※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●札差とは
鈴木寿氏『近世知行制の研究』によれば、江戸時代、幕府の家来の武士(つまり旗本・御家人)の11%は自身の土地を持ち、その土地の年貢を得て生活していましたが、残りの中・下級の武士は自分の土地を持たず、米をもらって生活をしていました。
つまり、ほとんどの武士はサラリーマンのような生活を送っていたわけですね。その米(切米。俸禄米。旧暦1・4・9月の3季に分けて支給された。本来は秋の収穫後の9月のみであったが、1675年以後、その一部を前借するという形で1・4月にも支給されるようになった。1・4月がそれぞれ4分の1、9月が4分の2)の受け取り方について、『業要集』には、浅草の御藏(幕領から集まってきた年貢米を保管する倉庫)に出向いて、来た順に自身の名前が書かれた受け取り証明書である切米手形(札)を[藁苞(わらづと。藁を束ねたもの)に]差し、順番待ちをする、とありますが、末岡照啓氏『徳川家臣団と江戸の金融史』によると、順番待ちのために近辺の米屋で休憩している際に、その「米屋と親しくなり、請取業務を代行」させるようになった…つまり、自分の名前を書いた差し札を代わりに差してもらい、米も受け取ってもらうようにした、この差し札を用いた受け取り代行サービスが、「札差」の名前の由来であり起源となったそうです(横井時冬氏の札差考には、「札差といふ名称は、昔庫米受取手形の渡るや、其人名をしるして、これを割竹に挟み、蔵役所の藁包に挿したるに濫觴す、⋯札差とは旗本の庫米受取方より売買までを受負ふ所の商人」とある)。
(※差し札は天和年間[1681~1683年]から名前を書いた玉に代わり、さらにその玉を使ってくじ引きをし、自分の玉が落ちた順番に米を受け取る方式に変更された)。
武士が俸禄米の受け取りを札差に委ねたことについて、
三田村鳶魚は「江戸時代の法定利率」にて、「御蔵の前に掛茶屋が数軒あって、俸禄を請取に来た本人若しくは代人が其処に休憩するだけであったのが、現米を請取って自邸へ引取り、それから商人相手に剰余米を払うという、不得手な事柄に迷惑したので、何時か払米を此の掛茶屋に託し、又た蔵米請取手続をも委ねて、依頼者たる武士等は御蔵へ出頭せずとも済むような便宜な事になった」と記し、
鈴木直二氏『江戸における米取引の研究』には、平沼淑郎(1864~1938年)が札差の起源について「旗本御家人達は自ら米蔵へ行つて扶持米を受取るのは武士の外面上それを嫌ひ、且又その受取方手数の繁雑にしてそれによる無駄な日時の空費を避ける為め、米倉附近の茶屋店人をして自分の扶持米を代理受取らしめ、以て叙上の不便を取除かうとしたのである、それが札差業務の濫觴である」と講述した、とあります。
また、札差のサービスは受け取り代行にとどまらず、受け取った米を武士の食べる分を除いて現金化し、食べる分の米と現金を武士に渡すようになります。至れり尽くせりですが、もちろんタダではなく、手数料(米100俵につき、受取手数料が金1分[1分は1両の4分の1]、売却手数料が金2分)がとられました。
武士は、その後札差に対して受け取り代行・現金化サービスだけでなく、「蔵米を引当に家計費を借用するようにな」ります。蔵米を担保にして借金をするようになった、というのですね。本当は受け取った米を売ってお金に換えて、それで生活するのですが、それだけでは不十分な時、米を売って得られるもの以上のお金を借りたわけです。
借金の利息について、25%であったのを、幕府は1724年に15%と公定しましたが、それではやっていけない、せめて18%は欲しい、と札差たちが泣きついたので、これに対し幕府は「15%を超える少々の分は当事者同士の相談で決定する事」と返答していますから、その後の利率は15%を超える数字であったようです。1749年には、幕府は利率を改定して18%と定めています。また、武士は利息とは別に「礼金」という者も札差に支払っていました。「礼金」とは何に対する礼なのか?実は、後でも述べますが、札差は資金が潤沢にあったわけではなかったようで、自身の持っている金だけをもって金貸しをしている者は少なく、そのため、他の金貸しから金を借りて、武士に渡していた…つまり借金の代行、借金の仲介をしていたのですね。武士の代わりに借金を取りまとめてくれた、その礼ということで「礼金」を払っていたようです。もしこの「礼金」が無かったら、札差は利益が無くなってしまうことになります。金貸しへの返済をしなければなりませんから。金貸しの利率が15%を超えていたら、それは損をすることになってしまいます。だから、どうしても札差は15%を超える上乗せ分が欲しかったのであって、利率は高率にならざるを得なかったのです(三田村鳶魚は「掛茶屋が周旋した金融は、自分の資金ではないから、…資本主から借り出して来て、借款が成立した度毎に御礼を貰ったに違いない。借金する武士は資本主に払う利息の外に、此の御礼を負担しなければならぬ。利息と御礼とを合算すると此の借金は、世間一般のものよりも割の悪いものになる。慥に御礼だけ率が高いのだ。斯うした訳で蔵前の利息は率であるべき因縁を持つて居る」と述べている)。
