今回は、日本の自由民権運動にも大きな影響を与えた名著、
『自由論』について見ていきたいと思います😄
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇自由民権運動に影響を与えた『自由之理』と『自由論』
自由民権運動で活躍した河野広中(1849~1923年。のち農商務大臣、衆議院議長)は、1873年3月、『自由之理』という本を買って馬上で読んでいたところ、その内容に大変な衝撃を受けます。
「是れ迄(まで)漢学、国学にて養われ、動(やや)もすれば攘夷をも唱えた従来の思想が、一朝にて大革命を起し、人の自由、人の権利の重んず可きを知り、又広く民意に基づいた政治を行わねばならぬと自ら覚り、心に深く感銘を与え、胸中深く自由民権の信条を画き、全く予の生涯に至重至大の一転機を画した」(『河野盤州伝』)
河野広中は「心の革命」が起こったと言っていますが、その精神を一変させてしまうような内容であったわけです。
では、その内容はどのようなものであったのか。
『自由之理』は、『西国立志編』も書いた中村正直(1832~1891年)がジョン・スチュアート・ミル(1806~1873年。河野広中が『自由之理』を読んだ2か月後に亡くなった)が書いた『自由論』を1871年に翻訳し、1872年2月に出版したものです。
ジョン・スチュアート・ミルは1806年、歴史家・経済学者であり、東インド会社に勤めていたジェームズ・ミルの子として生まれ、本人も若いころに東インド会社に勤めるとともに、様々な本を著すようになっていきます(『論理学体系』『政治経済論集』『経済学原理』など)。
そして1859年に『自由論』(原文「On Liberty」)を書きます。
本人は自由について書いた理由を、手紙の中で次のように書いています。
…今書くのに最善なのは自由に関する本だと思います。なぜなら、世論はますます自由を侵害する傾向にあり、社会を改革しようとしている者たちの考えている計画のほとんど全てが自由を破壊するものだからです。…
以下、『自由論』の内容を見ていきますが、自由民権運動に影響を与えた中村正直の『自由之理』は、原書よりも数等良書であるという評価を受けているため(『自由之理』は『自由論』をそのまま訳した直訳でなく、全体の意味を考えて訳された意訳である。本人は、「かつてヨーロッパの人が欧陽脩の酔翁亭記をラテン語で訳したとき、自らを評して、『原文は玉の如く訳文は泥の如し』と言ったそうだが、私の訳文も同じである」と謙遜している)、中村正直の訳も適宜紹介していこうと思います😄
〇第1章 序論(introductory)
本書の主題は「市民的自由・社会的自由についてと、 社会が個人に対して正当に行使できる権力の性質と限界について」である。
…という書き出しで『自由論』は始まっています。
これを、中村正直は、「此書はシヴーイル リベルティ(人民の自由)即ちソーシアル リベルティ(人倫交際上の自由)の理を論ず。即ち仲間連中(即ち政府)にて各箇(めいめい)の人の上に施し行うべき権勢は、何如(いか)なるものという本性を講明し、幷びにその権勢の限界を講明するものなり」と訳しています。
ここで気になるのは「社会」を「仲間連中」と訳していることです。
実は当時、まだ「社会」という言葉は日本にありませんでした。
英語の「society」をどう訳すべきか。当時の日本人は頭を悩ませていました。
たしかに、「社会」とは?と聞かれても、説明するのは難しい感じがします。
辞典で調べると、「社会」は①人々の集まり②世の中③特定の仲間…と色々な意味が出てきます。
