断で他の遊女屋の花魁と遊んでいることがわかった客を、吉原の入り口の大手門で待ち構えて、無理矢理に先に遊んだ花魁がいる遊女屋へ引っ張っていくこと)の一節を思い出し、他の客ばかりこのような目に遭っているのをうらやましく思って、何も不義理なことはしていないのに、新造(若い遊女)や禿(かぶろ)に頼んで、羽織ぐらい破れても構わないから、と言って大手門からひきずらせた。新造・禿は人形をもらう約束であったので、無駄口を言いながら艶二郎を引っぱっていった。
艶二郎「これさ、まァ離してくれろ。こうひきずられて行く所は、とんだ外聞(世間の評判)がいい」
艶二郎が5・6日ぶりに家に帰ったところ、待ちかねていた妾はここぞとばかりにくり返し考えていた言葉をかけて存分にやきもちを焼く。
妾「ほんに男というものは、なぜそんなに気強い(つれない)もんだねえ。それほどに惚れられるが嫌なら、そんないい男に生まれつかねえがいいのさ。また女郎も女郎だ。ひとの大事の男をとめておきくさって。又、おまえさんもおまえさんだ。あい、そうなすったがいいのさ(せいぜいそのようにするといいでしょう)と、まずここぎりにしやしょう(今はこれくらいにしましょう)。このあとは、八条と縞縮が来てのことさ(八条縞と縞縮緬の着物をいただいたなら機嫌を直します)」
艶二郎「恥(はずか)しいこったが、生まれてから始めて焼餅をやかれてみる。どうも言えねえ心持ちだ。もちっと妬いてくれたら、手前(てめえ)がねだった八条と縞縮緬を買ってやろう。もちっと頼む頼む」
⑧艶二郎は役者や遊女が寺社に名入りの提灯・手拭を奉納するのにならって、回向院の道了権現の開帳(天明4年3月15日~5月5日)に提灯を奉納する事にし、浮名と自分の紋を組み合わせた比翼紋を提灯につけるように、北里喜之介に田町の提灯屋に注文させた。手拭も中屋に比翼紋で注文した。これもよっぽどの「痛事」(出費)であった。とくに願掛けをすることも無かったが、奉納するというのは、なるほど売名行為であった。
喜之介「とんだ急ぐね。骨は繁骨(骨の数を多くすること)にして、側は本塗りに(して、留め金は)真鍮の金物。いくらかかってもいいから、随分立派にしてえの」
提灯屋「ちと急にはできかねます。この間は、吉原の桜の提灯をしております」
⑨艶二郎は芝居を見て、とかく色男というものはぶたれるものだと思い、しきりにぶたれたくなり、遊里周辺のならず者4・5人を1人につき3両で雇い、吉原で人通りの多い中の丁の通りでぶたれることにして、引手茶屋の2階には男芸者の藤兵衛を雇ってめりやすを唄わせて(雰囲気を盛り上げ)、乱れた髪がイケてると考え、月代を青く見せる顔料を塗り、吉原の揚屋町で売られた頭髪用の水油である「銀出し」を使って髪を結い、髻(たぶさ。もとどりのこと)をつかむとすぐにほどけるようにしたが、ぶたれたところが悪く苦しい様子になってしまい、乱れ髪どころではなくなり、気付け(失神した者の意識を回復させること)をしろ、鍼を打てと騒ぎになって、ようやく意識を取り戻した。この際、よっぽどの馬鹿者だという浮名(憂き名。悪い評判)が少しばかり立った。
「うぬがようないい男がちらつくと、女郎衆があだついて(恋心を起こして)ならぬゆえ、おいらもちっと焼餅の筋だ」というセリフは、ならず者たちに注文して言わせたものである。
ならず者「切落しから、罰が当たるという場だ」(歌舞伎劇場で、平土間の最前列の大衆席から、主役をぶつ役者に「罰が当たるぞ」と野次が飛ぶ場面だ)
艶二郎「その握りこぶしが、三分(1両の4分の3)ずつについている。ちと痛くてもよいから、随分見栄のよいように頼む頼む」
⑩艶二郎は、金持ちだから、これは道楽に過ぎないだろう、という世間で噂されていることを知り、急に金持ちでいることが嫌になり、勘当されたくなって、両親に願ったが一人息子であったので、勘当したくないが勘当しようとしたところ、母がとりなすので75日間だけ(人の噂も75日であることから)勘当する事にした。
父「望みとあるから是非がない(どうしようもない)。早く出てうせろ」
番頭「これは若旦那の思し召し、然るびょう存じませぬ(適当なことだとは思えません)」
艶二郎「願いの通り御勘当とや。有難や有難や。四百四病の病より、金持ちほど辛いものはないのさ。可愛い男はなぜ金持ちじゃやら(好いた男はなんで金持ちなのか、と嘆く女性の気持ちを唄った歌謡の文句)」
⑪薬研堀の名のある芸者7・8人、艶二郎に雇われて、勘当が許されるようにと浅草の観音へ裸足参りをする。なるほど、裸足参りというのは、だいたいは色恋沙汰といった軽薄な動機から行われるものである。
