社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 10月 2023

2023年10月30日月曜日

「将軍・足利義輝殺害と三好氏の内紛~公方様御生害の事」の4ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

将軍・足利義輝殺害と三好氏の内紛~公方様御生害の事の4ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年10月29日日曜日

「将軍・足利義輝殺害と三好氏の内紛~公方様御生害の事」の3ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

将軍・足利義輝殺害と三好氏の内紛~公方様御生害の事の3ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

「将軍・足利義輝殺害と三好氏の内紛~公方様御生害の事」の2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

将軍・足利義輝殺害と三好氏の内紛~公方様御生害の事2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年10月19日木曜日

2023年10月18日(水)に起こった社会に関するできごと

〇2022年参院選「一票の格差」3.03倍も最高裁「合憲」

「1票の格差」問題については、以前取り上げたので、そちらを参考してください<(_ _)>

まぁ、簡単に言うなら、神奈川県は福井県よりも12倍投票できる人がいるのに、なんで代表者の数は12倍じゃなくて4倍なの?(福井県:1人、神奈川県:4人)なんで代表者の数を12人にしないの?神奈川県の発言力3分の1じゃん、福井県ズルくね?…ということですね(;^_^A

さて、東京・神奈川・青森・岩手・宮城・福島・山形の有権者が、参議院(選挙区選出)議員の議員定数配分は憲法の保障する1人1票の原則による人口比例選挙に反しているので、選挙も無効であると訴えた裁判で、

最高裁は、

①合区によりそれまで5倍以上あった「1票の格差」が3倍程度まで縮小され、その後は3倍程度で推移してきており(16年 3.08倍→19年 3.00倍→22倍 3.03倍)、今回、縮小が拡大に転じたとはいえ、その差が大きく拡大しているとは言えない。

②一方、合区となった都道府県で、投票率の低下や無効投票率の上昇が続けてみられることは、「有権者において、都道府県ごとに地域の実情に通じた国会議員を選出するとの考え方がなお強く、これが選挙に対する関心や投票行動に影響を与えていること」がわかるので、議員定数配分を見直すにあたっては、慎重に検討する必要がある。

③以上から、制度の見直しには「なお一定の時間を要する」ので、今回の選挙において制度が見直されなかったために、格差がわずかに拡大したということは、「憲法の投票価値の平等の要求に反するものであったということはできない。」

…という判断を下しました。

最高裁判所裁判官15人のうち11人は同意見で、残る4人のうち3人は賛成だが理由が異なり、1人は反対意見だった。

別の理由はどのようなものだったか見てみると、

①三浦守氏

・3倍を超える投票価値の不均衡は、1人1票という選挙の基本原則を考えると、決して見過ごすことはできない。

・総議員数を増やせば格差が是正できるが、憲法に議員を増やしてはならないとは書いていない。参議院の議員数(248)は、衆議院の議員数(465)と比べ相当に少ないので、増やす余地があるといえる。

憲法には都道府県を選挙区の単位にしなければならないとは書いていない。有権者が少ないところは広域の選挙区にして、1つの選挙区で必ず2人以上が選ばれるようにすれば、1人しか当選しない時と比べれば、選挙に対する関心の低下は避けられるのではないか。

②草野耕一氏

・最大格差を投票価値の不均衡の論点とするのは正しくない。収入の最も高い人と収入の最も低い人を比べて、お金の配分が不均衡だというようなものである。それよりもジニ係数(格差を測る指標。0から1の間で表され、1に近づくほど格差が大きい)を論点とすべきである。今回の選挙のジニ係数は0.0873で、前回選挙の0,0849と比べほとんど変化のないことがわかる(あっても微々たる変化)。しかし衆議院議員選挙の0.0619と比べると高く、外国の選挙と比べても高くなる場合があることから、14条違反だという疑いの気持ちを引き起こすのには十分な数字だといえる。

・しかし、選挙は平等にすることが目標ではなく、政治上の諸問題をより良く解決できるように考えなければならないものである。

・議員定数を増やせば解決できるかもしれないが、国会の活動の効率性は悪化する。

・議員定数の不均衡が違憲と言うなら、それによって国民が不利益を受けていることを証明する根拠を示さなければならない。

③尾島明氏

・今回の選挙の議員定数の不均衡は違憲状態にあったと考える。

・憲法前文には、議員は正当な選挙で選ばれる、とあり、憲法43条には、議員は、公正かつ平等な選挙によって選ばれる、とある。今回の選挙のように、ある選挙区の有権者の投票価値がある選挙区の3分の1しかないというのは、正当な選挙と言えない。

・合区を進めると選挙への関心の低下が見られたというが、これは合区のためかどうかははっきりしていない。合区による心配をするならば、投票価値の格差があることで、選挙への悪影響が起こることも心配しなければならないのではないか。

④宇賀克也氏

・今回の選挙の議員定数配分は違憲であるといわざるを得ない。

・公共の福祉でやむを得ず一定の不均衡を認めるとしても、同じ価値の投票権が保障され、それが国会の民主的正当性につながっていることを考えれば、投票価値に著しい不均衡が生まれることは解消されなければならない。

・今回の選挙の1票の価値の不均衡は、憲法上許される範囲を明らかに超えている。

・投票価値が損なわれていることは重大な基本的人権の侵害である。投票価値の低い地域(人口集中地域)が財政上の不利益を受けていないにしても、公共の福祉による制約として正当化できる範囲を超えた投票価値の不平等は認められるわけにはいかない。

・選挙制度の改革が難しいかどうかで合憲か違憲かを判断してはならない。

・3倍を合憲とすれば、今後の格差是正の動きが弱まることにつながる。

…「違憲状態」や「違憲」の意見は、格差の解消を目指していますが、

もし、格差が完全に解消されるなら、有権者の多い東京・神奈川・大阪・埼玉・愛知・千葉・兵庫・北海道のたった8都道府県で選ばれた議員だけで過半数を達成してしまいます(◎_◎;)

そうなると、政治家は、無いとは思いますが、極論、「この8都道府県は税を半分にする、残りの都道府県は税を2倍にする」という政策を実行する!という公約を掲げれば選挙に勝ててしまうわけです。

ますます都市部と地方の格差が拡大し、地方はますます苦しくなります。

1票の格差の解消は都会・地方の格差の拡大を生むのです。

ジョン・スチュアート・ミルは、『自由論』で、「多数者は少数者の抑圧を望むかもしれないから、多数者の専制に対して予防策が必要である」「多数派と少数派では、援助を受け優遇されるべきは、少数派の意見である。少数派は多数派よりも利益・幸福が下回る可能性があるからである」と述べています。

法政大学院の白鳥浩教授は、人口面だけを考えて選挙改革を進めれば、少数者は議員を選ぶのが難しくなり、量的な不平等は解消できるかもしれないが「質的な不平等」が生まれる、「選挙は民主主義のための制度であり、数だけを議論しているわけではない。格差是正と地方の民意のバランスをどう取っていくのか、考えるべき時だ」と述べています。

〇野党の考えた緊急経済対策

立憲民主党・日本維新の会が緊急経済対策を発表。

立憲民主党

6か月間を対象に、

・年収水準の3倍以下の世帯(全世帯の6割にあたる)に、インフレ手当として3万円を支給。

・「トリガー条項」(1リットルあたり約25円のガソリン税減税)の発動

⇩2024年度から行われる新制度を、前倒しで今すぐ実施する

児童手当を拡充し、高校生まで一律月額1万5千円を支給する。

(現在の児童手当は3歳まで1万5千円、中学生まで1万円(第3子以降は1万5千円)

・給食費無償化

日本維新の会

来年3月まで、

・社会保険料を3割減免(低所得者は半減)。

・消費税は8%とし、軽減税率を廃止。

・「トリガー条項」(1リットルあたり約25円のガソリン税減税)の発動

また、

・給食費無償化の前倒し実施


立憲民主党案には、「3万円はショボすぎる」「減税をしてほしい」という意見もあがっている。これに対し、泉健太代表は、X(旧Twitter)で「「税収増は全部還元」とか「もっと景気刺激策を」とかではない。 やり過ぎは一層の物価高を招きかねない。生活支援に狙いを定め、物価高に見合う額での対策が正しい。」と述べている。

〇中国 GDP成長率4.9%に鈍化

中国国家統計局は18日、2023年7~9月の国内総生産(GDP)の伸びが、前年同期と比べ、4.9%増加したと発表した。

4~6月の6.3%よりは鈍化した。

…というが、中国は去年の4~6月はだいぶ伸び率が低かったので、4~6月の6.3%増というのは割り引いて考えなければならない数字のため、実際は増加していると見てよいでしょう(;^_^A

それでも、中国政府は年間で5%増を目指しているのですが、4~6月期を除いて5%に達していません。経済が苦しいことには変わりはないのですね。

近年の中国の経済成長を牽引してきたのは不動産部門でしたが、中国不動産業界最大手の碧桂園や恒大集団が債務不履行(借りた金が返せなくなる)になるなど、不動産バブルは崩壊し、1~9月で―9.1%と足を引っ張っています。

中国当局も、「外部環境はさらに複雑で厳しくなり、国内需要もまだ不足している。経済が好転する基礎を固める必要がある」と発表しています。

〇政府 観光地混雑時に鉄道運賃値上げ オーバーツーリズム対策

オーバーツーリズム(観光公害)…観光地に人が集中することで、ごみの増加などの環境被害や公共交通機関の混雑が起こり、地元住民が苦しむこと。

この対策として、政府は、混雑度に応じた値上げを認める制度を、観光シーズンや観光客の多くなる曜日・時間帯に実施することを認めることを決定した。

また、観光客向けの急行バスを導入しやすくするよう制度も緩和することに決定。

…しかし、運賃の値上げは地元民も困りますし(外国から来た人は高くても鉄道を使うと思う)、バスの運転手も不足してるんですよね…(;^_^A

外国では、例えばイタリアの人気観光地ベネチアは、混雑時期に、日帰りの観光客に対して、入場料5ユーロ(約790円)をとることにしています(日本でも、厳島神社がある宮島も訪問税100円を徴収している)。しかし、5ユーロでは大した効果は無いのではないか、との批判もあります。

アメリカでは、グレイシャー、ロッキー、ヨセミテ国立公園では、時間指定の入場チケット制を導入(日本でも熊本県小国町鍋ケ滝公園の入城に事前予約制を導入)しています。しかし、この作戦は決まった区域に対しては有効ですが、都市全体が観光地の場合では難しいでしょう(-_-;)

外国人の宿泊の7割は三大都市圏に偏っているため、政府は「地方部への誘客を一層強力に推進する」としていますが、地方への分散が何につけても大事なのですよね(;'∀')

都会の人にはどしどし地方に行ってもらいましょう!地方でお金を使った三大都市圏の人にはポイントがつけるとか、減税するとか…難しいですかねぇ…(;^_^A


2023年10月18日水曜日

2023年10月17日(火)に起こった社会に関するできごと

〇首相 ライドシェア導入検討表明へ

「ライドシェア」…アプリを介して、「車」と「同じ目的にまで行きたい人」をつなぎ、相乗りを支援するサービス。メリットとしては、高速料金などを割り勘できること、二酸化炭素排出量をおさえられること。他にも、代金をもらって相乗りをするやり方もある。日本では有償で人を自家用車に載せる行為は法律で禁止されているが、アメリカでは有償で人を載せることが可能。乗車前にアプリ上で代金をクレジットカードで払う仕組みであるため、タクシーのように金額で冷や冷やさせられることは無い。料金もタクシーの半額以下で乗れるそうな。デメリットは安全面くらいだろうが、アプリに登録されているので相手の身元はわかるし、同じように安全面が心配されているウーバーイーツも現在の日本で広く行われている。