しかし疑問なのは、武士はなぜ利率が高い札差から金を借りたのか?ということです。俸禄米の受け取り代行業をしていたので便利であった、というのもあったでしょうが、実はやむにやまれぬ理由があったようです。
幕府は1661年から1843年までの間に、8度も借金に関する訴訟は受け付けない…各自で相談して解決するように、との「相対済令」を出しています。つまり、武士が借金を返さない、と言ってきても金貸したちはこれを訴え出ることができなくなったわけです。
そうなると、金貸したちは武士に金を貸すことに二の足を踏むようになります(三田村鳶魚は「又たも借金踏倒令を抛げ付けられて、貸方の町人は何とあろう。さもなくてさえ武士に対する債権は不安なのに、今は全く踏倒されるのである、斯ういう危険な放資は誰もする筈がない。此の際武士に金を貸す者があろうとは思えぬ」と述べている)。
そこで、8代将軍・徳川吉宗が考えた作戦というのが、武士専門の金貸しを創設する事であり、そこで白羽の矢が立ったのが武士の俸禄米受け取り代行を担当していた浅草御藏前の茶屋・米屋などの商人であったわけです。
1723年、吉宗はまず、伊勢屋八郎兵衛なる商人に、これまで札差たちが半ば独占的に取り扱ってきた蔵米を取り扱わせることとし、しかも「いきなり武士全員の蔵米を取り扱うのは難しいだろうから、まずはできる分だけ取り扱い、1年後に状況を見て取扱人数を増やすように」(『享保八録』)という指示まで与えました。
これに驚いたのが札差たちで、翌年、幕府に次の事を請願しました。
・以前から浅草御蔵前で蔵米を取り扱っていた109人を札差の株仲間として認可し、株仲間以外の者に営業を認めないで欲しい(「百九人限札差宿相勤外之者、猥不仕候様に御觸流被為成下候様奉願上候」)。
・認めていただけるならば、借金の利率は25%から20%に引き下げます。米相場に関する不正も行いません(北原進氏は「寛政の『棄捐令』について」で、「札差は、その経営の中に米売方仲間・米屋仲間と称する私的な米仲買株仲間を擁し、蔵前相場を自ら立てて自らの手に引落す体制を、この頃まだ保っていた。すなわち彼らは、蔵米の換金手数料と債務者旗本御家人から収奪する高利との、公認収益のほかに、米仲間として蔵前相場をある程度左右して得る収益も、莫大なものがあったとみられる」と述べている)。
幕府の作戦に札差たちはまんまと乗り、自分たちから利率を下げると言ってきたわけですね。
幕府は株仲間を認める代わりに、先に述べたようにさらに15%に引き下げるように求め、これでは営業が苦しいと札差が陳情したので少々の上乗せは許可することになるのですが、これで幕府は武士の金貸しを確保するとともに、その利率を統制下に置くことに成功したわけです。
三田村鳶魚は幕府の作戦について「貸人を限定し、其の利率を控制すれば、旗本御家人等が乱暴な借金及び不法な利息から免れられると思い立たれたらしい。そうならば蔵前に札差を創業させたことは、武士等の家道庇護に他ならぬ」と評価しています。
しかし時間が経つにつれて、統制も次第に緩んでいったようで、安永6年(1777年)には札差仲間のリーダーが奉行所に呼び出されて、次のように言い渡されています。
…札差の中には、規定の金利を超えて貸し付ける者や、受け取り代行業務の際に高い礼金を受け取っている者がいるようだが、その者の名前や住所を報告せよ。…
これに対して札差たちは回答期限の延期を願う・申し渡しの内容を否定するなど、問題解決に消極的な姿勢を見せましたが、幕府はこれを許さず、61人に罰金、12人に注意、という処罰を与えています(25人はお咎めなし)。
ここからもわかるように札差は暴利をむさぼっており、これに加え、北原進氏『百万都市 江戸の生活』で述べているように、武士が借金を「返せないと元利を合計して新借金証に書きかえ、月数をごまかして二重利子を取るなど、不正な利殖手段」をさまざまに行った結果、財産もかなりのものになっていたようで、そのことがよくわかるのが「十八大通」という言葉です。
山東京山が『蜘蛛の糸巻』で「天明の比、花車風流を事とする者を大通又は通人、通家などと唱へて、此妖風世に行はる。その中にも十八大通とて、十八人の通人ありけり」と述べているように、明和・天明(1764~1789年)の頃、「十八大通」と呼ばれた者たちがいました。
「十八大通」といいますが、18人の決まったメンバーがいたわけではなかったようで、川崎房五郎氏『十八大通の話』には、「十八大通は、十八人の粋人の意だが、どうも明和時代の人々で通人とよばれた人々、更に天明になって通人とよばれた人のいわば、近接して二期があって、その混乱が、十八人は誰と誰ということがはっきりしない原因のようである」とあります。
