社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 6年以上前の札差からの借金は帳消し⁉~棄捐令

2025年11月6日木曜日

6年以上前の札差からの借金は帳消し⁉~棄捐令

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

●札差とは

鈴木寿氏『近世知行制の研究』によれば、江戸時代、幕府の家来の武士(つまり旗本・御家人)の11%は自身の土地を持ち、その土地の年貢を得て生活していましたが、残りの中・下級の武士は自分の土地を持たず、米をもらって生活をしていました。

つまり、ほとんどの武士はサラリーマンのような生活を送っていたわけですね。その米(切米。俸禄米。旧暦1・4・9月の3季に分けて支給された。本来は秋の収穫後の9月のみであったが、1675年以後、その一部を前借するという形で1・4月にも支給されるようになった。1・4月がそれぞれ4分の1、9月が4分の2)の受け取り方について、『業要集』には、浅草の御藏(幕領から集まってきた年貢米を保管する倉庫)に出向いて、来た順に自身の名前が書かれた受け取り証明書である切米手形(札)を[藁苞(わらづと。藁を束ねたもの)に]差し、順番待ちをする、とありますが、末岡照啓氏『徳川家臣団と江戸の金融史』によると、順番待ちのために近辺の米屋で休憩している際に、その「米屋と親しくなり、請取業務を代行」させるようになった…つまり、自分の名前を書いた差し札を代わりに差してもらい、米も受け取ってもらうようにした、この差し札を用いた受け取り代行サービスが、「札差」の名前の由来であり起源となったそうです(横井時冬氏の札差考には、「札差といふ名称は、昔庫米受取手形の渡るや、其人名をしるして、これを割竹に挟み、蔵役所の藁包に挿したるに濫觴す、⋯札差とは旗本の庫米受取方より売買までを受負ふ所の商人」とある)。

(※差し札は天和年間[1681~1683年]から名前を書いた玉に代わり、さらにその玉を使ってくじ引きをし、自分の玉が落ちた順番に米を受け取る方式に変更された)

武士が俸禄米の受け取りを札差に委ねたことについて、

三田村鳶魚は「江戸時代の法定利率」にて、「御蔵の前に掛茶屋が数軒あって、俸禄を請取に来た本人若しくは代人が其処に休憩するだけであったのが、現米を請取って自邸へ引取り、それから商人相手に剰余米を払うという、不得手な事柄に迷惑したので、何時か払米を此の掛茶屋に託し、又た蔵米請取手続をも委ねて、依頼者たる武士等は御蔵へ出頭せずとも済むような便宜な事になった」と記し、

鈴木直二氏『江戸における米取引の研究』には、平沼淑郎(1864~1938年)が札差の起源について「旗本御家人達は自ら米蔵へ行つて扶持米を受取るのは武士の外面上それを嫌ひ、且又その受取方手数の繁雑にしてそれによる無駄な日時の空費を避ける為め、米倉附近の茶屋店人をして自分の扶持米を代理受取らしめ、以て叙上の不便を取除かうとしたのである、それが札差業務の濫觴である」と講述した、とあります。

また、札差のサービスは受け取り代行にとどまらず、受け取った米を武士の食べる分を除いて現金化し、食べる分の米と現金を武士に渡すようになります。至れり尽くせりですが、もちろんタダではなく、手数料(米100俵につき、受取手数料が金1分[1分は1両の4分の1]、売却手数料が金2分)がとられました。

武士は、その後札差に対して受け取り代行・現金化サービスだけでなく、「蔵米を引当に家計費を借用するようにな」ります。蔵米を担保にして借金をするようになった、というのですね。本当は受け取った米を売ってお金に換えて、それで生活するのですが、それだけでは不十分な時、米を売って得られるもの以上のお金を借りたわけです。

借金の利息について、25%であったのを、幕府は1724年に15%と公定しましたが、それではやっていけない、せめて18%は欲しい、と札差たちが泣きついたので、これに対し幕府は「15%を超える少々の分は当事者同士の相談で決定する事」と返答していますから、その後の利率は15%を超える数字であったようです。1749年には、幕府は利率を改定して18%と定めています。また、武士は利息とは別に「礼金」という者も札差に支払っていました。「礼金」とは何に対する礼なのか?実は、後でも述べますが、札差は資金が潤沢にあったわけではなかったようで、自身の持っている金だけをもって金貸しをしている者は少なく、そのため、他の金貸しから金を借りて、武士に渡していた…つまり借金の代行、借金の仲介をしていたのですね。武士の代わりに借金を取りまとめてくれた、その礼ということで「礼金」を払っていたようです。もしこの「礼金」が無かったら、札差は利益が無くなってしまうことになります。金貸しへの返済をしなければなりませんから。金貸しの利率が15%を超えていたら、それは損をすることになってしまいます。だから、どうしても札差は15%を超える上乗せ分が欲しかったのであって、利率は高率にならざるを得なかったのです(三田村鳶魚は「掛茶屋が周旋した金融は、自分の資金ではないから、…資本主から借り出して来て、借款が成立した度毎に御礼を貰ったに違いない。借金する武士は資本主に払う利息の外に、此の御礼を負担しなければならぬ。利息と御礼とを合算すると此の借金は、世間一般のものよりも割の悪いものになる。慥に御礼だけ率が高いのだ。斯うした訳で蔵前の利息は率であるべき因縁を持つて居る」と述べている)。