ニューヨーク在住ジャーナリストの安部かすみ氏は、「アメリカでウーバーが誕生したのは2010年。ライドシェア利用はこの13年で浸透しすっかり生活の一部になりました。一方なぜ日本でこれまで根づきにくかったかのか。タクシー業界の抵抗もありますが、一つは安全面への不安もあると思います。アメリカだってよくよく考えれば治安が日本と比較にならないくらい悪く実際に犯罪も起きているので、乗客とドライバー双方にとって安全面への不安がないといえば嘘になりますが、私個人的には利用時に不思議とそのような不安はないのと、トラブルも一度もありません。その理由として、金額が事前にわかる明朗会計であること、また乗客とドライバーによる双方の評価制度があって利用前に参考にできるからだと思っています。日本でサービス解禁となったらこの評価制度が潤滑油としてどう生かされていくでしょうか。」と述べている。

一方で反対意見もあり、自民党のタクシー・ハイヤー議員連盟の会合では、「安全安心の確保から認めてはいけない」「安易なライドシェアを認めるわけにはいかない」「導入を認めれば、地域の公共交通機関が失われる恐れがある」という意見が出た。

これに対し、神戸国際大学経済学部教授の中村智彦氏は「タクシー議連ですから、タクシー業界の意見を代弁し、利権を守るの当たり前でしょう。しかし、ライドシェアを認めて欲しいという意見が出ている地域や自治体では、すでにタクシー会社が地域交通を担うことができなくなっています。こうした現実を無視して、ご自身の支援団体の業界だから、とにかく反対というのでは「国会議員」としてはいかがなものでしょうか。先日、話したある地方自治体職員は「そこまでタクシー業界を保護し、ライドシェアがダメだと言うなら、地方公共交通に対してタクシー会社に義務を課せるべきではないか」と言います。タクシーもない、ライドシェアも許されない、それではもう地方の公共交通が維持できないところまで来ている現場の危機感が国会議員の先生方には届いていないのではないでしょうか。全面的なライドシェア解禁が無理ならば、せめて地域の実情に合わせて導入できるように制度を整えるべきだと考えます。」と意見を述べている。

タクシードライバーの人手不足・高齢化は著しい。タクシー運転手の数は2019年の29万人から、2023年は23万人と、2割も減少しているし、タクシードライバーの平均年齢はなんと60.7歳だという。

人手不足を解消するためにタクシードライバーの賃金引上げをすべきだ、という意見もあるが、それで2割分が戻るとは思えない。地方の公共交通機関を使えない高齢者の方々にとって、今は待ったなしの状況であり、その場しのぎのような作戦では根本的な問題解決にはならないように思う。

〇男性の育休 30.8%と最高

明治安田生命保険は、育休を取得した男性の割合が30・8%であったこと、そしてこの割合が調査開始の2018年以来、いずれも過去最高になったと発表しました。

…タイトルだけ見ると「おおっ」となるのですが、「2018年」開始以来最高、と言われると「ん?」という気持ちになります(;^_^A

まぁ、それでもスゴイことには変わりないのですが。

育休を取ったと答えた男性の割合は、

2018年 16.8% → 2019年 16.1% → 2020年 26.3% → 

2021年 26.4% → 2022年 23.1%

…と推移してきており、今回は7.7%アップの大幅増となりました。

育休を取得した理由のトップは「育児は妻だけでなく、自分も参加しないと

いけないと思ったから」(25.0%)で、2番目に多かったのが「子どもが小さいうちに育休を取得し、育児に参加したかったから」(12.5%)でした。

育休取得者が大きく増えた要因として、2022年10月から、「出生時育児休業(産後パパ育休)」・「育児休業の分割取得」ができるようになったことが挙げられるといいます。

「出生時育児休業(産後パパ育休)」は、子の出生後8週間以内に4週間まで、産後パパ育休を取得できるというもので、従来の育休とは別に取得できます。

どういうことかというと、これまでは子どもが1歳になるまで、1度育休が取れる、ただし出生後8週間以内に育休を取った場合は、その後もう1度育休が取れる、というしくみだったのですが、

出生後8週間以内に1度育休を取ったとしても、それとは別に、もう1度出生後8週間以内に産後パパ育休がとれるようになったのですね。

え、別に変わってないのでは?と一瞬思います。なぜなら、これまでも、8週間以内の時、まるまる8週間育休を取ることも可能でした。

なぜもう一度とる必要が…?とも思いますが、つまるところは、8週間以内のときに1度職場に戻って働くことができるようになった、ということなのですね(;^_^A

これだと育休取得日数は減ってしまうのでは?と思うのですが、例えばAさんという人がいて、「8週間まるまる育休を取ることが心苦しいな。会社は中小企業だし…、2週間目は会社が忙しいときだから、最初の1週間だけ育休を取ろう」、となったら、8週間以内の時にもう1度育休を取ることができなかったわけです。しかし、これからは、会社が忙しいときだけ復帰し、忙しい時期が終わったらもう1度育休が取れるようになったわけです。しかもこれは分割して取得可能なので、産後1週目→育休 2週目→職場復帰 3週目~4週目→産後パパ育休 5週目→職場復帰 6~7週目→産後パパ育休 8週目→職場復帰 …ということも可能になったわけです。これだと育休取得日数が増えることがイメージできますね(;^_^A

そしてもう1つの「育児休業の分割取得」ですが、9週目~1歳まで育休が取れるのは1回きりだったのが、2回まで取れるようになったのですね。これまでも9週目~1歳までまるまる育休は取れたのですが、中小企業ではそういうの難しいですからね(;^_^A

以上の制度の変化により、男性の育休平均取得日数は2022年の30日から41日と、大幅に増加することになったのです(39.3%の人が「取得しやすくなった」と答えている)。

一方で育休を取得できなかった人も58.7%存在しており(残りの10.5%は「育休を取る必要が無かった」と答えた人です)、その理由は「給与が減少するなど、金銭的な面で取得しにくかった」(27.8%)「利用するための職場の理解が不足している」(13.1%)「長期職場を離れ、仕事のスキル・経験に支障がでるため」(9.7%)というもので、男性の育休に対する理解が完全に進んでいないこと・中小企業では金銭面で育休を取らせることが難しいことがわかります(-_-;)

ちなみにこのアンケートでは、「子育てに熱心だと思う男性有名人」についても尋ねており、その結果は、1位「つるの剛士」2位「杉浦太陽」3位「はなわ」…となっています。

〇「景気悪化」と回答80%、高水準続く

日本世論調査会が行った郵送世論調査によれば、今の景気が悪くなっていると考えている人が80%にのぼったという。

昨年の91%だったので改善はしているようですね。値上げに一服感が出て来たからでしょうか(゜-゜)

2021年10月の岸田政権発足前と比べて家計の状況が苦しくなった、と答えた人は57%。岸田政権下で値上げラッシュがあったのですが(例えば、うまい棒の価格が12円になったのは2022年4月1日です)、39%は「変わらない」と答え、3%は「やや良くなった」と答えているのがスゴイですね(◎_◎;)どんな人…?

政府に物価対策を何とかしてもらいたいものとして、1番多かったのは「電気代・ガス代」42%で、次は「食品」30%でした。食品について思うのは、せめて主食の米は消費税無しにできないのか?ということです(-_-;)

景気が悪化した理由として、「ウクライナ情勢などによる物価高に政府がうまく対応していないから」(61%)というのがありました。外国と比べてまだまだ物価は安いんですけどね(;^_^A

変えなければいけないのはとにかく安いものを買おうという意識、買い物を控えようとする意識ですね。それだといつまでも賃金は上がりません(-_-;)世界からも置いて行かれます…。

〇JR3社、新幹線「喫煙ルーム」2024年春に廃止を発表

JR東海・西日本・九州は、東海道・山陽・九州新幹線の「喫煙ルーム」を2024年春の廃止すると発表。JR西日本は「近年の健康増進志向の高まりや喫煙率の低下を踏まえ、2024 年春をもって山陽新幹線車内のすべての喫煙ルーム及び駅の喫煙コーナーを廃止」すると発表している(喫煙率は1990年の時に30%を超えていたが、2019年で16.7%まで減少している)。JR東日本・JR北海道はすでに禁煙にしているため、これですべての新幹線で完全禁煙が実施されることになった。「喫煙ルーム」は、災害時に備えた非常用飲料水の設置スペースに変更される。

愛煙家のお笑い芸人たちからは悲鳴の声が相次いだ。オズワルドの伊藤俊介は、「待て待て待て待て。無理無理無理無理。死んじゃう死んじゃう死んじゃう。ダメだ新幹線喫煙所撤廃悔しすぎる。喫煙者は社会クビくらいのレベルにきている。たばこ税払って喫煙所撤廃されるって君。たばこ税ってなにかね君。もう喫煙者の徒党組ませてくれ。なんの活動もしないから。徒党だけ組ませてくれ。それかJT所属で出馬させてくれ。喫煙所でダルマに目書かせてくれ」とX(旧Twitter)にポスト。それに対する反応として、「電子タバコは認めてほしい」という意見があったが、電子タバコ自体は周りに臭い煙は出さないものの、喫煙者の鼻や口から出される目に見えない煙には有害物質が含まれており、周りに害を与える。喫煙ルーム撤去はなかなかにしんどいですけど、ホームに喫煙所あったと思いますので吸い溜めしてから乗りましょう&耐えましょう」という意見もあるが、駅のホームからも喫煙所は無くなるのでこの作戦も無理である。

そもそも喫煙所を無くすのは喫煙所に出入りする際に周辺に有害な煙が漏れ出て副流煙による被害をもたらすためだ。

新幹線の喫煙所を無くすとトイレで隠れて吸う人が出るのではないかと不安」と心配する声も。確かに…(-_-;)トイレに煙を感知するシステムをつけるしかないのかな。

「たばこ税を払っているのに」という意見があるが、酒税と同じく、中毒性があり、使用しすぎると体に大きな害となる点からして、抑制の意味もこめて税金が高く設定されているのだし、たばこは税収を大きく超える損失をもたらす(喫煙による火災・喫煙から来る病気による労働力の損失などにより、税収2.2兆に対し6,4兆もの損失をもたらすという[2005年])という試算もあるから、この論は当を得ない。

違法薬物ではないのだから、たばこを吸う権利が守られるべきだ…という意見も確かに一理ある。しかし、「海外に行くときはもっと長時間禁煙になりますよ」というX(旧Twitter)上の意見もあった。喫煙者以外も存在する密閉された空間の中では、やはり喫煙すべきではないと思う。権利は、他の人に害を与えない場合許されるものである。

家族に配慮して家の玄関脇で吸っている方がいたが、そのそばを通った自分は、その煙を吸って嫌だった…( ;∀;)

お酒が交通事故や暴力などの直接的被害をもたらすのに対し、たばこは副流煙による間接的被害をもたらす。副流煙の方が不特定多数を対象としているし、酒よりも健康被害が大きいのだから、酒よりも厳しく制限されるのも致し方ないのではないだろうか。

〇ポーランド与党 過半数届かず

ポーランドで15日に実施された下院の選挙結果が判明し、与党「法と正義」は過半数の議席を取れなかった。親EUの「市民連立」の得票率は法と正義の35.4%にあと少しに迫る30.7%で、他の党と連立を組めば政権が取れる可能性が高まった。「市民連立」のトゥスク元首相は「『法と正義』の支配は終わった」と勝利を主張した。