また、川崎氏は「吉原で、「きれいに遊ぶ」ことを見栄にして、豪快な金の使い方をした人を十八大通とよんだのだが、それにはあつさりしている。しつっこくないということが条件だったようだ」と述べています。
派手なお金の使い方をして、さっぱりしている、それが「十八大通」と呼ばれた者たちであったようですが、川崎房五郎氏が「十八大通の多くは札差であったという。札差でなくては豪奢な振舞いは出来なかったといえる」と述べているように、その多くは札差によって占められていたようです。
その派手な暮らしについて、三升屋ニ三治(みますやにそうじ)が『十八大通 一名御蔵前馬鹿物語』(1846年刊)に書いています(脚色もあるかもしれないが、本人は「此草紙は、土地柄の馬鹿馬鹿敷異風を、有の儘にあらはしたる書にて、啌(うそ)いつはりなし」と記す)が、その一部を紹介すると、次のようになります。
・大口屋八兵衛という札差は、博奕で一晩で四百両(現在の約800万円)を使い、手持ちの金が無くなると1200両の不動産価値のある屋敷を賭けたものの、博奕に負けてこれを失った、といいます。
・下野屋十右衛門という札差は、大山神社に太刀を奉納するために、自身は駕籠に乗り、町の者4・50人を集めて供にして、念仏を唱えながら進ませる、ということをやり、途中で役人に分不相応なことをして不届きである、と駕籠から引きずり降ろされ、十右衛門は処罰として入牢を申し渡されています。
・笠倉屋平十郎という札差は、札差の中でも大身代(大金持ち)で、所持していた小判に勝手に「平」の字を刻印して使用したので、世間の人々はこれを「平十郎小判」と呼んだ。橋場町に築いた別荘は、「平十郎屋敷」と呼ばれ、庭の石や樹木は、なかなか大名も及ばないほどの、美を尽くした住居であった。寛政の改革で取り締まりに遭い、別荘は撤去、庭石は大名などに引き取られ、土地は没収された。
・伊勢屋宗四郎(全吏)という札差は、妾の「おみな」と太鼓持ちの連中を連れて歩いている時に、歩きながら俺が「おみな」にキスをするから、それをいちはやく見つけた者に1両(現在の約2万円)やろう、と言い、3・4間(300~400m)の間に12回キスをして、結果太鼓持ち達に12両やった、といいます。
「全吏妙見詣
二代目宗四郎は、四郎左衛門別家にして全吏といふ。至て金遣ひにて、月の十五日には柳島妙見へ参詣する。ある年の春、妾におみなといふ婦人有て、たいこ持五六人を連て、柳島船宿小倉屋より船に乗て、堅川筋より程なく船は妙見の川岸に着、おのおの上りて妙見へ参詣し、それより吾妻の森え土手つたいに向ふへかかり、むだ口大しやれかたがた行折から、其日の大尽全吏が思付に、おれがおみなの口を吸ながら先へ行から、跡より付て来て口を吸のを見付けた者には、一両づつやろふといふ故、是は能御趣向、左様ならあなたがおみな様の口を吸のを見付升たら一両下さり升か有難と、全吏を先に立て行程に、ここぞ能所と全吏おみなが襟元引寄てちよいと口を吸ば、跡の人々伺ひ来る故見付て、ソレ旦那見付升たといへば、南無三ソレ一両と紙入より出して投て遣る、又一二間行て例の通りくちを吸ふ、ソレ旦那ソレー両と、吾妻の森まで行道わづか三四町の土手の間に、おのれが妾の口を十二両が吸たといふ事、恐く此よふなたわけた金遣は、今の世の中にはあるまじ」
[※当時は1両=銀60匁=銭4000文で、1792年における京都の日雇いの1日の賃金が1匁でしたのでキス1回につき1両やった、というのは日雇い労働者の賃金の2か月分ちょっと(1か月で働く日数は25日程度であったため)もポンポンやっていたことになりますね。文化・文政期には大工の賃金は1日4匁程度であったので、こちらだと15日分程度になります(それでも十分すごいですが…)。合計12両というのは、日雇いだと2年5か月分ほど、大工だと7か月分くらいになります。ちょっとの遊びでスゴイ浪費ですね…💦]
このように札差がもうかっているということは、武士たちはだいぶ借金をして苦しんでいた、という事になります。
安永6年の処置も、金利を適正なものにしようとしただけで、武士の救済にはなっていませんでした。また、『よしの冊子』に「蔵宿(札差)共奢侈強く武士を軽じ、甚不届成者多御座候由」とあるように、武士を軽んじおごりたかぶる態度が見られていたのも、何とかしなければならない点でした。そこで、松平定信による棄捐令が実行されることになるのです。
●棄捐令のできるまで
松平定信は膨れ上がる借金に苦しむ武士を救うため、次の作戦を考え、勘定奉行の久世丹後守(広民。1737~1800年)に提案しました。
…20年以上前の借金は「棄捐」とし、10~19年前までのものは20年返済、もしくは無利息とする、5年以前のものは15年返済とする。借金の利率は今のまま(18%)とする。…