しかし疑問なのは、武士はなぜ利率が高い札差から金を借りたのか?ということです。俸禄米の受け取り代行業をしていたので便利であった、というのもあったでしょうが、実はやむにやまれぬ理由があったようです。

幕府は1661年から1843年までの間に、8度も借金に関する訴訟は受け付けない…各自で相談して解決するように、との「相対済令」を出しています。つまり、武士が借金を返さない、と言ってきても金貸したちはこれを訴え出ることができなくなったわけです。

そうなると、金貸したちは武士に金を貸すことに二の足を踏むようになります(三田村鳶魚は又たも借金踏倒令を抛げ付けられて、貸方の町人は何とあろう。さもなくてさえ武士に対する債権は不安なのに、今は全く踏倒されるのである、斯ういう危険な放資は誰もする筈がない。此の際武士に金を貸す者があろうとは思えぬ」と述べている)。

そこで、8代将軍・徳川吉宗が考えた作戦というのが、武士専門の金貸しを創設する事であり、そこで白羽の矢が立ったのが武士の俸禄米受け取り代行を担当していた浅草御藏前の茶屋・米屋などの商人であったわけです。

1723年、吉宗はまず、伊勢屋八郎兵衛なる商人に、これまで札差たちが半ば独占的に取り扱ってきた蔵米を取り扱わせることとし、しかも「いきなり武士全員の蔵米を取り扱うのは難しいだろうから、まずはできる分だけ取り扱い、1年後に状況を見て取扱人数を増やすように」(『享保八録』)という指示まで与えました。

これに驚いたのが札差たちで、翌年、幕府に次の事を請願しました。

・以前から浅草御蔵前で蔵米を取り扱っていた109人を札差の株仲間として認可し、株仲間以外の者に営業を認めないで欲しい(「百九人限札差宿相勤外之者、猥不仕候様に御觸流被為成下候様奉願上候」)。

・認めていただけるならば、借金の利率は25%から20%に引き下げます。米相場に関する不正も行いません(北原進氏は「寛政の『棄捐令』について」で、「札差は、その経営の中に米売方仲間・米屋仲間と称する私的な米仲買株仲間を擁し、蔵前相場を自ら立てて自らの手に引落す体制を、この頃まだ保っていた。すなわち彼らは、蔵米の換金手数料と債務者旗本御家人から収奪する高利との、公認収益のほかに、米仲間として蔵前相場をある程度左右して得る収益も、莫大なものがあったとみられる」と述べている)。

幕府の作戦に札差たちはまんまと乗り、自分たちから利率を下げると言ってきたわけですね。

幕府は株仲間を認める代わりに、先に述べたようにさらに15%に引き下げるように求め、これでは営業が苦しいと札差が陳情したので少々の上乗せは許可することになるのですが、これで幕府は武士の金貸しを確保するとともに、その利率を統制下に置くことに成功したわけです。

三田村鳶魚は幕府の作戦について「貸人を限定し、其の利率を控制すれば、旗本御家人等が乱暴な借金及び不法な利息から免れられると思い立たれたらしい。そうならば蔵前に札差を創業させたことは、武士等の家道庇護に他ならぬ」と評価しています。

しかし時間が経つにつれて、統制も次第に緩んでいったようで、安永6年(1777年)には札差仲間のリーダーが奉行所に呼び出されて、次のように言い渡されています。

…札差の中には、規定の金利を超えて貸し付ける者や、受け取り代行業務の際に高い礼金を受け取っている者がいるようだが、その者の名前や住所を報告せよ。…

これに対して札差たちは回答期限の延期を願う・申し渡しの内容を否定するなど、問題解決に消極的な姿勢を見せましたが、幕府はこれを許さず、61人に罰金、12人に注意、という処罰を与えています(25人はお咎めなし)。

ここからもわかるように札差は暴利をむさぼっており、これに加え、北原進氏『百万都市 江戸の生活』で述べているように、武士が借金を「返せないと元利を合計して新借金証に書きかえ、月数をごまかして二重利子を取るなど、不正な利殖手段」をさまざまに行った結果、財産もかなりのものになっていたようで、そのことがよくわかるのが「十八大通」という言葉です。

山東京山が『蜘蛛の糸巻』で「天明の比、花車風流を事とする者を大通又は通人、通家などと唱へて、此妖風世に行はる。その中にも十八大通とて、十八人の通人ありけり」と述べているように、明和・天明(1764~1789年)の頃、「十八大通」と呼ばれた者たちがいました。

「十八大通」といいますが、18人の決まったメンバーがいたわけではなかったようで、川崎房五郎氏『十八大通の話』には、「十八大通は、十八人の粋人の意だが、どうも明和時代の人々で通人とよばれた人々、更に天明になって通人とよばれた人のいわば、近接して二期があって、その混乱が、十八人は誰と誰ということがはっきりしない原因のようである」とあります。