このニュースがいいニュースなのは、「市民連立」がウクライナ支援に積極的である一方、「法と正義」は消極的な一面があるということです。

ウクライナは黒海が封鎖されたことで、ヨーロッパ大陸に穀物を輸出するしかなくなったのですが、ウクライナ産の穀物は安いため、農家が打撃を受けることを懸念して、EUはウクライナの穀物輸出を禁止していました。これが9月15日に解除されたのですが、ハンガリー・スロヴァキア・ポーランドは輸入禁止を継続していました。ウクライナはこれはおかしいとWTOに提訴、これに反発したポーランド政府は9月30日、ウクライナへの武器支援をやめると宣言して、両国の関係は悪化していました。これが改善されることが期待できるのはうれしいですね(;^_^A 

また、近年、ポーランドとウクライナは歴史問題をめぐってで緊張が高まっていました。第二次世界大戦のころ、ウクライナ西部においてポーランド人が13万人も殺されたらしいのですが、それにはウクライナの民族団体である「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」・「ウクライナ蜂起軍(UPA)」が関わっていたのではないか、と言われているのですね。ロシアとの対立でナショナリズムが高まるウクライナは、近年、上記の民族団体を顕彰する動きを強めていますが、ポーランドはこれに反発しました。また、2016年にはポーランド人虐殺を扱ったポーランド映画「ヴォルィーニ」が公開されましたが、内容はウクライナ民族主義者によるポーランド人虐殺から逃れようとするポーランド人女性を主役とした物語であったため、賛否両論が巻き起こり(監督には、両国の関係をいたずらにこじらせるもの、と非難がある一方で、保守系の人々からは「ポーランド映画史上最高の歴史映画」などと熱狂的に支持された)、ウクライナでは「ポーランドの歴史的資料のみに基づいた」偏った映画だ、「ポーランドとウクライナの関係は10年後退するだろう」と批判が起こり、上映中止になりました。2022年6月には、ウクライナの駐ドイツ大使アンドリー・メルニクが、「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」の指導者のひとりであるステパン・パンデラ(1909~1959年。1959年にソ連により暗殺された。近年英雄視される傾向がある)はユダヤ人・ポーランド人虐殺に関わっていない、と発言、問題になりました(メルニクは7月に駐ドイツ大使をやめさせられましたが、その後外務副大臣、現在は駐ブラジル大使となっています)。

そんな中でも、ポーランドは選挙でウクライナ支援に積極的な「市民連立」を支持する人が多くいたのですね。三好範英氏の『ウクライナ・ショック』には、ポーランドのワルシャワ大学准教授ウカシュ・ゴウォタ氏の次の言葉が紹介されています。「ポーランドがウクライナを支援してきたのは、次は我々がロシアの侵略にさらされるかもしれないという気持ちからだ。ウクライナが我々のために戦ってくれていることを知っているからだ」

ポーランドの人たち、すごいなぁ…自分たちのことだけ、目先のことだけを考えてるんじゃないもんなぁ…。日本はどうなんかなぁ…。

2023年10月17日火曜日

新聞紙条例・讒謗律による言論弾圧⑥~鉄腸に負けじと批判の声強まる

 明治政府は1875年、改正新聞紙条例を出しましたが、それから1か月、法律が適用されることは無く、処罰を受ける者は1人もいませんでした。

しかし8月7日、とうとう、『東京曙新聞』主筆の末広重恭(鉄腸)が禁獄2か月・罰金20円の処罰を受けることになりました。

これで新聞人たちは委縮する…と思いきや、なんと末広重恭に負けじと新聞紙条例を批判する声が続々とあがっていくことになるのでした…!🔥

なんという硬骨漢…!忖度なんてノーサンキュー!その心意気やよし!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



〇硬骨の新聞記者たち

改正新聞紙条例に臆することなく、政府に批判的な社説を載せた新聞をかいつまんで見ていきます。

・8月5日

箕浦勝人(1854~1929年。のち第二次大隈内閣で逓信大臣)は、

『郵便報知新聞』の社説で次のように述べました。

…民権の問題は新聞紙上において大きなにぎわいを見せている。初めて「民権」という言葉が入ってきたときには、人々は怪しんだり、嫌ったりする者もいたが、聞き馴れるにしたがって、「民権」と聞けば楽しみ、快くなり、口を開けば「民権」と言うようになった。イギリスのマグナカルタは世の人々で賞賛しないものはなく、イギリスの繁栄のもととなった。日本人もこのきまりを慕う気持ちが高まってきており、民権を主張する者でマグナカルタを引き合いに出さない者はいない。人々はマグナカルタのようなきまりが無ければ、国の開化は達成できないと思うようになっている。しかし私は不満なことがある。いまだ「ハビース・コルプス・アクト」[Habeas Corpus Actのこと]人身保護法(身体の自由を保護する法律)について論じる者がいないことだ。社会において抑圧専擅[おさえつけ、自分の思いのままにする]の法律は作られやすい。それを考えると、このような法律から身を防ぎ、国民の安寧幸福を守るためには、人身保護法はマグナカルタにも負けず劣らず必要なきまりであると言えよう。ブラッキストーン氏[イギリスの法学者、ウィリアム・ブラックストン(1723~1780年)のこと]は人身保護法について、これは第二のマグナカルタであり、イギリス人民の人権の基礎であり、千年変更するべきではない、と言ったという。他の法律家も、人身保護法の大切さは、どんな雄弁家が何時間しゃべっても、どんな文豪が何億慢枚の文章を書いてその効能についても語っても、ほめすぎることにはならない、と言っている。欧米の文明国は、多少の違いはあれども、必ず身体の自由を守る法律がある。人身保護法の目的を要約すれば、暴君・奸吏が勝手気ままに人民に刑罰を与えることを防ぐことにある。そのため、人身保護法は民権家がきわめて大切だと思わなければならないものであって、文明政府と抑圧専擅の政府とを分けるもとになるものである。それなのになぜ誰一人として人身保護法について言及しないのだろうか。ある人は言う、民権家は皆政府を篤く信じているので、勝手気ままに人民を束縛拘引して人権を侵害することはないと信じているからである。私がその心を推量するに、「皇帝陛下であっても人民の身体・生命をほしいままにすることはできない、役人ならばなおさらである」と安心しているのだろうと考える。しかし、これではかりそめの安心である。私は決して政府を疑っているわけではなく、今の政府を暴政府と言っているわけではない。今の政府のやり方を見ても、少しも乱暴なところはない。日本は自由に進もうとしているのだと感じている。しかし、賢明な日本政府であっても、同じ日本の地に生まれ、同じ日本の空気を吸い、同じ日本で教育を受けた人々の集まりであるから、日本人によくみられるような失敗をすることも時々ある。だから、人身保護法を作っていざという時に備える必要があるのである。今の政府は賢明だが、いつ暴政府に変わるかもしれず、今の法律の用い方は正当だが、明日には豹変して役人の気持ち次第で刑罰を決めることになるかもしれないのだ。こうなった時に人民は頼るべき法律が無く、仕方なく反乱を起こすかもしれない、そうなったら人民の不幸であり政府の恥辱である。ではこの法律はどのようにして作るべきか。人民が政府に作ることを迫るべきか、政府が進んで作るべきか。どちらのやり方が正しいかはわからないが、政府は国民のため平穏を望む傾向があるので、自らこの法律を作って人民を満足させてくれるであろう。しかし、政府が威権をそがれるのを恐れて作らないのであれば、人民自らが法律の案を作ってもよいだろう。欧米にお手本が既にあるのだから、特別の委員若干名を選んでこれを作らせるのは難しくないだろう。…

政府をヨイショしていますが皮肉なのは明らかで、改正新聞紙条例を適用して末広重恭などを捕まえたことに対する危機感から人身保護法を作ることを提案したものでしょう。

人身保護法はイギリスではまず1640年に作られました。内容は、逮捕には国王、もしくは裁判所が発行した令状が必要であり、不当に逮捕されたものは救済を裁判所に求めることができる、としたものです。警官が自分の判断で勝手に逮捕することを防ぐためのものですね。1679年には改正されて、国王が令状を出すことはできなくなりました。

・8月6日

『郵便報知新聞』の社説では藤田茂吉(1852~1892年。のち衆議院議員)が次のように述べました。

…自由の精神がひとたび人の心に芽生えて人間社会に広がれば、どんな堤防があったとしても決してこれを防ぐことはできない。アメリカ合衆国が独立を宣言したとき、イギリスに名将・謀士[計略が巧みな人]がいなかったわけではないし、軍備が足りなかったわけでもないし、財政状況が悪かったわけでもないし、兵士が勇猛でなかったわけでもない。敵に勝つために必要な道具の量は余裕があったほどである。しかし、再びアメリカを支配し、アメリカ人の頭脳から自由の精神を排除するということはできなかった。アメリカは軍備や軍資金が足りなかったが、自由の精神に対しては誰も太刀打ちできないのである。この自由の精神はアメリカ独立戦争に参加したラファイエットをはじめとするフランス人に伝染し、そのフランス人たちが帰国するに及んで、自由の精神が堤防が決壊して水が激しく流れ出るように広がって、フランス政府の圧制でも防ぐことができず、ついにイギリスに亡命するに至った。イギリスは諸国よりも早く自由が流行したために、大陸に住む腕の良い職人・大きな富を持つ商人はイギリスに集まり、そのためにイギリスはますます富み栄えることとなった。フランスは常に堤防を設けて自由の精神が広がろうとするのを妨害しようとしていた。例えば「シントバルサルミウ」の虐殺[1572年に起こったサンバルテルミの虐殺のこと]では、数日間にわたり、フランス全土においてプロテスタントの者は男女老幼を問わずに殺害された。しかし、これをもってしても信教の自由は人々の頭脳から除去することはできなかった。

ここに1つの国がある。その国の政府が自分勝手に乱暴にふるまい、人民をおさえつけようとしたら、その国の人民の頭脳はどのようなことを考えるのだろうか。私は次のように想像する。「政府とは何ぞ。政府の役人は三面六臂[一人で数人分の働きをする人]を持つのか、千手観音の再来か、それとも七人将門[平将門には7人の影武者がいたとされる]の子孫なのか。政府はどんな妙術があれば人間の精神を自分の思い通りに彫刻することができるのか。例えば毛筆をもって思ったことを紙の上に表すことをできなくしたらどうか。しかし、刀より鋭い三寸の舌鋒あり、これをもって他人の耳に訴えればたちまちに頭脳に達し、その者が別の者に伝えていけば、数百・数千の人々は同じ思いを抱くようになるだろう。舌を結んで声を出せないようにしたらどうか。まだ両手があり、古代エジプト人が使っていたようなやり方で文字を書ける。こうなったら、最初に口火を切る人物の頭脳を破砕するという暴挙に出る以外方法は無いはずである」。このような想像をしても人に伝えることができなければこの想像は消えてなくなるのだろうか。いや、そうではない。この想像はますます膨張して頭脳の中に納まりきらなくなり、たちまち破裂して所かまわず四方八方に吹き出し、道理に訴えることができないため、ついに兵器に頼らざるを得ない。流れ出る血がしたたり落ち、生臭いにおいが全都を覆うことになる原因は、人民の頭脳が破裂するためである。気をつけなければいけない。戒めとすべき前例はそう遠くない時に起きているのである。