「棄捐」とは破棄すること、つまり、借金を帳消しにすることを指します。
隈崎渡『日本法の生成』には、「棄捐の語義は元、単に物の棄却、破棄に在つた。御成敗式目に「右妻依有罪科於被棄捐者」云々とあるのも、夫による一方的離婚で、要するに妻を棄却するの意である。…棄捐が専ら経済的に用いられるに至つたのは江戸時代に入つてからであり、幕府が旗本御家人を救済すべく、彼等と金融業者の間の貸借関係を消滅せしめるものであった。しかし、それは頻発されたものではなく、江戸時代を通じて前後三回を計えるに過ぎない」とあります。前後三回と言っている1回目が定信の棄捐令なのですね。
3月13日、これに対し久世丹後守は松平定信に次のように提案をしました。
…近年、旗本・御家人は一様に困窮していると聞いております。もちろんこれは本人の器量や善悪、運不運も関係しているものではありますが、贅沢の風潮が激しくなり、世間一般に広まった結果、家計の状況が苦しくなったものと考えられ、その上、米価は上がったり下がったりするのに、それ以外の物価は一向に下がらず、質素倹約を守っても、もし米価が引き続いて安くなるようなことでもあれば、より一層苦しむ者が出てくると考えられる中で、今回の作戦が立てられたことに対し、みな有難く思い、家計を立て直し、誠実な心も取り戻す事でしょう。しかし、近年の米価の高騰で、札差たちの取り分も減少しており、経営状態が苦しくなっているようで、調べたところ、札差97軒のうち自分のお金だけで営業できている「上之分」が7軒、他所から借りているお金より自分のお金が勝っているまぁまぁの状態の「中之分」が22軒、他所から借りているお金の方が多い「下之分」が68軒…ということがわかりました。よそからお金を借りて経営をしている者が多い中で、この作戦を実行されると、「下之分」の札差たちはただでさえ大変なのに、生活がより一層苦しくなる、と申し立ててくるでしょうし、今後武士への貸し出しを渋ることにもなりかねません。そのようになっては、武士たちは恩義を忘れ、逆に迷惑なことであった、と考えるようになってしまうことでしょう。だからといって、これまでの札差を残らず営業停止とし、札差の新規開業を命じるのも難しいことです。そこで、越中守殿の作戦を、次のように変更するのはどうかと思い、提案させていただきます。
20年以上前の借金は「棄捐」、10~20年前までのものは無利息30年返済、ただし、これまで通りの利息であれば50年返済、9年以内のものは利息10%10年返済、ただし、他所からの借り入れの方が多い札差で、利息収入の方が下回ってしまうことになり経営が厳しくなってしまうという者は、金を借りたものに対し、相談をして解決するようにする事。
これに加えて、浅草御蔵前に、江戸・京都・大坂の「豪富之町人」(豪商)の者たちが出資したお金でもって「会所」を作り、自分のお金だけで営業できている札差に運営を引き受けさせ、武家に貸し出す利息は10%とする。ただし、札差に全く利益が無いと苦しくなってしまうので、10%の利息のうち、1割は札差に、9割は会所のもの、とすれば、札差も他所から金を借りることが無くなり、富豪がため込んでいたお金も世間に少しは流通するようになり、武士の家計も改善できる事でしょう。さて、会所の武士への金の貸し方についてですが、札差どもと相談のうえ、わずかな金額を借りるのであっても、その訳を会所に説明させ、急にお金が必要になった場合であったとしても、証文に会所の「改印」が必要なこととし、借りるのを難しくする。ただし、もっともな理由である場合には速やかに金を貸し出せるようにする。金利は低くなったものの、借金がかさむことの無いように、厳しくお命じになられれば、武士たちは皆ありがたく思うようになり、札差たちも、(もうかりにくくなるので)不埒なふるまいをする者がいなくなることでしょう。また、札差に対し、幕府の「御金」5万両を無利息で貸し付け、今後各方面(庶民)に対して行う貸金の利息でもって、年に5%ずつ上納させ、20年で返済させることとすれば、幕府の「御仁恵」に感服し、質素を守るようになって、(経営状態が改善されることで)金の貸し出しもよくできるようになり、世間に困窮する者はいなくなることでしょう。…
(※Wikipediaでは、会所の貸出先が武家ではなく「経営困難となった札差」になっているが、これは誤りである。史料には「武家え貸渡方之儀」とあり、札差に貸すとは書かれていない。また、後でも出てくるが、定信は会所が武士に金を貸す事に言及している)
久世案のポイントは定信案より内容は厳しいものにしつつ、札差の経営状況を鑑みて札差救済策も提示したことと、「会所」(取引所)を作るという事です。
この会所について、長田権次郎『時代乃面影』には、「今日でいう機関銀行」と説明がなされています。
機関銀行とは、あまり耳慣れない言葉ですが、寺西重郎氏『日本の経済発展と金融』によると、「機関銀行とは少数の事業会社と資本的、 人的に密接な相互関係をもち、 その企業や関連する企業へ融資を集中させる銀行」のことであるそうです。