芸者「ええかげん(いい加減)になぐって(手を抜いて)、早く仕舞わおねえ」
別の芸者「十度参り位でいいのさ」(本来は百度参りだが手を抜いて十度参りで済まそうとしている)
⑫艶二郎は望み通りに勘当されたけれども、母親から欲しい分だけ金が送られてきたので何不自由なく生活していたが、浮気な商売がしてみたくなって、色男のする商売は地紙売り(扇子の紙を売り歩く商人。女性客の気を引くために、役者のマネをしてみせたり、派手な服装をしていたりした)だろうと考え、まだ夏にもならないのに地紙売りに出かけたが、一日たっぷり歩いて足にまめができてこりごりになった。この時、とんだ変わり者だとよほどの浮名(この場合は悪い評判)が立った。
女「ヲヤ鳥羽絵(江戸時代の滑稽な漫画)のような顔の人が通る。みんな来てみなせい」
艶二郎「外を歩くと、日に焼けるであやまる(困る)。困ったものだ。また惚れたそうだ。色男もうるさいぞ(面倒なものだ)」
⑬艶二郎はますます調子に乗って、あれこれとするうちに75日が経って、家の方からは勘当を許すと毎日催促してきているのに、いまだに浮気をしたりないので、親類たちに取り成しをさせて、20日の延長を願った。
艶二郎は心中ほど浮気なものは無いと考えたが、命を捨てるつもりはなく、しかしそれでは浮名が立たないので、喜之介と志庵に南無阿弥陀仏と言ったところで止めてもらうことにした。そこでまず花魁の浮名を1500両で身請けして、心中に必要な道具を集める。揃いの小袖には「肩に金てこ裾には碇、質に置いても流れの身」という安永年間(一七七二~八一年)に流行した俗謡の文句を染めた。これは呉服屋の中屋と山崎屋の発案であった。二人の辞世の句は、印刷して、中の丁に配った。
志庵「花魁が描いた(極楽浄土に多数咲いているという)蓮の絵を大奉書(大判の紙)に空摺り(絵の具を使わずに印刷したもの)とは、いい思し召しつきだ」
喜之介「脇差は箔置き(銀箔をかぶせたもの)にあつらえました」
浮名花魁は、たとえ嘘の心中であっても外聞が悪いと、なかなか承知しようとしなかったが、これを首尾よくつとめれば、好きな男と結婚させてやろうと、由良之助(『仮名手本忠臣蔵』などに登場する大星由良之助のこと)が言うようなセリフでもってよくよく説得して承知させた。秋の歌舞伎興行において、艶二郎が無利息で出資するという約束で、興行主に頼んで歌舞伎の作者桜田治助に脚本を書いてもらい、立方(たちかた。歌舞伎において踊る者)は(市川)門之助と路考(瀬川菊之丞)にさせることにした。はたき(失敗し)そうな芝居である。ふつうに身請けしては色男でないと、駆け落ちの体にすることにして、さらに檽子(れんじ。窓などに設けた格子)を壊して梯子(はしご)をかけ、二階から駆け落ちする事にする。遊女屋の主人は、「すでに身請けされた女郎なので、好きなようにされたらよろしいですが、檽子の修理代は200両いただきますよ」と欲張った。遊女屋の者たちには、お金を渡して、遊女屋から艶二郎と浮名が逃げた後で方々に言いふらすように言い含めた。
艶二郎「二階から目薬とは聞いたが、(二階から)身請けとはこれが初めてじゃ」
遊女屋で働く者「お危のうござります。御静かにお逃げなさりませ」
遊女屋で働く者「花魁、ごきげんようお駆け落ちなされまし」
心中をする場所はぱっとしたところがいいと、三囲の土手と決めて、夜更けでは気味が悪いから、宵(日が暮れて間もなく)の頃に決行と決め、遊女屋・舟屋・艶二郎の太鼓持ち・取り巻き、芸者たちが伊勢参りの見送りのように袴羽織で大川橋まで見送りに来て、多田の薬師あたりで艶二郎はみんなに別れを告げて、「艶二郎は日ごろの願いがかなったので、思い残すことなく心中することができる。この場所こそ良い最後の場所だ」と言って脇差を抜いて、「今まさにこの時だ」と「南無阿弥陀仏」と言ったところ、そこに稲叢(刈り取った稲を積み重ねたところ)の陰から黒装束の泥棒二人が現れて、艶二郎と浮名の二人を真っ裸にして服を奪い取った。
泥棒「わいら(お前ら)はどうで(どうせ)死ぬものだから、おいらが介錯してやろう」
艶二郎「これこれ、はやまるまい。われわれは死ぬための心中ではない。ここへ止め手が出るはずだ。どう間違ったかしらん。着物はみんなあげましょうから、命はお助けお助け。もうこれに懲りぬことはござりません」
泥棒「此以後こんな思い付きは、せまいか(しないか)せまいか」
浮名「どうで(どうせ)こんなことと思いんした」
『仇気屋艶二郎 浮名屋浮名 道行興鮫肌(浄瑠璃の道行文のパロディー)