我が同僚の箕浦氏は、この災害が起きた事例を、各国の歴史から見つけて、心配で気がふさがったため、ついにまごころから、数千字にわたる文章を書いたのであるが、その文章を見た私はこれまでの処罰の歴史を思い出して心配になった。しかし、少しも心配する必要などない。我が国の政府は賢明であるし、政府の心配する災害を防ぐために事前に準備することを考え、人身保護法を作ることを希望しているのだから。私は箕浦氏の説を一歩進めて論じないわけにはいかない。箕浦氏が心配する「ヒュウマン・ウィチキス」(人間の浅はか)[human wickednessのこと]は、人間である限りかならずついてまわる物である。一度この持病の発作が起きると、普通の薬では治すことはできない。この持病の抑えとなるのは人身の自由を保証した証文であり、これ以外に持病を防ぐ手段はない。イギリス政府に圧制のてんかんが起きた時にこれを押さえたのはマグナカルタであった。政府・人民の利害が一致しなくなるのは、「ヒュウマン・ウィチキス」の起こるためである。これが起こるのはやむを得ないことなのだから、自由保護法が必要となる。私は切にこのきまりが作られることを希望する…

この文章は、末広重恭を捕らえたのは、ひどい刑罰を与えることによって、言論の自由を求める声をおさえこもうとしているのではないか、と考えて書かれたものでしょう。そして、政府に対し、自由を抑圧しようとすると外国のように騒動が起こり血が流れることになるぞ、と警告しているわけですね(◎_◎;)勇気がありすぎて心配になる文章です…💦

・8月15日

成島柳北(1837~1884年)は、『朝野新聞』で、

…村夫人(田舎の先生・見識の狭い学者のこと)には塾生が数人いた。円になって座り、朝野新聞を読む。そこで新聞紙条例・讒謗律を読み、一人がこれはどこの国の法律が載っているのか、と尋ねた。甲吉が言った、「これは台湾の法律である。去年台湾を攻めた時、官庫から手に入れてきたのだろう」。乙平が言った、「ちがう、これは清国の法律である」。丙助が言った、「いやいやこれはロシアの法律である。日本はロシアと国境を接しているから、その国の法律を使うのであろう」。丁蔵が言った、「みんなまちがっている。これはドイツの法律を模倣したものである。日本の政府はドイツがフランスを力で従わせたのを見て、それにあこがれ、ドイツの法律を採用したのだ」。戌兵衛が言った、「諸君はなんて無知なんだ、これはトルコの新聞条例である。開化の具合がいまだにイギリス・アメリカに及ばないので、日本と同程度のトルコの新聞条例を利用したのだ」。議論は決着しなかったので、皆は村夫子に質問した。村夫子は言った、「お前たち、わかったふりをするのはやめなさい。これはロシア・ドイツの法でなく、トルコ・清国の法でもない。我が大日本帝国の法律である」。弟子たちは言った、「夫子は私たちをだまそうとしているのですか、わが国にはもともと新聞無く、新聞についての法律を、他から借りずに自前で作れるわけがない」。夫子は眼を怒らし、大喝して言った、「お前たちは不敬にも、政府の作った法律をむやみやたらに議論している!その罪許し難し!塾の決まりにのっとって、各自に罰金一銭を命じる!」弟子皆戦慄し、財布を振って一銭を渡した。夫子はにっこりと笑って銭をもらい、妻に向かっていった、「これで夜食のおかずを買いに行きなさい」。

…と、婉曲に改正新聞紙条例を批判しています。

・8月30日

『郵便報知新聞』にて箕浦勝人は次のように嘆き、新聞紙条例を皮肉ります。

…6月28日は改正新聞条例が成立した日で、30日は内容が新聞に掲載されて世に広まった日であるが、私は、毎月28日、30日になると、しみじみとした気持ちになる。7月以後の新聞は、その前と比べて、やや嘆かわしい様子が見られる。逆に前よりも激しくなったものもあるけれども、以前のように思ったことをそのまま書けることは稀になり、論ずべき話題も、たとえ話を使うなど、遠回しな言い方で扱わざるを得なくなった。これによって読者に与える感動は薄くなり、世の与える利益に悪い影響を及ぼすことになってしまった。…私が同業の記者たちについて考えるに、このような条例をもって保護しない方が、国の平穏を害するような議論をする者がいなくなり、国の利益となる文章を書くようになると思う。これは私が同業の者をひいきしているだけかもしれないので、確かなことは言えないが。しかし、世の中で条例のことを嫌に思う者は、失礼の無いようにかしこまって自分の状態を進歩させるしかないのだろうか。そのくらい私たちの程度は甚だしく低いのだろうか。ああ。

・1876年2月15日

後に自由民権運動で中心的な活躍をすることになる植木枝盛(1857~1892年。のちに衆議院議員)もまた、『郵便報知新聞』で、

…人と猿を分けるものは思考力・想像力である。考えたことを伝え世の中を成長させるのは言論である。暴君はこの言論の自由を制限しようとする。言論の自由が制限されると、ただだまって政府の言うことを聞けばいいとなり、思考力・想像力はおとろえる。このような政府は人間を猿にしようというもので、私はこのような政府を「猿人政府」と名付ける。

…と批判しています。

・1876年7月1日

木庭繁・波多野克己は『草莽雑誌』で、

①新聞紙条例13条には、政府を変更したり、倒したりすることについて書いた者に罰を与える、とあるが、政府は悪事を行うことが絶対に無いという事か。悪事があれば、必ず誰かはその責任をとらなければならない。そうなった時、その者を変更したり、倒したりするのは国民の権利にして、義務ではないのか。イギリスの憲法では、悪事が起きても君主に責任はなく、政府が責任を負うという。なんとイギリスの憲法の美しいことか。なんとイギリスの役人の忠義に厚いことか。日本では役人を選挙で選べず、国会もない。そのため、法律は、自分たちで選んだ者の作った物だから聞くように、とならず、天皇陛下が仰せになっているのだから聞くように、となっている。これではその法律が悪法ならば天皇陛下に攻撃の矛先が向くではないか。これは天皇陛下を隠れ蓑にして自分たちは責任を免れようとする、あまりに不忠な行いではないか。このような、天皇陛下の評判を貶める、虎の威を借る狐のような役人をやめさせようとする行いは、天皇陛下に対する一大忠義といえないか。天皇陛下を隠れ蓑にするは私利、天皇陛下の為にというは義務である。どちらが天皇陛下の威を借りるのに適当であるか、どちらが天皇陛下の評判を貶めないか、少し考えればわかることである。13条は、政府を…ではなく、天皇をやめさせることについて述べた者は罰する…に変更すべきである。

②第14条には、法律を批判するものには罰を与える、とあるが、法律の良くない部分を批判するのは国民の義務である。そうしなければ国民の権利に害が及び、国民の権利が守られなくなってしまうからである。今できた法律が完全な物かどうかは、後の世になってみないとわからない。法律が完全でない時、法律を完全にするものは何か。批判である。批判を禁止してどうして法律を改良できるだろうか。また、法律は今日は適当でも、明日には不適当な内容になっているかもしれない。役人の間違った見解により作られた法律もあるだろうし、役人が自分勝手に作った法律もあるだろう。改良が必要な法律は枚挙にいとまがない。批判を禁ずるというのは、良くない点が見つかっても、改良するつもりがないということか。

…と痛烈に批判しました。

・1875年9月3日

一方で、擁護する論説もあり、『東京日日新聞』は次のように述べています。

…新聞紙条例は論理的な意見を抑えるために作られたのではない。政府は言論の自由を、社会の治安が妨害されない範囲に収めようと、その限界を設定したに過ぎない。論者の私は発言が過激・感情的になることなく、7月上旬以来、条例が障害だと感じたことはない。しかし世間では、ある者は条例は言論を抑えつけるものだといい、ある者はどんなに過激であっても言論の自由は制限してはならない、と言う。ヨーロッパの国々で、言論の自由を認めないところはない。しかし、言論自由を制限しないところもまた無いのである。自由の制限とは条例のことで、プロイセンでは検閲はしてはならないが、その他の出版の自由は法律によって制限を受ける、とし、オランダでは、法律に違反しない限りは許可を得ることなく自由に出版ができる、とし、イタリアは、出版は自由、しかし法律でその行き過ぎを抑える、とし、オーストリアは、国民は言論・出版の自由を持つ、しかし自由は法律の範囲内にとどまる、とし、ベルギーは、言論の自由を認めるが、言論の上での犯罪は認めない、スウェーデンでは、出版の自由を保障する、しかし、法律でその行き過ぎを罰するために処分を定める…としている。

確かに正論なのですが、当時国会がなく、法律を作るのに国民が関わることができていなかったのですから、「法律の範囲内」というのは政府のやりたい放題になってしまいます(-_-;)

「法律の範囲内」というのは、「国民の代表が作った」「法律の範囲内」、でなければいけません。

大日本帝国憲法は、よく「法律の範囲内」といって自由を制限している!と批判を受けているのですが、大日本帝国憲法には、法律を作る際には選挙で選ばれた議員の賛成を必要とする、と書かれているので、「国民の代表が作った」「法律の範囲内」の制限であり、他国と変わらないので、批判するのは見当違いです。

さて、新聞紙条例・讒謗律の批判の動きに対して、政府はこれを容認せず、

どこかの国の如く、批判する者たちを次々と逮捕していくことになります。

2023年10月14日土曜日

京都・奈良の産業

 何かに特化している町は面白いですね! 😍

今回は近畿地方の都道府県のうち、

「京都府・奈良県の産業」について見ていきます!😋

3つの県を比べると、

京都府も奈良県も第三次産業とが盛んだということがわかりますね。

でも、これらの県ではなぜその産業がさかんなのでしょうか??(゜-゜)

その理由について探ってみましょう!!😆

※マンガの後に各市町村についてまとめた表を載せています!!




大山崎町









安堵町











2023年10月12日木曜日

自由民権運動に大きな影響を与えたジョン・スチュアート・ミルの『自由論』

 今回は、日本の自由民権運動にも大きな影響を与えた名著、

『自由論』について見ていきたいと思います😄

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇自由民権運動に影響を与えた『自由之理』と『自由論』

自由民権運動で活躍した河野広中(1849~1923年。のち農商務大臣、衆議院議長)は、1873年3月、『自由之理』という本を買って馬上で読んでいたところ、その内容に大変な衝撃を受けます。

「是れ迄(まで)漢学、国学にて養われ、動(やや)もすれば攘夷をも唱えた従来の思想が、一朝にて大革命を起し、人の自由、人の権利の重んず可きを知り、又広く民意に基づいた政治を行わねばならぬと自ら覚り、心に深く感銘を与え、胸中深く自由民権の信条を画き、全く予の生涯に至重至大の一転機を画した」(『河野盤州伝』)

河野広中は「心の革命」が起こったと言っていますが、その精神を一変させてしまうような内容であったわけです。

では、その内容はどのようなものであったのか。

『自由之理』は、『西国立志編』も書いた中村正直(1832~1891年)がジョン・スチュアート・ミル(1806~1873年。河野広中が『自由之理』を読んだ2か月後に亡くなった)が書いた『自由論』を1871年に翻訳し、1872年2月に出版したものです。

ジョン・スチュアート・ミルは1806年、歴史家・経済学者であり、東インド会社に勤めていたジェームズ・ミルの子として生まれ、本人も若いころに東インド会社に勤めるとともに、様々な本を著すようになっていきます(『論理学体系』『政治経済論集』『経済学原理』など)。

そして1859年に『自由論』(原文「On Liberty」)を書きます。

本人は自由について書いた理由を、手紙の中で次のように書いています。

…今書くのに最善なのは自由に関する本だと思います。なぜなら、世論はますます自由を侵害する傾向にあり、社会を改革しようとしている者たちの考えている計画のほとんど全てが自由を破壊するものだからです。…