つまり今回の場合では、武士に限定して融資を行う…という事を指しているのですね。
また、札差救済策として、幕府の金5万両を無利息で札差に貸し付ける、というのを挙げていますが(北原進氏は「寛政の棄捐令について」で「公金貸下げについての久世丹後守の立案は、「棄捐令」の発布により札差の抵抗ないし没落、その結果として武家金融の逼塞という事態を恐れたからにほかならない」と述べている)、末岡照啓氏『徳川幕臣団と江戸の金融史』によると、幕府が札差に貸金を行なうというのはこれが初めてではなく、1774年・1779年・1781年と田沼政権時に3度にわたって実施されたようです。1774年は町奉行所から札差に年利5%・10年返済で、1779年は札差に武家へ年利12%で貸し付ける、札差は利息の2%分をとり、残りの10%分を町奉行所に納める、という条件で1万両が貸し付けられ、1781年には79年と同様の貸し付けが実施されています。この3つの場合は幕府の収入を増やす目的で行われたわけですが、今回の久世案では札差救済が目的なので無利息で貸し付け、ということになっていました。
これに対し、松平定信は次のように返事をしました。
…もっともなる意見である。しかし、幕府による札差への無利息の融資は、(5万両ではなく)3万両でよいだろう。札差どもは身分をわきまえず言葉に言い表すことのできないぜいたくをしていると聞いている。町人で他に過度の贅沢をしている者は歌舞伎役者であろうが、特に札差は(武士に対する態度が)「失礼尊大之様子」が「不届之至」であるので、厳しい態度を示すことが必要である。札差どもは、身分をわきまえぬ贅沢などしておるので、経営状態が苦しくなり、他所から借りたお金で金貸しを行なうようになっていると聞き及んでいる。最初は札差を全員取り替えても良いように思っていたくらいなのだから、あまり憐れみをかけることも無いと思う。…
5万両から3万両に値切ったわけですね。
続いて7月5日に、町年寄の樽屋与左衛門(『日本経済史辞典』によると、樽屋は奈良屋・喜多村氏と共に「三年寄」と呼ばれ、江戸の市政の実務を管理する名家の一つであった。寛政2年[1790年]4月に名字を名乗ることが許され、「樽」を名字としている)が次のように提案をしました。
・仕法について布告される時期は、9月になされるようお願いいたします。俸禄米が支給される10月1日より前に20日ほど期間があれば、用意は残らず整えることができると思います。9月は冬服への衣替えの時期(9月9日に重用の節句がある)であり、お金が必要となる時期です。9月より前に布告されると、札差どもが驚いて、物入りの時期の前に金を借りることができなくなってしまいます。また、仕送りを受けて生活している者たちは、毎月初旬に仕送りを得ていますが、仕送りを得た後であるならば、札差どもがいくら騒ごうとも、10月の俸禄米支給までやり過ごすことができます。
・仕法の施行時期について、10月から改めなさるように申し上げます訳は、10月の俸禄米支給が3度の俸禄米支給の中で最も額が大きいので、仕法の変化による影響を一番大きく感じることができ、武士たちが特に有難く感じることになるだろうと思われるからです。
・仕法改正の内容についてですが、借金返済について天明4年(1784年)以前のものについては訴訟を取り上げず、「双方相対次第」(お互いに話し合って決める)とし、5年以内~今年の5月までのものについては利息を6%、5月以後のものは12%とされるのはいかがでしょうか。20年以上前のものは「相対」とする、という案も考えましたが、これだと借金を消すことにつながらないと思われます。6年もあれば十分でしょう。借金が高金利なので、数年の内には利息が最初に貸したお金(元金)と同じくらいになっており、札差はすでに元が取れ、以後は自分の収入とすることができるようになりますから。
・一方で札差に対する慈悲として、会所に貸与する5万両分の利息を下賜され、札差は今後会所から拝借して貸し付けを行なう際に、「世話料」として利息の中から2分(利息12%のうち2%分)を与えるようにでもすれば、札差は有り難く思うことでしょう。
・6年以前の借金を「相対」とし、訴訟は取り上げない、という事にすると、町中の金貸しをしている者たちも勘違いをして、金貸しを渋るようになるかもしれませぬから、「相対」の件は札差に限る旨を布告されるのがよろしいかと思われます。
・武士に対しては、今回の法令が出されたからといって、心得違いをして、俸禄米を直接受け取るようなことをことをさせず、今まで通り必ず俸禄米はまず札差が受け取るということを伝えれば、札差どもは皆ありがたがることでしょう。
樽屋案のポイントは借金帳消しの対象が定信案・久世案は20年以上前であったのを6年以上前としたこと、「棄捐」の語は使わずに「相対」の語を使用したことです。