明治時代の翻訳家たちは、当初、「社会」を「仲間連中」と訳したり、福沢諭吉は「人間交際」と訳したりしていました。
しかしこれは範囲が狭いので適した言葉とは言えませんでした。
中村正直は「仲間連中」について、『自由之理』にオリジナルの補足部分を挿入して次のように説明しています。
「国中総体を一箇(ひとつ)の村と見る。村中に家数百軒あると見る。この百軒の家はみな同等の百姓にて、貴賤の差別なし。然るうえは、銘々安穏に暮らさるるように、家業に出精し、その他心の欲するに従い、自由に何事にても為し、利益を得て宜しき道理なり。固より他人に属し、これが指揮を受べき理なく、ましてや、他人に強られ、吾が本心の是とするものを行い得ざる理なきことなり。されどもこの百軒の家は、互いに持ち合いて一村となりたるものにして、たとい銘々檀那の権(自由の権)あり、自由に己が便利を謀りて宜しき訳とはいいながら、村中総体の便利をも謀らざるべからず。或は、隣村より盗賊の襲い入ることもあれば、相互いに力を合わせて、これを防がざるべからず。さるからに申し合せて百軒より、毎年少々ずつ金銭を出し、村中総入用となし、年番を立て、五・六軒にて、仲間を組み、村中の事を取り扱い、その総入用の中を以て、或は橋を架し、川を浚い、道普請を為し、或は相応の武器を備え、或は凶年の為にとて米穀を蓄わう。これ租税の姿なり。又村中に人を殺すものあり、仲間連中にて評議し、かかる人を赦しおかば、総体の害となるべしとて、これを刑罰に行う。これ刑法院の姿なり。抑も年番にあたる仲間連中は、村中守護の役目を持ることなれば、固より村中の事を裁判する権あり。されど、この権があまりに強くなるときは、一箇にて自由に事を行うことの妨となることなれば、仲間連中、即ち政府にて、一箇の人の上に施し行う権勢の限界を論定するは、人民の福祉を増んが為に、一大関係の事とはなりたるなり。」
これを見ると(本人もそう書いていますが)、中村正直は「society」(仲間連中)は「政府」のことだと考えていたようです(;^_^A
「society」を「社会」と訳したのは福地桜痴で、1875年1月14日の『東京日日新聞で初めて使用されたそうです。
「社」は人々の集まりとか団体のことを意味し、「会」は集まるという意味ですから、どちらも似たような意味で、大きな集まり(集まりの集まり)、みたいなイメージなんでしょうか(゜-゜)
社会と同じような意味に「世間」がありますが、
福沢諭吉は、『学問のすすめ』で、「社会」はいい意味だが、「世間」は悪い意味であり、学問に通じ徳の高い人は、世間での評判は気にするものではない、と言っており、
この説明からするに、福沢諭吉は「世間」には俗っぽい(品位に欠ける)イメージを持っていたようです(;^_^A
まぁたしかに、同じ「世の中」という意味でも、「世間」よりも「社会」の方が、なんだか高尚なイメージはありますね(゜-゜)
さて、話を戻しまして、ミルは続いて人民が自由を勝ち取ってきた歴史について述べています。
…これまで、「自由」とは支配者の専制から身を守ることを意味していて、人々は支配者の権力に制限をかけることをめざした。制限の第一段階は、特定の事に介入させない、ということであり、第二段階は、重要な事柄を決定するときには特定集団の同意を必要としたことであり、第三段階は、国民から指名を受けた代理人を統治の担当者とし、国民の意向次第で解任できるようにしたことであった…
これは、イギリスでは達成していたことなのですが、日本では、わずかに第一段階が達成した過去がある(不輸・不入の権)くらいで、第二・第三段階のことなんて頭にもなかったでしょう。
では中村正直はどのように訳したのでしょうか??