以下、『自由論』の内容を見ていきますが、自由民権運動に影響を与えた中村正直の『自由之理』は、原書よりも数等良書であるという評価を受けているため(『自由之理』は『自由論』をそのまま訳した直訳でなく、全体の意味を考えて訳された意訳である。本人は、「かつてヨーロッパの人が欧陽脩の酔翁亭記をラテン語で訳したとき、自らを評して、『原文は玉の如く訳文は泥の如し』と言ったそうだが、私の訳文も同じである」と謙遜している、中村正直の訳も適宜紹介していこうと思います😄

〇第1章 序論introductory)

本書の主題は「民的自由・社会的自由についてと、 社会が個人に対して正当に行使できる権力の性質と限界について」である。

…という書き出しで『自由論』は始まっています。

これを、中村正直は、「此書はシヴーイル リベルティ(人民の自由)即ちソーシアル リベルティ(人倫交際上の自由)の理を論ず。即ち仲間連中(即ち政府)にて各箇(めいめい)の人の上に施し行うべき権勢は、何如(いか)なるものという本性を講明し、幷びにその権勢の限界を講明するものなり」と訳しています。

ここで気になるのは「社会」を「仲間連中」と訳していることです。

実は当時、まだ「社会」という言葉は日本にありませんでした。

英語の「society」をどう訳すべきか。当時の日本人は頭を悩ませていました。

たしかに、「社会」とは?と聞かれても、説明するのは難しい感じがします。

辞典で調べると、「社会」は①人々の集まり②世の中③特定の仲間…と色々な意味が出てきます。

明治時代の翻訳家たちは、当初、「社会」を「仲間連中」と訳したり、福沢諭吉は「人間交際」と訳したりしていました。

しかしこれは範囲が狭いので適した言葉とは言えませんでした。

中村正直は「仲間連中」について、『自由之理』にオリジナルの補足部分を挿入して次のように説明しています。

「国中総体を一箇(ひとつ)の村と見る。村中に家数百軒あると見る。この百軒の家はみな同等の百姓にて、貴賤の差別なし。然るうえは、銘々安穏に暮らさるるように、家業に出精し、その他心の欲するに従い、自由に何事にても為し、利益を得て宜しき道理なり。固より他人に属し、これが指揮を受べき理なく、ましてや、他人に強られ、吾が本心の是とするものを行い得ざる理なきことなり。されどもこの百軒の家は、互いに持ち合いて一村となりたるものにして、たとい銘々檀那の権(自由の権)あり、自由に己が便利を謀りて宜しき訳とはいいながら、村中総体の便利をも謀らざるべからず。或は、隣村より盗賊の襲い入ることもあれば、相互いに力を合わせて、これを防がざるべからず。さるからに申し合せて百軒より、毎年少々ずつ金銭を出し、村中総入用となし、年番を立て、五・六軒にて、仲間を組み、村中の事を取り扱い、その総入用の中を以て、或は橋を架し、川を浚い、道普請を為し、或は相応の武器を備え、或は凶年の為にとて米穀を蓄わう。これ租税の姿なり。又村中に人を殺すものあり、仲間連中にて評議し、かかる人を赦しおかば、総体の害となるべしとて、これを刑罰に行う。これ刑法院の姿なり。抑も年番にあたる仲間連中は、村中守護の役目を持ることなれば、固より村中の事を裁判する権あり。されど、この権があまりに強くなるときは、一箇にて自由に事を行うことの妨となることなれば、仲間連中、即ち政府にて、一箇の人の上に施し行う権勢の限界を論定するは、人民の福祉を増んが為に、一大関係の事とはなりたるなり。」

これを見ると(本人もそう書いていますが)、中村正直は「society」(仲間連中)は「政府」のことだと考えていたようです(;^_^A

「society」を「社会」と訳したのは福地桜痴で、1875年1月14日の『東京日日新聞で初めて使用されたそうです。

「社」は人々の集まりとか団体のことを意味し、「会」は集まるという意味ですから、どちらも似たような意味で、大きな集まり(集まりの集まり)、みたいなイメージなんでしょうか(゜-゜)

社会と同じような意味に「世間」がありますが、

福沢諭吉は、『学問のすすめ』で、「社会」はいい意味だが、「世間」は悪い意味であり、学問に通じ徳の高い人は、世間での評判は気にするものではない、と言っており、

この説明からするに、福沢諭吉は「世間」には俗っぽい(品位に欠ける)イメージを持っていたようです(;^_^A

まぁたしかに、同じ「世の中」という意味でも、「世間」よりも「社会」の方が、なんだか高尚なイメージはありますね(゜-゜)

さて、話を戻しまして、ミルは続いて人民が自由を勝ち取ってきた歴史について述べています。

…これまで、「自由」とは支配者の専制から身を守ることを意味していて、人々は支配者の権力に制限をかけることをめざした。制限の第一段階は、特定の事に介入させない、ということであり、第二段階は、重要な事柄を決定するときには特定集団の同意を必要としたことであり、第三段階は、国民から指名を受けた代理人を統治の担当者とし、国民の意向次第で解任できるようにしたことであった…

これは、イギリスでは達成していたことなのですが、日本では、わずかに第一段階が達成した過去がある(不輸・不入の権)くらいで、第二・第三段階のことなんて頭にもなかったでしょう。

では中村正直はどのように訳したのでしょうか??

「国を愛し民を助くる義士、おもえらく、人民の安からざるは、君主の権に限界なきゆえなり、今よりは、君主民を治むるの権に、限界を立て定むべしと。この限界の義を名づけて、リベルティ(自由の理)とは云いしなり。」「この人民自由の理を保存するに、二様の法あり。第一法は、君主己等を治むる権を限り、君主より承允したる約定を得ることなり。」「第二法は、人民の心に、己等の利益となるべしと思うことは、これを言い表し、立て律令と為すを得る、統治(しはい)の権を厭束するなり。」「国の大小官員は、人民の委託する役人なれば、もし意に叶わぬときは、これを廃改することを得べし。されば、人民の選べる官員にて、組立ちたる政府なれば、政府の権勢は、決して人民の為に不便なるものとはならざるべしと」

第一段階は、君主のできることを限定し、それを約束させること。第二段階は、してほしいことを人民が法律にすることができること、第三段階は、人民の意に沿わない役人をやめさせることができるようにすること…と言っているのですが、やはり国会の概念が日本にないからか、国会の同意を得ないと政府は重要なことを決定できない、といったことは書けていません(;^_^A

中村正直は続けてこう言います。

…こうなると政府は人民の政府なので、政府の権は人民の権である。それでも、人民が治める政府の権力を制限しなければ、真の自由は得られない。なぜか。政府は「人民の志願に従い、政を行うと云うなれど、その所謂人民の志願は、国中総体の志願に非ずして、多数の一半の志願なり。即ち活発なる人民の部分にて、その党の多き者の志願なり。されば、この多数の一半、必ず少数の一半を圧抑せんと欲すべし。…所謂政府は、この多数の一半より成り立ちたるものなれば、政府の権を限らざれば、少数の一半、即ち勢弱き人民、その自由を保ちがたかるべし。…世俗これを多数の仲間の暴威と喚做(よびなし)て甚だこれを恐れ、官員の権勢を限り、この暴威を防ぐべしと思えり。」

政府は多数者によって選ばれた役人によって成り立っている。そうなると、多数者は多数者の側にとって都合のいい政治を行い、少数者にとっては得にならないことになる。それどころか、多数であることを笠に着て、少数者にひどいことをするかもしれない。このような『多数者の専制』('the tyranny of the majority')を防ぐためにも、人民の政府であってもその権力は限定しなければならないのだ…ということですね。

しかしミルは、「多数者の専制」は、政府でのみ起こる事ではない、世の中で多数派の意見…すなわち世論による抑圧も存在し、こちらの方がより恐ろしいと言うのですね(◎_◎;)

(中村正直は世論の事を、「一般に流行し一般に善とする意見議論」のことだと説明しています)

多数派を代表する政府は、世論の望むことを実行しているわけですが、

ミルは、世論は、自分たちが善とすることと違う考え方や生き方をしている人を認めず、自分たちと同じように行動させようとする傾向がある、と指摘します。

確かにそういうところありますよね…(-_-;)

政府は法律で人を縛るのですが、世論は法律でなくても、自由であるはずの人々の行動を、世論が望む型にはまるように縛ってしまいます。

世論のことをいちいち気にしながら行動しなければいけなくなるわけで、だからミルは世論による抑圧の方がおそろしいと言ったわけです。

そのためミルは、世論による生活の干渉にも限界線を設けなければならない、と言います。

では、人々の自由な行動を制限するもの、政府による法律と世論による生活の干渉には、どのような限界線を定めるべきなのでしょうか?

ミルは次のように言います。

…本書を書いた目的は、個人に対する社会の干渉で、使用される手段が政府の法律による刑罰の形であれ、世論の言う道徳の形であれ、強制と支配という形をとる時に、それが正しいかどうかを判断する、非常に単純な原則があることを主張することにある。その原則は、人の行動の自由を妨害するのに許されるのは、他者への危害を防ぐ場合に限られる、という事である。そうする方があなたにとって良いから、より幸せになるから、他の人はそうするのが賢明で、正しいことだと言っているからといって、個人にそうすることや我慢することを強制させることは正当ではない。このやり方は、個人を諌めたり、議論したり、説得したり、懇願したりするのには良いが、個人に対し強制したり、罰を与えたりするための理由にはならない。強制や処罰が正当化されるには、その行為を思いとどまらせなければ、他の誰かに害がもたらされると予測できなければならない。個人が社会に従うのは、他人に関わる場合である。単に自分自身に関係する部分においては、個人の独立性は当然ながら絶対的なものである。自分の身体と精神に対して、個人は主権者である。…

中村正直は次のように意訳しています。

「予この論文を作る目的は人民の会社(即ち政府を言う)にて、一箇(ひとり)の人民を取り扱い、これを支配する道理を説き明すことなり。即ち或は律法刑罰を以て、或は教化礼儀を以て、総体仲間より銘々一人へ施し行うべきその限界を講ずることなり。抑も人は各々自由の権ありて、固より吾が欲するところに従って為すべき訳にて、他人に抑制せらるべきようなし。しからば、何故に仲間会社に支配せらるるや。答えて曰く、人民自由に事を行って、相い互いに損害なきことなれば、仲間申し合せの会社は、いらぬものなれど、中には一方の自由は、一方の不自由となり、一方の利は、一方の害となることあるものゆえに、政府ありて、人民自由の権の中に立ち入り、これと相い関係し、世話をすることは、なくして叶わぬことなり。されば、人民銘々自ら守護するために、仲間会社即ち政府に支配せらるるもののゆえに、政府というものは、人民を保護するの用のみ。さるからに政府にて、人民を治むる当然の権は、他人の為に損害を為ものを防ぐに止まり、その他に及ぶべからず。譬えば今一箇の人あり、自らその為(する)ところを以て身体の便利と思い、礼儀の善きものと思えども、他人よりこれを見れば、頑愚なるにて、外にこれより便利美善なるものあれども、これを知らざるなり。然れども、その人の為るところ、一己の迷謬にして、他人に損害なきことなれば、もし政府にて、その人を強いてその自ら善しとするものを変ぜしむれば、政府が無理となることなり。蓋しかくの如き人を、政府にて説諭するは可なり。異見を言うは可なり、説諭を加え異見を為しても従わざれば、その儘(まま)に棄て置くべし。権勢を以てこれを強い、その人を難儀せしむるは、大なる不可なり。要してこれを言えば、人一己の行状について、他人に関係し、その損害となることは、政府にてこれを可否すること、理の当然なり。もしただ一己に関係し、他人に及ばざるものは、固より我が心の自由に任すべし。蓋し人己れが一身一心を治むることに於ては、不羈独立の君主なり。」