これについて、北原進氏は「寛政の棄捐令について」で、「樽屋は天明4年以前と5年以後とに大きく二分し、前者を相対済し、後者を年利6%(通常の三分の一)に下げることとしている。天明四年を境に二分したのは、公定年利が18%であるから、6年目に利子は元金を越えることになり、それ以前の債権はすでに元金を取り込んでいると見なしたためであり、延享年間に町奉行能勢肥後守が札差債権の6年以前相対済しを申渡した故事に学んだものであろう。また幕閣が棄捐という厳しい語を使っているのに対し、彼が相対済しとゆるめた根拠は、第一に言葉が柔かく、札差にいくらかは取返せる期待をもたせること、第二に、そのために若干は長年賦になるものがあろうが、「多分は棄捐に相成」ると相対済しが棄捐とまったく同じ結果になることをあげている」としています。
これに対し、翌日に定信は次のように返答しています。
…樽屋の意見は「よほど宜き主法もっともの事ども」であるが、札差どもは傲慢・奢侈(身分を超えた贅沢)であり、無利息の5万両を会所に下賜し、その利息を札差に与えるというのは、有難すぎる処置であろう。2・3万両で十分と思う。また、新しい法令が出れば、必ず悪い点を探そうとするのが人情というものであり、幕府が下賜した金でもって今後会所が武士に貸付を行うというのを、「蔵前の金元は、公儀にて遊ばされ候(会所の金主・出資者は幕府であるから、幕府が武士に金貸しをしているようなものである)」などと言う者が必ず出てくることであろう。そこで、(下賜する2万両は)「御用達町人」に1万両、札差に1万両を貸し、利息も無利息ではなく、1・2銖(1両の16分の1)ほど取ることにしたらどうであろうか。また、幕府が資金を出しているという事は、2・3か月を置いて伝えることにしたらどうであろうか。批判の出るのはできる限り無いようにしたく思う。また、ただ「相対」と言うのでは「うきたる様」(落ち着かない。いい加減だ)なので、「棄捐」とするか、「長年賦」(長期払い)とするかを「相対次第」にすることとし、これについての「出入」(訴訟)を受け付けない、ということにしたい。…
ここに出てくる「御用達町人」というのは、天明8年(1788年)10月に「勘定所御用達」に任命された(給料は3人扶持[3人が生活できるだけの米を支給する事。具体的には5.4石)、江戸の7人の豪商たちを指します(翌年12月に3人追加)。
その豪商たちというのは、
三谷三九郎…両替商。大坂の鴻池と並び称されるほどの豪商であった。東北諸藩に大名貸を行なっていた。御用達頭取に任命される。
仙波太郎兵衛…両替商。大名貸を行なう。
中井新右衛門…両替商。御三卿の一橋・田安など、多くの大名に金を貸していた。
提弥三郎…両替商。
松沢孫八…油問屋。幕府が使用する油を任せられていた。
鹿島清兵衛…酒問屋。飢饉の際には江戸で一番の施行を行なった。
田村十右衛門(豊島屋)…酒・醤油商人。薄利多売商法で成長する。大名たちの酒を任されていた。
…の7人です(寛政元年[1789年]8月28日には名字を名乗ることを許されていたので名字がある)。
これに後に竹原文右衛門(両替商)・森川五郎右衛門・河村伝左衛門の3人が加わり、合わせて「十人衆」と呼ばれたそうです。
「勘定所御用達」を新たに設けた理由として、「江戸の物価が高下に甚だしく偏り、人々がこれに苦しんだ際に、「平準之ため」金銭を出す」ことが挙げられています。物価の偏りを是正するためだというのですね。
金銭を出す、とありますが、どのようにバランスを取るのかというと、勘定奉行は「米は自由に売買させていると、米価が高くなった際は米を買い占め、さらに値段を吊り上げようとして、人々がこれに苦しむことになる。そこで、「江戸表において人々目を附候程之町人共」を御用達に任じ、米が安値の場合は大量にこれを買わせ、高値の際は米を大量に売って米の相場を下げさせる」と説明しています。
さて、この御用達町人ですが、どうやらいつの間にやら、御用達町人が会所を運営する、という事になっていたようです。
その後、9月12日頃には棄捐令を布告する段取りが進められることになり、その内容についても段々と詰められて、
・金の貸し出しについて、今後は武士の禄高に応じて貸す量を決めることとする。
・金の貸し出しについて、武士は今後は札差ではなく会所から借りることにする。
・武士が金を借りる際に勘定方の者が立ち会う。
・借りた者の姓名・役名・禄高について帳面に書き記して幕府に提出する。
…という内容が決定されたようなのですが、これらは武士が過度に借金をすることを防ぐとともに、会所へ出資した商人たちへ安心感を持たせるための作戦でした。
しかし、発令が間近に迫った8月25日に、なんと定信は次のように懸念点を伝えます。