「国を愛し民を助くる義士、おもえらく、人民の安からざるは、君主の権に限界なきゆえなり、今よりは、君主民を治むるの権に、限界を立て定むべしと。この限界の義を名づけて、リベルティ(自由の理)とは云いしなり。」「この人民自由の理を保存するに、二様の法あり。第一法は、君主己等を治むる権を限り、君主より承允したる約定を得ることなり。」「第二法は、人民の心に、己等の利益となるべしと思うことは、これを言い表し、立て律令と為すを得る、統治(しはい)の権を厭束するなり。」「国の大小官員は、人民の委託する役人なれば、もし意に叶わぬときは、これを廃改することを得べし。されば、人民の選べる官員にて、組立ちたる政府なれば、政府の権勢は、決して人民の為に不便なるものとはならざるべしと」
第一段階は、君主のできることを限定し、それを約束させること。第二段階は、してほしいことを人民が法律にすることができること、第三段階は、人民の意に沿わない役人をやめさせることができるようにすること…と言っているのですが、やはり国会の概念が日本にないからか、国会の同意を得ないと政府は重要なことを決定できない、といったことは書けていません(;^_^A
中村正直は続けてこう言います。
…こうなると政府は人民の政府なので、政府の権は人民の権である。それでも、人民が治める政府の権力を制限しなければ、真の自由は得られない。なぜか。政府は「人民の志願に従い、政を行うと云うなれど、その所謂人民の志願は、国中総体の志願に非ずして、多数の一半の志願なり。即ち活発なる人民の部分にて、その党の多き者の志願なり。されば、この多数の一半、必ず少数の一半を圧抑せんと欲すべし。…所謂政府は、この多数の一半より成り立ちたるものなれば、政府の権を限らざれば、少数の一半、即ち勢弱き人民、その自由を保ちがたかるべし。…世俗これを多数の仲間の暴威と喚做(よびなし)て甚だこれを恐れ、官員の権勢を限り、この暴威を防ぐべしと思えり。」…
政府は多数者によって選ばれた役人によって成り立っている。そうなると、多数者は多数者の側にとって都合のいい政治を行い、少数者にとっては得にならないことになる。それどころか、多数であることを笠に着て、少数者にひどいことをするかもしれない。このような『多数者の専制』('the tyranny of the majority')を防ぐためにも、人民の政府であってもその権力は限定しなければならないのだ…ということですね。
しかしミルは、「多数者の専制」は、政府でのみ起こる事ではない、世の中で多数派の意見…すなわち世論による抑圧も存在し、こちらの方がより恐ろしいと言うのですね(◎_◎;)
(中村正直は世論の事を、「一般に流行し一般に善とする意見議論」のことだと説明しています)
多数派を代表する政府は、世論の望むことを実行しているわけですが、
ミルは、世論は、自分たちが善とすることと違う考え方や生き方をしている人を認めず、自分たちと同じように行動させようとする傾向がある、と指摘します。
確かにそういうところありますよね…(-_-;)
政府は法律で人を縛るのですが、世論は法律でなくても、自由であるはずの人々の行動を、世論が望む型にはまるように縛ってしまいます。
世論のことをいちいち気にしながら行動しなければいけなくなるわけで、だからミルは世論による抑圧の方がおそろしいと言ったわけです。
そのためミルは、世論による生活の干渉にも限界線を設けなければならない、と言います。
では、人々の自由な行動を制限するもの、政府による法律と世論による生活の干渉には、どのような限界線を定めるべきなのでしょうか?
ミルは次のように言います。
…本書を書いた目的は、個人に対する社会の干渉で、使用される手段が政府の法律による刑罰の形であれ、世論の言う道徳の形であれ、強制と支配という形をとる時に、それが正しいかどうかを判断する、非常に単純な原則があることを主張することにある。その原則は、人の行動の自由を妨害するのに許されるのは、他者への危害を防ぐ場合に限られる、という事である。そうする方があなたにとって良いから、より幸せになるから、他の人はそうするのが賢明で、正しいことだと言っているからといって、個人にそうすることや我慢することを強制させることは正当ではない。このやり方は、個人を諌めたり、議論したり、説得したり、懇願したりするのには良いが、個人に対し強制したり、罰を与えたりするための理由にはならない。強制や処罰が正当化されるには、その行為を思いとどまらせなければ、他の誰かに害がもたらされると予測できなければならない。個人が社会に従うのは、他人に関わる場合である。単に自分自身に関係する部分においては、個人の独立性は当然ながら絶対的なものである。自分の身体と精神に対して、個人は主権者である。…
中村正直は次のように意訳しています。