世論からの干渉という概念がまだないために、政府に関する事しか書いていませんが、それでも、当時の人々は、…政府は人を保護するためだけにあるのだ、人が損害を受けることを防ぐこと以外はしてはならないのだ…という文章に驚かされたことでしょう。

ちなみに、ミルは、成人していない人には主権は無い(強制されても仕方がない)、とも言っています。なぜなら、成人していない人は、成人と違って、自分自身の行為によって損害を受けることがあるからだ、と。

たしかにそうですねぇ。成人していても自分自身に損害を与える人もいますが…(;^_^A

そしてミルは言います。

…社会から干渉を受けない部分こそが本当の意味で自由と呼ぶのにふさわしい部分(「appropriate region of human liberty」)ということになる。それは3つある。1つは、良心の自由…どんなことに対しても、自分の意見と感情を持つ自由…であり、この自由はまったく干渉を受けない。自分の意見を表現するために出版する自由は、他人と関係するため、干渉を受ける原則に当てはまるかもしれないが、出版の自由は思想の自由と大いに関係があるので、切り離すことはできない。2つ目は、自分のしたいことをする自由である。周囲に迷惑をかけない限り、誰からも邪魔されない。3つ目は、個人同士が団結する自由。他の人に迷惑をかけない限り、どんな目的であっても団結できる。

日本国憲法でも、思想・良心・表現の自由は無条件の権利となっています(公共の福祉の制限を受けない)。しかし、そうとは言いながら、実際は表現の自由は3つのことで制限を受けています。1つは、他人に損害を与えるものを書いてはいけない(刑法222条脅迫罪・刑法230条名誉棄損罪・刑法231条侮辱罪)。誹謗中傷やプライバシーに関わることですね。2つ目は、国の安全保障に関する「特定秘密」について書いてはいけないということ(特定秘密保護法)。3つ目は、わいせつな物を書いてはいけない(刑法175条)。

だから実際は表現の自由は「法律の範囲内」という但し書きがつくはずなのです。

(法律で制限するのは憲法21条違反と言えなくもない。憲法12条で国民は権利を「濫用」してはならない、とは書いてあるが、あいまいである)

その点、大日本帝国憲法は「法律の範囲内に於て言論・著作・印行・集会及結社の自由を有す」としっかり書いてくれています。

ドイツの憲法では表現・出版の自由は法律によって制限を受けると書いてあります(第5条②)。

おとなり韓国の憲法では、言論・出版は他人の名誉もしくは権利…を侵害してはならない、とはっきり書かれています(第21条④)。

…というわけで、完全な自由があると言えば「思想・良心の自由」だけなのですね(;^_^A

人の心の中にとどまるものだけが本当の自由で、ひとたび体の外に出たら制限を受けることになるわけです。

しかし、この表現・出版の自由については、ジョン・ミルトンが『アレオパジティカ』で一冊丸ごと使って語っているように、大切な自由であるので、ミルも、第2章で詳しく取り扱っています。

〇第2章 思考と議論の自由(「OF THE LIBERTY OF THOUGHT AND DISCUSSION.」)

ミルは次のように言います。

…政府と人民は一体であるから、世論に沿わない限りは言論に対して強制力を行使することは無いだろう。しかし、世論が望んだとしても、言論を制限するのは不当である。1人の人間以外全員同じ意見を持っていたとしても、その1人を黙らせるのは、独裁者が残りの全員を黙らせるの同じように不当である。意見の発表を沈黙させることは特別に有害で、人類から大きな利益を奪うことだ。なぜなら、その意見が正しい場合、人々は誤りを正す機会を失うことになり、その意見が誤っている場合でも、真理というものは、誤った意見と衝突することによって、より明確になるものだからである。

言論を制限しようとする者は、自分の意見が絶対的に正しいと思い込んでいる者である。1つの意見を絶対的に正しいと思いこんでいる人は、加虐的になりやすく、のちの世の人々を驚かせ恐怖させるような大変な誤りを犯してしまう。例えばイエスを迫害した人々であり、宗教改革を弾圧した人々である。1857年のインド大反乱の際には、イギリスでは、聖書が教えられていない学校には公費を使って支援すべきではなく、キリスト教徒でなければ公職に就かせるべきではない、という声が挙がった。内務省政務次官W.N.マッセイは、「彼らが宗教と呼んでいる迷信を寛大に扱ったがために、イギリスの名誉の高まりが妨げられた。自由というのは、キリスト教徒にのみ与えられるのである」と言った。…

では、誤った判断をしないようにするにはどうすればよいのか?

…人が判断力を育てるには、重要な問題について自分の意見を持ち、その意見の根拠を学ぶことが必要である。そして、少なくとも、反対意見に対して自分の説を擁護できるようにしなければならない。

問題について本当に理解できる人は、どちらの意見にも公平に耳を傾け、両論を理解しようと努めている人だけである。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

信頼できる判断をする人というのは、自分の意見や行動に対する批判を謙虚に受け止め、批判の当たっているところは受け入れて、自分に役立てて来た人である。

人間は、経験と議論によって自分の誤りを正すことができる。経験してわかったことがあったといっても、議論をしなければ、物事の本質はわからない。

ある意見に対して、色々な反論がなされても、論破されなかった場合と、異論を認めない場合では、どちらが真理を得られるのか、言わなくてもわかるだろう。他人に反論させる機会を失わせてはならない。反対者と議論する中で、説明したり、弁護したりすることによって、自分の意見の中の真理を正しく理解することができるようになるのであって、この方法以外に真実であるという保証を得られることはできない。

だから、真理に到達するためには、反対者がいなければならない。反対者がいない時には、彼らを想像し、思いつくことができるもっとも強力な意見を与えることが必要になる。…

そしてミルは、思想の自由・表現の自由が大切な理由を、次の4つにまとめます。

①沈黙させられている意見は真理であるかもしれない。

②沈黙させられている意見が誤りであったとしても、真理を含んでいる可能性がある。世の中に受け入れられている意見がすべて真理であることはめったにない。真理の残りの部分は、対立する意見とぶつかる時だけ、得ることができる。

③世の中に受け入れられている意見がまったくの真理であったとしても、議論が許されないのならば、人々は、その意見の合理的な根拠を理解することができなくなるので、人々はただ妄信するだけになってしまう。

④もしくは、合理的な根拠が理解できないので、その意味が失われたり、弱まったりして、形式的に行うだけになり、影響力を失ってしまう可能性が出てくる。

そして最後にミルは、表現の自由にも限界はあるのではないか、という意見を紹介したうえでこれに反論しています。

…意見を表明するときのやり方は、節度を守ったものであるべきだ、と言う人がいるが、この境界を決めるのは無理である。なぜなら、不快感を基準とすると、相手の意見が巧みで強力で、答えるのが難しくなったときは、必ず不快感が生じるものだからだ。毒舌・皮肉・個人攻撃は議論において良くないやり方だ、と言う人もいる。これは、意見の対立する双方に、このやり方を禁止するのならば納得できるが、禁止しない時、多数派を有利にする。なぜなら、少数派はこのやり方を使えば命が危ないので、このやり方を使うことができないからだ。多数派がこれをすると、反対意見が封じられてしまう。毒舌・皮肉・個人攻撃については、法律が関わることではない。世論が判断すべきものである。どちらの側であっても、主張のやり方が不誠実だったり、悪意・偏見・不寛容にもとづいた感情的なものであった場合は、世論により非難されるべきだ。一方で、反対者の意見を冷静に観察し、反論するときも過激にならず、でたらめを言わず、相手の不利な部分を誇張せず、反対者に有利になる部分を隠さない人がいたら、どんな意見を持っていたとしても、賞賛すべきである。…

世論による干渉があるのであれば、表現の自由はまったく干渉を受けない、というミル自身の言葉に矛盾するような気がします…(;^_^A

(ミルは第3章冒頭においても、…その意見が、有害な行為[例えば穀物商の家の前に集まった興奮した群衆に対し、穀物商は貧乏人を飢えさせる、と演説するなど]を扇動する場合であれば、自由の特権は適用されず処罰の対象になる…と述べています)

それはともかくとして、ミルが、意見を一つにまとめず、意見を多様なものにすべきだ、と言ったことは、次の章の内容にもつながっていくことになります。

〇第3章 幸福の要素の一つとしての個性OF INDIVIDUALITY, AS ONE OF THE ELEMENTS OF WELL-BEING.)

中村正直は第3章の冒頭を次のように意訳しています。

「損害ありとも一己に止まり、他人に及ばずということ、まさに眼目の着べきところにして、人民各箇の自由の界限(さかい)のあるところなり。凡そ人吾が自由の為に、他人を損害し、それをして難儀を受しむるは、不可なり。若し能く自ら戒めて、他人に関係する事を擾累(めんどうをかける)せず、ただ一己に関係するものは、吾が意見の是とするところ、好むところに従うこと、固より当れりとなす。既にかく意見の自由あること、確然疑いなきうえは、この道理を推(おす)に、各々他人に障礙せらるることなく、その意見を実事に行い出すを得る自由あるべきこと、明白なり。もし損費失敗することありとも、己一人にて甘んじ受け、他人に及ぼさざることなれば、何事にても、自由に行って可なるべきなり」

他人に迷惑をかけないのであれば、自分が正しいと思う道を、自分が好きなことを、自由に行ってもいいだろう、と言うのですね。

そしてミルは言います。

…人のまねをしたり、自分ですることを他人に選んでもらったりするのではなくて、これをしたいという気持ち、意気込みが、自分の心から出たものである人と言うのは、自分らしさ…個性(character)を持つ人であり、そうでない人は、蒸気機関(機械)と変わらない。個性を持つ人で、欲望や衝動を強い意志で制御できる人は、精力的に活動する。…

また、ミルは個性が存在するために必要な条件を、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767~1835年。ベルリン大学とも呼ばれる名門大学、フンボルト大学の創設者)の言葉を借りて次のように説明しています。

…人間が目指す所というのは、一時的な欲望の赴くままに行動するのではなく、自分の能力を、バランスよく成長させて、十分完全な物にすることである。そのためにはまず、個性(individuality)を見出すよう努力する必要がある。個性が存在するためには、「自由であることと、境遇(中村正直は「職業地位」と訳している)が多様であること( 'freedom, and a variety of situations' )」が必要である。これによって「個人の活力と豊かな多様性」が生まれ、それらが組み合わさって「独創性( 'originality.')」が生まれる。…

ミルは、ヨーロッパにその自由と多様性があったために、ヨーロッパがアジアと違って、停滞することなく向上できた、と言います。

…アジアの人々にはかつて独創性があった。人口も多く、学問が盛んで、技術も発展し、世界で最強最大であった。しかし今は、進歩が停滞し、他の民族に支配される憂き目に遭っている。一方で、ヨーロッパは進歩し続けている。われわれは次々と新しい機械を作り続けている。政治や教育においても、改革を求め続けている。これは、自由と多様性があったので、個性のある人間が多く生まれて来たからである。世の中に活力がある時というのは、個性のある人が多かった時代である。個性のある人は、皆が思いつかなかった新しいことや、優れたことを思いつく。彼らがいなければ、人間生活はよどんだ水たまりのようになっていただろう。個性のある人が才能を発揮するためには、多様な人々が多様な生き方を許されることが必要不可欠である。多様性から多様な意見が生まれ、その衝突から、高いレベルの思考や感覚がはぐくまれていった。その結果、多様な生き方を認められた時代というのは、後世において注目に値するような結果を残す時代になったのである。一方で、アジア、例えば中国では、同一の謨訓(模範となる教え。儒学のことか?)と同一のルールをもって、人々の精神・行動を束縛し、画一化し、自由と多様性が無くなってしまった結果、現在のような状況となってしまったのである。個性を持つ人がいなくなる時、進歩は止まるのである。…