また、川崎氏は「吉原で、「きれいに遊ぶ」ことを見栄にして、豪快な金の使い方をした人を十八大通とよんだのだが、それにはあつさりしている。しつっこくないということが条件だったようだ」と述べています。

派手なお金の使い方をして、さっぱりしている、それが「十八大通」と呼ばれた者たちであったようですが、川崎房五郎氏が「十八大通の多くは札差であったという。札差でなくては豪奢な振舞いは出来なかったといえる」と述べているように、その多くは札差によって占められていたようです。

その派手な暮らしについて、三升屋ニ三治(みますやにそうじ)が『十八大通 一名御蔵前馬鹿物語』(1846年刊)に書いています(脚色もあるかもしれないが、本人は「此草紙は、土地柄の馬鹿馬鹿敷異風を、有の儘にあらはしたる書にて、啌(うそ)いつはりなし」と記す)が、その一部を紹介すると、次のようになります。

・大口屋八兵衛という札差は、博奕で一晩で四百両(現在の約800万円)を使い、手持ちの金が無くなると1200両の不動産価値のある屋敷を賭けたものの、博奕に負けてこれを失った、といいます。

・下野屋十右衛門という札差は、大山神社に太刀を奉納するために、自身は駕籠に乗り、町の者4・50人を集めて供にして、念仏を唱えながら進ませる、ということをやり、途中で役人に分不相応なことをして不届きである、と駕籠から引きずり降ろされ、十右衛門は処罰として入牢を申し渡されています。

・笠倉屋平十郎という札差は、札差の中でも大身代(大金持ち)で、所持していた小判に勝手に「平」の字を刻印して使用したので、世間の人々はこれを「平十郎小判」と呼んだ。橋場町に築いた別荘は、「平十郎屋敷」と呼ばれ、庭の石や樹木は、なかなか大名も及ばないほどの、美を尽くした住居であった。寛政の改革で取り締まりに遭い、別荘は撤去、庭石は大名などに引き取られ、土地は没収された。

・伊勢屋宗四郎(全吏)という札差は、妾の「おみな」と太鼓持ちの連中を連れて歩いている時に、歩きながら俺が「おみな」にキスをするから、それをいちはやく見つけた者に1両(現在の約2万円)やろう、と言い、3・4間(300~400m)の間に12回キスをして、結果太鼓持ち達に12両やった、といいます。

「全吏妙見詣

二代目宗四郎は、四郎左衛門別家にして全吏といふ。至て金遣ひにて、月の十五日には柳島妙見へ参詣する。ある年の春、妾におみなといふ婦人有て、たいこ持五六人を連て、柳島船宿小倉屋より船に乗て、堅川筋より程なく船は妙見の川岸に着、おのおの上りて妙見へ参詣し、それより吾妻の森え土手つたいに向ふへかかり、むだ口大しやれかたがた行折から、其日の大尽全吏が思付に、おれがおみなの口を吸ながら先へ行から、跡より付て来て口を吸のを見付けた者には、一両づつやろふといふ故、是は能御趣向、左様ならあなたがおみな様の口を吸のを見付升たら一両下さり升か有難と、全吏を先に立て行程に、ここぞ能所と全吏おみなが襟元引寄てちよいと口を吸ば、跡の人々伺ひ来る故見付て、ソレ旦那見付升たといへば、南無三ソレ一両と紙入より出して投て遣る、又一二間行て例の通りくちを吸ふ、ソレ旦那ソレー両と、吾妻の森まで行道わづか三四町の土手の間に、おのれが妾の口を十二両が吸たといふ事、恐く此よふなたわけた金遣は、今の世の中にはあるまじ」

[※当時は1両=銀60匁=銭4000文で、1792年における京都の日雇いの1日の賃金が1匁でしたのでキス1回につき1両やった、というのは日雇い労働者の賃金の2か月分ちょっと(1か月で働く日数は25日程度であったため)もポンポンやっていたことになりますね。文化・文政期には大工の賃金は1日4匁程度であったので、こちらだと15日分程度になります(それでも十分すごいですが…)。合計12両というのは、日雇いだと2年5か月分ほど、大工だと7か月分くらいになります。ちょっとの遊びでスゴイ浪費ですね…💦]

このように札差がもうかっているということは、武士たちはだいぶ借金をして苦しんでいた、という事になります。

安永6年の処置も、金利を適正なものにしようとしただけで、武士の救済にはなっていませんでした。また、『よしの冊子』に「蔵宿(札差)共奢侈強く武士を軽じ、甚不届成者多御座候由」とあるように、武士を軽んじおごりたかぶる態度が見られていたのも、何とかしなければならない点でした。そこで、松平定信による棄捐令が実行されることになるのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿

新着記事

6年以上前の札差からの借金は帳消し⁉~棄捐令

  ※マンガの後に補足・解説を載せています♪ ●札差とは 鈴木寿氏『近世知行制の研究』によれば、江戸時代、幕府の家来の武士(つまり旗本・御家人)の11%は自身の土地を持ち、その土地の年貢を得て生活していましたが、残りの中・下級の武士は自分の土地を持たず、米をもらって生活をしていま...

人気の記事