「予この論文を作る目的は人民の会社(即ち政府を言う)にて、一箇(ひとり)の人民を取り扱い、これを支配する道理を説き明すことなり。即ち或は律法刑罰を以て、或は教化礼儀を以て、総体仲間より銘々一人へ施し行うべきその限界を講ずることなり。抑も人は各々自由の権ありて、固より吾が欲するところに従って為すべき訳にて、他人に抑制せらるべきようなし。しからば、何故に仲間会社に支配せらるるや。答えて曰く、人民自由に事を行って、相い互いに損害なきことなれば、仲間申し合せの会社は、いらぬものなれど、中には一方の自由は、一方の不自由となり、一方の利は、一方の害となることあるものゆえに、政府ありて、人民自由の権の中に立ち入り、これと相い関係し、世話をすることは、なくして叶わぬことなり。されば、人民銘々自ら守護するために、仲間会社即ち政府に支配せらるるもののゆえに、政府というものは、人民を保護するの用のみ。さるからに政府にて、人民を治むる当然の権は、他人の為に損害を為ものを防ぐに止まり、その他に及ぶべからず。譬えば今一箇の人あり、自らその為(する)ところを以て身体の便利と思い、礼儀の善きものと思えども、他人よりこれを見れば、頑愚なるにて、外にこれより便利美善なるものあれども、これを知らざるなり。然れども、その人の為るところ、一己の迷謬にして、他人に損害なきことなれば、もし政府にて、その人を強いてその自ら善しとするものを変ぜしむれば、政府が無理となることなり。蓋しかくの如き人を、政府にて説諭するは可なり。異見を言うは可なり、説諭を加え異見を為しても従わざれば、その儘(まま)に棄て置くべし。権勢を以てこれを強い、その人を難儀せしむるは、大なる不可なり。要してこれを言えば、人一己の行状について、他人に関係し、その損害となることは、政府にてこれを可否すること、理の当然なり。もしただ一己に関係し、他人に及ばざるものは、固より我が心の自由に任すべし。蓋し人己れが一身一心を治むることに於ては、不羈独立の君主なり。」
世論からの干渉という概念がまだないために、政府に関する事しか書いていませんが、それでも、当時の人々は、…政府は人を保護するためだけにあるのだ、人が損害を受けることを防ぐこと以外はしてはならないのだ…という文章に驚かされたことでしょう。
ちなみに、ミルは、成人していない人には主権は無い(強制されても仕方がない)、とも言っています。なぜなら、成人していない人は、成人と違って、自分自身の行為によって損害を受けることがあるからだ、と。
たしかにそうですねぇ。成人していても自分自身に損害を与える人もいますが…(;^_^A
そしてミルは言います。
…社会から干渉を受けない部分こそが本当の意味で自由と呼ぶのにふさわしい部分(「appropriate region of human liberty」)ということになる。それは3つある。1つは、良心の自由…どんなことに対しても、自分の意見と感情を持つ自由…であり、この自由はまったく干渉を受けない。自分の意見を表現するために出版する自由は、他人と関係するため、干渉を受ける原則に当てはまるかもしれないが、出版の自由は思想の自由と大いに関係があるので、切り離すことはできない。2つ目は、自分のしたいことをする自由である。周囲に迷惑をかけない限り、誰からも邪魔されない。3つ目は、個人同士が団結する自由。他の人に迷惑をかけない限り、どんな目的であっても団結できる。
日本国憲法でも、思想・良心・表現の自由は無条件の権利となっています(公共の福祉の制限を受けない)。しかし、そうとは言いながら、実際は表現の自由は3つのことで制限を受けています。1つは、他人に損害を与えるものを書いてはいけない(刑法222条脅迫罪・刑法230条名誉棄損罪・刑法231条侮辱罪)。誹謗中傷やプライバシーに関わることですね。2つ目は、国の安全保障に関する「特定秘密」について書いてはいけないということ(特定秘密保護法)。3つ目は、わいせつな物を書いてはいけない(刑法175条)。
だから実際は表現の自由は「法律の範囲内」という但し書きがつくはずなのです。
(法律で制限するのは憲法21条違反と言えなくもない。憲法12条で国民は権利を「濫用」してはならない、とは書いてあるが、あいまいである)
その点、大日本帝国憲法は「法律の範囲内に於て言論・著作・印行・集会及結社の自由を有す」としっかり書いてくれています。
ドイツの憲法では表現・出版の自由は法律によって制限を受けると書いてあります(第5条②)。
おとなり韓国の憲法では、言論・出版は他人の名誉もしくは権利…を侵害してはならない、とはっきり書かれています(第21条④)。
…というわけで、完全な自由があると言えば「思想・良心の自由」だけなのですね(;^_^A
人の心の中にとどまるものだけが本当の自由で、ひとたび体の外に出たら制限を受けることになるわけです。