しかし、ミルは、現在のヨーロッパは自由と多様性が失われてきている、と警告します。

…イギリスでは、多様性が失われつつある。これまでは、身分・地域・職業が違えば、環境は大きく違っていた。しかし今は、みんなが同じものを読み、聞き、見、同じ場所に行き、同じ対象に希望と恐怖を向け、同じ権利と自由を持つ。この画一化を進めているのは、①政治の変化…上層と下層の格差を縮小しようとしている②教育の普及…学校で定まったやり方で教育をすることで、考え方や行動に同じような影響を与え、同じような意見を持ち、同じような行動をとらせるようにしている③交通手段の進歩…遠くに住んでいる人とも交流できるようになったし、移り住むのも簡単になった④商工業の発達…生活を豊かなものにするとともに、どのような人々でも競争に勝てば最高の地位が得られるので、皆が上昇志向を持つようになっている…の4つである。

画一化が進んだことによって、現在の世論というものは、同じような考え方をし、似たような道徳観を持つようになった。そういう人々によって形作られた現在の世論は、際立った個性に極めて不寛容であり、変わった嗜好や願望を持つ人を軽蔑しさえし、皆がしているようにしない、とある人が非難すると、非難された人(特に女性)は酷評の的にされてしまう。自分の好きなように行動するためには、肩書や地位、もしくは地位のある人に一目置かれることが必要なのである。際立った個性を持つ天才が存在するためには、彼らが育つ環境を作る必要がある。天才は自由な雰囲気の中でのみ自由に呼吸することができる(「Genius can only breathe freely in an atmosphere of freedom. 」)。それなのに世論は中国の貴婦人の纏足のように、個性を世間から承認された基準におしこめようとしている。天才がこれを受け入れれば、社会は彼らから受けられるはずの利益を得られなくなる。彼らがこれを嫌がれば、世論は彼らを「野蛮(wild)」だの「常軌を逸している(erratic)」だのと厳しく注意する。これはナイアガラの滝に向かって、オランダの運河のように穏やかであれと文句を言うようなものである。今のイギリスは、集団的な力によって成り立っている。しかし、今の偉大なイギリスを作り上げたのは優れた個性を持つ人々であった。イギリスの没落を防ぐためには、優れた個性を持つ人々が必要である。個性の大切さを主張するべき時があるとすれば、それはまさに今なのである。…

それぞれが違う考え方のもと行動してた時は気にならないのに、多くの人が同じような考え方の下で行動するようになると、みんなこれをやってるのに、あの人は、なんでこれをしないんだ!?と気になるようになるんですよね。

普段の音楽の授業でやる気のない人がいても気にならないのに、合唱コンクールの時になるとやる気のない人が気になるようなものでしょうか。

人の自由ではあるんですけどね。誰かに危害を加えるわけでもないですし(原始時代に、狩りでやる気のない人がいたら、他の人を危険にさらすことになるので、強制されてもやむを得ない)。危害を加えるわけでもないのに他人の行動に目くじらを立てるのは、個人の権利や自由よりも全体を優先する全体主義の思考ですよねぇ。

でも、ミルは第4章で、他人に危害を加えていない人に対しても、強制はしてはいけないが、干渉はしてもいい、と言います(◎_◎;)

第4章ではミルは、社会が個人に対して強制や干渉をしてもいい範囲・してはいけない範囲について論じています。それを見てみましょう。

〇第4章 個人に対する社会の権力の限界(「OF THE LIMITS TO THE AUTHORITY OF SOCIETY OVER THE INDIVIDUAL.」)

…社会で生きる上で、個人には次の義務がある。①他人の利益を侵害していないこと②社会とその構成員を危害や妨害から守るために、労働や犠牲を分担すること。この義務を守らない者に対して、社会は罰を与えてよい。法律に違反していなくても、相手に対して思いやりを欠いた行動をとり、傷つけた場合(例えば、嘘をつく・だます・優位な立場の濫用・苦しい立場の人を助けようとしない)には、世論はその人を非難してもよい。そのような行為を生み出す性格(残忍・陰湿・嫉妬・不誠実・支配欲・独占欲・ささいなことで怒ったり恨んだりする・他人が苦しむのを見て面白がる・自己中心)も、非難されてしかるべきである。他人に危害を加えない限り、個人は完全に自由である。かと言って、他人に関心を持つな、というわけではない。自分を大切にしない人がいれば、よくないことから離れるように説得したり、警告したりしなければならない。しかし、非難したり、強制したりすることはできない。自分自身に関する事は、あくまで最終的な決定権はその個人にある。しかし、その個人が良くないこと(賭博や過度の飲酒など)をやめようとしない場合、周囲の人は、その人との交際を避けることができる(あからさまな態度を取ってはならない)。その人に近づこうとする人に、警告することも許されるし、義務でもある。その個人が、賭博や飲酒などの度が過ぎて、借金を返せなくなったり、家族を養えなくなった場合は、非難したり、罰したりしてもかまわない。責任に対する怠慢の為に、他人に迷惑をかけているからである。

他人に迷惑をかけない限りは、私的な行為は自由なはずなのだが、宗教なものにより、自由が制限されている場合がある。例えばイスラム教では豚肉が食べられない。スペインでは、聖職者は結婚できない。17世紀のイギリスでは、ピューリタンにより、多くの娯楽が禁止された。アメリカの一部では酒を飲むことが禁止されている(アメリカのメイン州で1851年に可決された禁酒法の事。これは10年ちょっとしか続かなかった)。

エドワード・ヘンリー・スタンリー(1826~1893年。外務大臣などを務めた)は、イギリスの禁酒運動団体に対して、次のように語っている。

「思想・意見・良心に関することは法律の範囲外であり、社会的行為は法律の範囲内、ということになっている。私はこう主張する。私の社会的権利が他人の社会的行為によって侵害されたときは、いつでも法律を作ることを要求できる権利があることを。例えば、アルコールの販売は私の社会的権利を侵害している。アルコールは社会の無秩序を引き起こし、安全という最も重要な権利を侵害する。アルコールは貧困者を作り出す。その支援費用となる税金を納めることが必要になり、平等の権利も侵害される…」

ここで言っている「社会的権利」というのは、「自分がすべきだと思うことを他人がしないのは権利の侵害に当たるから、法律で守ってもらうように要求できる権利がある」ということである。これほど不条理なものはない。なぜなら、(内部にとどまる思想・良心の自由を除き)どんな自由も認められなくなってしまうからだ。例えば、私が有害だと思う意見を、他人が言った時、それは法律によって罰せられる、ということになってしまう。人によって道徳の基準が異なるのだから、こういったことは一律に法律で裁くべきではない。…

酒を適度に飲む分には何の問題もありませんからね。問題は酩酊するまで飲むことです。禁酒法は過度の飲酒により問題が起こることを予防するために作られているのですが、ミルは第5章で、「国が行う予防の仕事は、濫用され自由の侵害となる可能性がかなり高い」と言っています。日本の治安維持法とかもそうですよね…。ミルは予防が許されるの事の例として、毒物を買うこと、以前に酩酊した状態で暴力を振るったことがある人が飲酒をすること、を挙げています。確実に誰かに危害が加えられる可能性が高い場合ですね。一方でミルは、アルコールに課税をすることは支持しています。ミルは、「課税対象は、人が使わずに済むもの、特に適量を超えると有害なものを選ぶべきである」と言っていて、課税により飲酒の自由が制限されることよりも、過度の飲酒を防ぐことを優先しているわけですね。日本では近々カジノができる予定ですが、利用者の税金にあたるのは入場料金2000円だけなようです。これではギャンブル依存症を防げないような…(◎_◎;)パチンコや競馬などにも税はかかってないようですね。回数に応じて税金を取らなければいけないと思うのですが…。酒税はビールの場合27.5%、タバコ税は52.6%ありますから、例えば馬券1枚100円に対して、それくらいの課税をして1枚130~150円くらいにすべきではないでしょうか…??(゜-゜)

さて、『自由論』の内容をかいつまんで見てきましたが、その内容を要約すると、

①他人に危害を加えない限り自由である。

②人民の代表による政府であっても、少数者を抑圧する「多数者の専制」を防ぐために、その権力を制限するべきである。

③言論は多様であるべきで、1つの意見以外を封じるべきでない。1つの意見を妄信する人は、大変な誤りを犯す。意見が衝突することによって、人は自分の意見の誤りを正すことができるし、物事の本質を理解することができる。

④社会の進歩の為には個性が、個性が生まれるためには自由と多様性が必要不可欠である。世の人々は、個性的な言動をする人を抑圧してはならない。多様な人々が、多様な生き方をできるようにして、多様な意見が得られるようにしなければならない。

⑤他人の権利を侵害したり、国に対しての負担に応じなかったりする者には、国は罰を与えてよい。法律に違反していなくても、思いやりのない行動や性格に対しては、世の人々は非難してもよい。それ以外の行動は、節度を守る限りは、非難してはならない。

…ということになりますね😕


2023年10月7日土曜日

「置き配」を選んだらポイントがもらえる⁉~物流業界の「2024年問題」

10月6日、政府は、配達の際に玄関前などに荷物を置く「置き配」を選んだ人に通販サイトなどで使えるポイントを付与する制度を今後実施することを発表しました。

なぜ政府は「置き配」に対しポイント還元をしようとしているのでしょうか?

実はそれには、来年以降の日本に訪れる大問題が関わっていたのです…(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「2024年問題」

全日本トラック協会の「日本のトラック輸送産業現状と課題」によれば、輸送・機械運転従事者数は、令和元年(2019年)の87万人をピークに、令和2年85万人、令和3年84万人と減少を続けている。 年齢階級別就業者構成比は、平成22年(2010年)では40歳未満:38.7%、50歳以上:33.7%であったが、令和3年(2021年)では40歳未満:24.1%、50歳以上:45.2%と、急速に高齢化が進んでいる。若者がトラック運転手になりたがらないのは、低賃金・長時間労働が理由で、年間所得額は全産業平均に対し、大型トラック運転手は5%、中小型トラック運転手は12%低く、年間労働時間は全産業平均に対し、大型トラック運転者は432時間(月36 時間)長く、中小型トラック運転者は372 時間(月 31 時間)長い。

大変な仕事なのに給料が低いのでは、若者はトラック運転手になりたがらないだろう(-_-;)

それに追い打ちをかけるのが「働き方改革関連法」で、2024年4月1日からトラック運転手の残業時間が年960時間に制限されることにより、①1日に運べる運送量が減少する②残業代が減り、さらに運転手の収入が減少する(残業時間が960時間を超える長距離ドライバーが「いる」と答えた事務所は48.1%も存在する。残業時間が規制されると、年間収入が最大で60万円減少する運転手もいるという)…という問題が生じることになる。これを「2024年問題」という。

このまま何もせず手をこまねいていると、輸送力は2024年度には14%、2030年度には34%も減少するという。

そこで政府は10月6日に「2024年問題」の対策として「物流革新緊急パッケージ」をまとめた。

①物流の効率化

・物流施設の自動化・機械化の推進

・貨物列車・フェリーの輸送量を10年で倍増

・SA・PAにおける大型車駐車マスの拡充や駐車マス予約制度の導入

②荷主・消費者の行動変容

・コンビニでの受け取り・置き配・ゆとりある配送日(3日後~)を選んだ場合、ポイント付与→現在の再配達率12%を6%に減らすことを目指す(2021年度、再配達は11.8%にのぼった。再配達の労力はドライバー6万人分に匹敵し、再配達分のトラックから出る二酸化炭素は25万トンになるという。これは25mプール25万杯分で、日本から出る二酸化炭素量の0.02%にあたる[2021年度])