「朝に色をして夕に死すとも可なり」(朝に色事をすれば夕方に死んでも構わない。論語の「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」をもじったもの)とは、さても浮気な言の葉ぞ(言葉であることよ)。それは論語のかたい文字、これは豊後のやわらかな(落首に「河東裃外記袴 半太羽織に義太股引 豊後可愛いや丸裸」というのがあり、三味線音楽を服装に例えている。河東節は裃、外記節は袴、判太夫節は羽織、義太夫節は股引とするなら、豊後節は丸裸で可愛い、と言っているのにかけたもの)、肌と裸の二人して、結びし紐を一人(一つに)して、解くに解かれぬ疑い(本当に心中するのだろうか?という疑い)は(「結びし~」は、『伊勢物語』のパロディー)、ふしん(普請と不審をかけている)の土手の高みから、とんと落ちなば名や立たん(浮名が立たないだろう)、どこの女郎衆かしらみ紐(知らない、と蝨紐を掛けている)、結ぶの神(縁むすびの神と掛けている。「とんと~」は河東節の「とんと落ちなば名は立たん。どこの女郎衆の下紐を結ぶの神の下心」から来ている)もあちら向さんしょ醬油(そっぽを向く、というのと山椒醤油を掛けている)の焼きずるめ、ぴんとひぞる(すねる、とピンと反る、を掛けている)も今ははや、むかしとなりし中の丁 外八文字(花魁道中の時の足の運び方)もこうなれば、内七文字にたどりゆく。涙にまじる水ぱな(鼻)に、濡らさん袖はもたぬゆえ、下たのおびをぞしぼりける(下着の腰巻でぬぐうしかなかった)。身にしみわたる東風(こちかぜ)に、鳥肌だちしこの素肌、殿御のかおは薄墨に、かく玉章とみる雁に(「薄墨~」は『後拾遺集』から来ている)、便りを聞かんと書く文の、仮名で鉄挺裾模様(仮名、と鉄[かな]を掛けている)、ゆかり(紫と碇を掛けている)の色も七ツや(質屋のこと)の、名にながれたるすみだ川、たがいに無理を五百崎(言おうと隅田川の庵崎をかけている)の、鐘は四ツ目や(時の四つ、十時頃と四目屋[淫具を売っていた店]を掛けている)長命寺、君には胸をあくる日(打ち明ける、と夜が明ける、を掛けている)の、まだ四ツ過ぎの緋縮緬、ふんどしながき春の日(長い、と永いを掛けている)の、日高の寺にあらず(まだ日が高くない、というのと掛けている)して、はだかの手合いそぎ行く引三重牛は願から鼻を通す(自分から望んで禍を求めるという諺)」
この艶二郎の趣味の悪い心中が、この時世間へぱっと広まって、渋うちわ(和紙に柿渋を塗ることで長持ちするようにしたもの)の絵にまで描いて売りだされた。
艶二郎「おれはほんの粋狂でしたことだから是非が無い(仕方がない)が、そちはさぞ寒かろう。世間の道行は、着物を着て最期の場へ行くが、こっちのは裸で家へ道行とは、大きな裏腹(あべこべ)だ。緋縮緬のふんどしが、ここで映えたもおかしい、おかしい」
浮名「ほんのまきぞえで難儀さ(面倒なことになった)」
艶二郎は、ちょうど勘当の期限も切れたので、こりごりして家へ帰ってみると、衣桁(いこう。衣類をかけて置く家具)に三囲で奪われた小袖が掛けてあるので不思議に思った。そこに、親の弥二右衛門・番頭の候兵衛がやってきて説教をする。艶二郎はやっと世の常識を知って、真人間になり、浮名花魁も、艶二郎の男ぶりの悪さも不承不承がまんして、他に行く当てもないので、夫婦となり、艶二郎はもともと金には困っていなかったので、家は末ひろがりに栄えたが、しかし、一生の浮名の立ち納めに、これまでの事を草双紙にして世間へ広めたいと思い、(山東)京伝に頼んで書いてもらい、世の浮気者たちへの教訓とした。
弥二右衛門「若き時は、血気いまださだまらず、いましむる事いろいろあり(『論語』に「少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り」とあり、これをもじっている)ということを知らぬか。すべて案じ(思いつき)が高ずる(度を越す)と、みなこうしたものだ。おそろしき泥棒とまで身をやつせし(変装した)われわれが工夫の狂言、以後はきっとたしなみおれ(つつしむがよい)。喜之助や悪井志庵とも、もうつきあうまいか。そちばかりではない、世の中にだいぶこういう心意気の者があるて」
艶二郎「ここで焼餅をやかれては大難儀だから、妾もどこぞへかたづけましょう」
浮名「わたしは大きに(ひどく)風邪をひきました」
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