…金の貸し出しについて、今後は武士の禄高に応じて貸す量を決めることとする、というが、これだと、これまで過度に貸していた金は道理に外れたものという事になり、分不相応に借金をしてきた者は返さなくてもいいと言い出すようになってしまうのではないだろうか。最近、恥辱の心が廃れてきている中で、武士が札差に対してしていた借金を、今後幕府の役所(会所)に申し出て借り受ける、ということにすると、ますます恥辱の心が廃れることにならないだろうか。または、恥辱の心がある者は、そのために借金を控えることになってしまわないだろうか。また、勘定方のものが立ち会う、というのもよろしくないので、樽屋与左衛門に御用達町人を添えるのみとし、与力同心を見回らせるのみとするのはどうだろうか。武士が会所に赴いて借りるのではなく、札差が金を貸す際に、不足分について会所から借りて武士に金を貸すようにした方が、今までと同じようなやり方になるので、人情が穏やかなものになるのではないだろうか。借り手について帳面に書き記して報告させるのも無しにしてはどうだろうか。…
松平定信としては、できる限り幕府が市場に関与する(金の事に関わる)、というのを避けたかったのでしょう。前の田沼政権では札差に金を貸し、その利息で利益を得ていた、という前例がすでにあったにもかかわらず、定信は「幕府が金貸しをしているようなものだ」と噂されるのを嫌がって、これをできる限り縮小しようとしましたし。幕府が金の事に積極的にかかわるのは恥ずべきことだ、という思いがあったのでしょう。
これについて、奉行衆は、御用達町人など会所に出資する者たちは、踏み倒しを恐れているので、越中守殿の言うとおりにすると、出資を渋るようになってしまう、借り手の禄高・姓名・役名は帳面に記し、禄高に応じた借金の限度を定めるようにしたいのだが、と樽屋与左衛門に相談した上で、次のように定信に提案しました。
・武士の禄高に応じて貸し付けを行う。出資する者が踏み倒しを恐れてしまっては困るので、貸金は禄高100俵につき30両を目安とする。
・札差が武士に貸付ける金が不足する場合、会所に申し出る。会所は一通り是非を判断した上で、金を札差に貸し渡す。
・会所は樽屋与左衛門に御用達商人など出資者の手代によって運営し、与力同心が日々これを見回ることとする。
2・3番目については定信の意向に従った内容になっていますが、1番目についてはこれだけは譲れないと抵抗を見せています。
この後、いよいよ棄捐令が発令されることになるのですが、その内容は最終的にどのような物になっていたのでしょうか、見てみることにしましょう。
●棄捐令
9月16日、北町奉行の初鹿野河内守(信興。1745~1792年)は惣札差・町役人を呼び出し、次のように告げました。
…その方(札差)たちは、旗本・御家人に下された御切米(俸禄)の受け取り代行や、金の貸し付けをして生計を立てているが、借りておる者たちは元金の利息を払うだけで精いっぱいで、何代経っても借金が無くなることがないので、旗本・御家人はますます生活が苦しくなっていっている。その方たちは、そのような事情も理解しようとせずに利息を重くし、年に三回入る御切米(俸禄)による返済で足りない分は元金に付け足し、ますます借金が多くなっても利下げをしようとせず、たやすく多くの利益を得て、過度な贅沢をするのはもちろん、奉公人たちにまで遊興の限りを尽くさせ、最もひどい場合は風紀を乱すような不届きな贅沢をする者までおる。その上に、借金を申し込みに来る旗本・御家人に対して失礼な振舞いがあるとも聞く。これは言葉に言い表すことのできないけしからぬ行為であり、厳しく処罰するところ、特別にお情けをかけられてお許しになられたので、今後は風俗を改め、身の程をわきまえ、御家人に対して失礼の一切ないようにせよ。さて、この度、そなたらの貸し出し金利を下げること、貸金の返済方法について別紙の通り仕法(物事のやり方。仕方)を変更することとし、また、浅草御蔵前猿屋町の空き地に「貸金会所」を建て、町年寄の樽屋与左衛門に任せることにしたので、以上の事を心得て、今後は新たな仕法の内容をしっかりと守るようにせよ。今後、仕法違反はもちろん、不届きな行為があった場合には厳しく処罰するから、そのように心得よ。…
…この度、札差に関する仕法を改正し、幕府は札差に幕府の金を無利息で下げ渡すこととし、これに「差加金」(町人からの出資金)を加え、貸金会所からこれを貸し渡すこととした。なお、幕府の下賜金は20年返済とするつもりであるのでそう心得よ。…
札差に関する改正?された「仕法」というのは、次のようなものでした。
①・旗本・御家人に対する貸金の利息は今後、(現在の18%から)月1両につき銀6分(銀の場合は「ふん」と読む。1両=600分であるから、月の利息は1%。年間の利息は12を掛けて12%となる)とすること。
②・浅草御蔵前猿屋町の空き地に貸金会所を建て、町年寄の樽屋与左衛門に任せ、幕府の金をこれに下げ渡す。札差たちが金繰りに困った際には、会所に申し出て、金を借りること。