…「誰かの犠牲の上に成り立つ便利」は、見直されなくてはいけない。消費者が意識を変える必要がある。そもそも、自宅に配達するシステムが非効率的に過ぎる。(置き配も盗難の恐れがあるし)自宅配達をやめ、ある程度の範囲ごとに荷物受け取り所(郵便局でもよい)を作り、客はそこに荷物を取りに行くシステムにすれば、運転手は荷物受け取り所に荷物をおろすだけでよくなり、労働時間は大幅に減るのでは。税金の封筒などは、自分が注文したものではないから、自宅に届けられればいいと思うが、自分で注文した分は、少しの面倒を我慢して、自分で受け取りにいかなければならないのではないか。

Yahoo!のコメント欄を見ると、次のような意見があった。

・政府の「ポイント付与」には違和感。頼む側が得をするのは変。

・コンビニ受け取りでもポイント付与では、コンビニ店員がますます大変になるのではないか。

・再配達は有料にすればよい。

・配達しなくてもいいから営業所でいつでも引き出せるシステムを作ってほしい。

・ポイント付与するならば値段に応じてにすべき。配達ごとであれば、まとめて注文をせず、小分けして注文する人が増える。

・置き配は盗難が心配。ポイント付与よりまず、PUDO(宅配便ロッカー)の設置を支援した方が良いのではないか。

・自宅への宅配はウーバーイーツのようなシステムを取り入れてもいいのでは?ウーバーイーツの成り手は多いのだから。

・元配達員ですが、置き配も写メを撮らなきゃいけないし、雨の日は写真が暗くて見えにくい、などとクレームを受ける時もあり、面倒でした。

・再配達有料にすると、アパートやマンションの場合は消防法で廊下に荷物を置けないことになっているので、置き配ができず再配達になりやすく、料金を取られてしまう可能性が増える。アパート・マンションごとに宅配ボックスを設置すべき。

・再配達有料にすると、在宅していたのに再配達料をとられた、とトラブルになりそう。実際に、2・3回チャイムを鳴らして出なかったので不在票を入れて置いたら、「在宅していたのに」とクレームの電話があったことがある。

・友人がAmazonの宅配ドライバーになったが、「1日200件の配達はキツイ」と1年未満でやめてしまった。

③商慣行の見直し

・物価動向の反映や荷待ち・荷役の対価等の加算による「標準的な運賃」の引き上げ

→現在、多くのトラック運送業事業者は、適正な運賃を受け取ることができていない。残業時間増加につながる「荷待ち」(荷主の都合[データ処理が済んでいない・倉庫側の調整不足で商品の準備ができていないなど]で順番待ちをさせられること)は、平均1時間45分も存在する(3時間以上の荷待ちも15.1%もある。中には午前10時から午後8時まで待たされたケースも)が、荷待ち時間に荷主から対価は支払われていなかった。他にも、「積み込み」「取り卸し」時間も対価が無く、高速道路利用料・燃料価格高騰分も「運賃」には含まれていなかった。例えば燃料価格が1円上がるだけでも、トラック業界全体で150億円も負担が増えるという。他にも、荷主から仕分け作業やシール貼り作業を無償でさせられることもあるという。

・適正な運賃の収受、賃上げ等に向け、2024年の通常国会で関連法の改正を目指す

→荷主に荷待ち時間短縮など効率化に向けた計画策定を義務付ける。

…他にも荷主の問題としては、小型の商品なのにそれよりも大きなサイズの箱で梱包(「ぶかぶか梱包」)する、というものがある(ぶかぶか梱包は40%にも達するという)。ぶかぶか梱包だと、1度に運べる量が減るだけでなく、本来は郵便ポストに収まるサイズだったのに入れられず、再配達になってしまうというケースも多いという。そこで、放送業界の老舗、ロックを中心に、「ぶかぶか梱包をやめようプロジェクト」が立ち上げられた。主な活動内容は、「ぴったり梱包」に適した資材や梱包方法の提案など。2023年10月から活動を開始する。


運送業や農業などは、人々の生活を支える大切な仕事なのに、待遇が悪く、収入が少ないので、若者で成り手が少ない。「便利で当たり前」「安くて当たり前」などと消費者が思っている限りは、これらの仕事に就く人は減っていくばかりだと思う。

2023年10月5日木曜日

旧国名が市町村名!~岐阜県編~「飛騨高山」は飛騨市と高山市のこと?

 市町村合併などを機に、新市町村名に旧国名をつけるパターンが

ほぼ全国的に見られます。

前回は大阪府編をやりましたが、

今回は、第7弾、旧国名が「美濃・飛騨」の岐阜県編です!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇美濃市

歴史は古く、明治時代末期の1911年に上有知町から「美濃町」に改名しています。

「美濃町」に改名したのは「美濃和紙」の産地であることに由来するそうです。

その後、1954年に洲原村・下牧村・上牧村・大矢田村・藍見村・中有知村が合併して「美濃市」に。

しかし、「美濃市」という名前は適切なのでしょうか…(◎_◎;)

美濃国の国府があったのは、現在の垂井町ですし、中心地は岐阜市です。

中心であった過去が無いのに、「美濃」を独占する名前を名乗るのは、どうなんでしょうか…(;^_^A

武儀(むぎ)郡に属しているのだから「武儀市」で良かったのでは…?

(美濃氏ができた翌年の1955年には中之保村・富之保村・下之保村が合併して「武儀村」となっている)

平成の大合併の際に、関市との合併も持ち上がりましたが、

「中濃地域市町村合併検討協議会」の議事録によれば、

関市は「関市に編入合併、市名も関市」という考えで、美濃市は「新設合併、美濃という名前を尊重してほしい」という考えで折り合わず、両市の合併は消滅しています(◎_◎;)

美濃市・関市にまたがる東海北陸自動車道・東海環状自動車道のジャンクションの名前は「美濃関ジャンクション」なんですけどねぇ…。

〇美濃加茂市

1954年、太田町・古井町・山之上村・蜂屋村・加茂野村・伊深村・下米田村と三和村・和知村の一部が合併して美濃加茂市となった。

(三和村の残りは川辺町、和知村の残りは八百津町)

市名の由来は加茂郡に属していたからだが、「美濃」がついているのは、

美濃加茂市が誕生する約1か月前に新潟県で加茂市が誕生していたため。

2003年、他の加茂郡の町村(坂祝町・富加町・川辺町・七宗町・八百津町・白川町・東白川村)と合併する話が持ち上がったが、美濃加茂市の反対(市民意向調査で「賛成:36.4%」「反対:54%」)により実現しなかった。

他の加茂郡の町村は「美濃加茂市に編入合併」「市役所は美濃加茂市」という美濃加茂市有利な条件をのんでいたのになぜなのか。

その理由としては、

①美濃加茂市に工場が増加し、経済が好調であったため、無理に市町村合併をする必要性を感じなかった。

人口5万人[当時]の美濃加茂市の地方債残高が187億円に対し、残りの町村が人口5.8万人で負債が241億円あったことから、他町村の負担を抱えたくない、という思いがあった。

(確かに、財政力指数を見ると美濃加茂市は岐阜県42市町村で7位に対し、残る7町村は坂祝町:23位、川辺町:31位、富加町:32位、八百津町:33位、七宗町:40位、白川町・41位、東白川村:42位と低い)

…といったことが挙げられるそうです(;^_^A

〇飛騨市

正式な漢字は飛「驒」。

2004年、少子高齢化・過疎化問題に対応するため、古川町(16135人)・神岡町(10827人)・河合村(1322人)・宮川村(1140人)が合併して誕生。

※旧宮川村には村おこしの一環で1994年に「飛騨まんが王国」が作られた。漫画図書館が併設された宿泊施設。全国から寄付された漫画42000冊をおさめる。旧宮川村のホームページには、「岐阜や富山の人じゃないと「飛騨まんが王国」ってどこにあるかあんまり知らないよね。何をかくそう、私も知らなかったんだぁ。(苦笑)」という自虐コメントが書かれていた。

合計して29424人と、市に昇格するための条件、30000人以上をギリ満たしていなかったのですが、市になることが認められました(;^_^A

飛騨市の人口はその後、2023年8月1日には21290人まで減少しています💦

先細りは見えていたので、高山市と合併すればよかったのでは…?と思うのですが、

調べてみるとどうやら、4町村は高山市に対して「新設合併」を求めたのに対し、高山市は4町村の「編入」(吸収合併)を求めたため、意見が折り合わず、4町村だけで独立して合併することになったようですね(◎_◎;)

さて、4町村は合併する際に新市名を公募したところ、

飛騨(1138票),吉城(225票),さくら(73票),北飛騨(70票),奥飛騨(54票),朝霧(33票),飛騨吉城(32票),飛騨古川(28票),古川(26票),北飛(22票)…という結果となりました。

「吉城」は合併する4市町村が「吉城郡」に含まれていたためです。

「さくら」は、古川町が舞台の1つとなった2002年の朝ドラ「さくら」に由来しています。

「朝霧」は、古川町に「朝霧の森」があったり、秋に霧が多く、「朝霧たつ都」と呼ばれていたりしたことに由来。

ちなみに、「飛騨」の1138票には、「ヒダ市」も含まれています(;'∀')

「飛騨市」を選んだ理由として、

・伝統的な感じがして良い。

・親しみがあり、わかりやすい。

・ぬくもりがあり、好きだから。

・是非とも後世につたえたい名称だから。

・歴史の重みを感じる。

・飛騨の伝統と文化を伝えたい。

・飛騨が好きだから。

・全国的に周知されているので良い。

…というのが挙げられています。

しかし、「飛騨市」と決まる際にはひと騒動あったようです(◎_◎;)

どのような騒動だったかというと、

周辺の飛騨地域の市町村が「地域の総称である”飛騨”の名称を、特定地域で使うのはいかがなものか」と懸念を表明したり、

高山市議会が「飛騨市」について「よく考慮を」と申し入れをしたり、

「『高山市と飛騨市にみる‘市名とブランド’の関係性』に係視察報告書(篠山市)」によれば、「高山市から相当のクレーム」があったりした、というものです💦

飛騨国の中心部分を担っていたのは高山市のほうで、国衙も高山市の所にあったと言われています。

飛騨の新聞は、社説で、

面積は飛騨地方の4分の1なのに「飛騨市」を名乗るのはおかしいのではないか、

長年親しんでいる「吉城」にすればいいのではないか、

「飛騨」の知名度・ブランド力に頼ろうとしているだけなのではないか…と批判しています(◎_◎;)

先に述べた「『高山市と飛騨市にみる‘市名とブランド’の関係性』に係る視察報告書(篠山市)」には、

高山市では、「飛騨市との関係であるが、飛騨市ができてから、飛騨高山は飛騨市を指すのか、高山市を指すのかという問い合わせは増えている。」

飛騨市では、「飛騨高山と誤解されることもあり、高山市と間違えて問い合わせがあったという事例もある。」

…という問題が発生している、ということが書かれています。

一方で、「飛騨市という市名が観光客数や農産物の売り上げに貢献したかと言われると、そういう事実はない。」とあり、「飛騨市」にしたことによる効果はさほどなかったようです(;'∀')

「飛騨市」では独自色も薄れてしまうし、やはり「吉城市」…もしくは「飛騨吉城市」でよかったのではないかなぁ…(-_-;)

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