③・武士が「法外」・「不相当」な金額を借りたいと言ってきた際には、これまで通り断ればよろしい。このことで会所に金を借りたいと申し出ないこと。
④・もし会所から借りた金を返済しなかったら、それは札差組合全体の「不正」であるから、組合の者たちでこれを返済すること。
⑤・6年以上前(天明4年[1784年]より前)に札差が貸した金について、昔のものも最近のものも関係なく、「棄捐」(破棄する事)とするのでそう心得よ(「旧来之借金は勿論、六ヶ年以前辰年迄貸附候金子は、古借新借之差別無く棄捐之積り相心得べく事」)。
⑥・天明4年から今年の5月までに貸した金については、その多少に関わらず、50両につき1分(金の場合は「ぶ」と読む。1両=4分なので、50両=200分となり、1÷200=0.5%、年の利息は12を掛けて6%)の利息とすること。年払いの上限額としては、禄高100俵につき3両までとする。
⑦・今年の5月以後に貸した金については、利息は1両につき銀6分(12%)とすること。この借金については、冬(10月)の切米にて返済する。借金が多くあって、返済をすると生活が苦しくなる者がいる場合は、その者と取引をして支障が出ることが無いようにせよ。
7・札差で裕福なものは数少なく、ほとんどは他所から金を借りて金貸しを行なっていると聞く。札差で金を借りていた者は、今回の事で返済が難しくなると思うが、貸主から訴えられたとしても、5年より前のものについては幕府はこれを取り扱わないこととする。今後、金貸しから金を借りるのが難しくなるだろう、そうなると、武士に金を貸すのが難しくなってしまうだろう。武士への貸し出しが滞らないようにするために、貸金会所から金を貸し出すことにしたのであるから、武士への貸し出しが滞ることのないようにせよ。
⑪・米の代行受取料はこれまでと同じとする。
⑫・年3度の武士の給料日には武士を酒食などでもてなしていたそうだが、今後一切無用である。
・会所から金を借りられるようになったとはいえ、できる限り仲間内でお金を融通し合って解決する事。会所があるからといって、これまで貸すのを断っていた案件を受け入れることのないようにせよ。
1・今回の法令が出たからといって、今後貸し出しを渋ることが無いようにせよ。札差の行事は毎日見回り、貸し出しが滞っていないかどうかを、毎日夕方に1人が代表して役所に報告に出向くこと。
2・今回の法令が出たからといって、これまで金を貸していた相手に金を貸さないようにするというのは、心の中で幕府の命令に背いているのと同じことであるので、厳しくこれを取り調べる。
3・今後金を貸すのを渋るような者がいれば、5年以内の借金の支払いを禁止するよう命じることもあるので、心得違いが無いようにする事。「札旦那」(札差の顧客の武士)と札差は「和熟」(仲良くする事)して、何事においても「程能」(ほどよく)解決するようにせよ。
8・札差と取引(借金だけでなく米の代行受取なども含む)のある武士について、金の貸し借りに関わらず、名前と役職・禄高を帳面に書いて役所へ報告するようにせよ。
9・会所より借り受けた金の利息は10%とする。この金を使って武家に金を貸す場合、利率は12%とする。
そして幕府は武士たちに対しては次のように触れを出しました。
…借金について、棄捐・利下げとなったからには、今後はより一層生活を控え目にし、とりわけ倹約を心掛けるようにすること。幕府からの「御仁慈」を受けたというのに、不正なことを少しでも行う者がいたら、厳しく罰するのでよく心得よ。…
町人に対しては次のように触れを出しました。
…札差の貸している金について、棄捐や利下げを命じたのだが、これをもって札差以外から金を借りている者に対しても借金を踏み倒そうと考えるような心得違いの者が出るかもしれぬが、これは一切許さないので、今まで通り金を貸すようにする事。…
同日、御用達町人に対し、貸金会所の資金上納を命じています。
…この度、切米取の旗本・御家人を救うために(「御旗本御家人勝手向御救之為」)、武家が借りていた古い借金を棄捐とし、最近の借金は利下げとするように仕法を改正した。また、浅草猿屋町の空き地に会所を建て、その資金として「御下ヶ金」を下付するが、これに加え、その方たちも各自「差加金」(出資金)を上納するようにせよ。蔵宿どもが会所に借金を申し出てきた際には、確認の上、金を貸し、蔵宿が旗本・御家人へ金を貸すのに支障が無くなるようにしたいと思っている。会所の運営については町年寄の樽屋与左衛門に任せたので、上納する金額・利率などについて、与左衛門に指示に従い金を上納すること。…
これを受けて、10月5日、三谷三九郎・1万両、仙波太郎兵衛・7千両、中井新右衛門・5千両、提弥三郎・5千両、松沢孫八・3千両、鹿島清兵衛・2千両、田村十右衛門・千両、合計3万3千両が上納されることになりました。


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