しかし、この表現・出版の自由については、ジョン・ミルトンが『アレオパジティカ』で一冊丸ごと使って語っているように、大切な自由であるので、ミルも、第2章で詳しく取り扱っています。
〇第2章 思考と議論の自由(「OF THE LIBERTY OF THOUGHT AND DISCUSSION.」)
ミルは次のように言います。
…政府と人民は一体であるから、世論に沿わない限りは言論に対して強制力を行使することは無いだろう。しかし、世論が望んだとしても、言論を制限するのは不当である。1人の人間以外全員同じ意見を持っていたとしても、その1人を黙らせるのは、独裁者が残りの全員を黙らせるの同じように不当である。意見の発表を沈黙させることは特別に有害で、人類から大きな利益を奪うことだ。なぜなら、その意見が正しい場合、人々は誤りを正す機会を失うことになり、その意見が誤っている場合でも、真理というものは、誤った意見と衝突することによって、より明確になるものだからである。
言論を制限しようとする者は、自分の意見が絶対的に正しいと思い込んでいる者である。1つの意見を絶対的に正しいと思いこんでいる人は、加虐的になりやすく、のちの世の人々を驚かせ恐怖させるような大変な誤りを犯してしまう。例えばイエスを迫害した人々であり、宗教改革を弾圧した人々である。1857年のインド大反乱の際には、イギリスでは、聖書が教えられていない学校には公費を使って支援すべきではなく、キリスト教徒でなければ公職に就かせるべきではない、という声が挙がった。内務省政務次官W.N.マッセイは、「彼らが宗教と呼んでいる迷信を寛大に扱ったがために、イギリスの名誉の高まりが妨げられた。自由というのは、キリスト教徒にのみ与えられるのである」と言った。…
では、誤った判断をしないようにするにはどうすればよいのか?
…人が判断力を育てるには、重要な問題について自分の意見を持ち、その意見の根拠を学ぶことが必要である。そして、少なくとも、反対意見に対して自分の説を擁護できるようにしなければならない。
問題について本当に理解できる人は、どちらの意見にも公平に耳を傾け、両論を理解しようと努めている人だけである。
信頼できる判断をする人というのは、自分の意見や行動に対する批判を謙虚に受け止め、批判の当たっているところは受け入れて、自分に役立てて来た人である。
人間は、経験と議論によって自分の誤りを正すことができる。経験してわかったことがあったといっても、議論をしなければ、物事の本質はわからない。
ある意見に対して、色々な反論がなされても、論破されなかった場合と、異論を認めない場合では、どちらが真理を得られるのか、言わなくてもわかるだろう。他人に反論させる機会を失わせてはならない。反対者と議論する中で、説明したり、弁護したりすることによって、自分の意見の中の真理を正しく理解することができるようになるのであって、この方法以外に真実であるという保証を得られることはできない。
だから、真理に到達するためには、反対者がいなければならない。反対者がいない時には、彼らを想像し、思いつくことができるもっとも強力な意見を与えることが必要になる。…
そしてミルは、思想の自由・表現の自由が大切な理由を、次の4つにまとめます。
①沈黙させられている意見は真理であるかもしれない。
②沈黙させられている意見が誤りであったとしても、真理を含んでいる可能性がある。世の中に受け入れられている意見がすべて真理であることはめったにない。真理の残りの部分は、対立する意見とぶつかる時だけ、得ることができる。
③世の中に受け入れられている意見がまったくの真理であったとしても、議論が許されないのならば、人々は、その意見の合理的な根拠を理解することができなくなるので、人々はただ妄信するだけになってしまう。
④もしくは、合理的な根拠が理解できないので、その意味が失われたり、弱まったりして、形式的に行うだけになり、影響力を失ってしまう可能性が出てくる。
そして最後にミルは、表現の自由にも限界はあるのではないか、という意見を紹介したうえでこれに反論しています。
…意見を表明するときのやり方は、節度を守ったものであるべきだ、と言う人がいるが、この境界を決めるのは無理である。なぜなら、不快感を基準とすると、相手の意見が巧みで強力で、答えるのが難しくなったときは、必ず不快感が生じるものだからだ。毒舌・皮肉・個人攻撃は議論において良くないやり方だ、と言う人もいる。これは、意見の対立する双方に、このやり方を禁止するのならば納得できるが、禁止しない時、多数派を有利にする。なぜなら、少数派はこのやり方を使えば命が危ないので、このやり方を使うことができないからだ。多数派がこれをすると、反対意見が封じられてしまう。毒舌・皮肉・個人攻撃については、法律が関わることではない。世論が判断すべきものである。どちらの側であっても、主張のやり方が不誠実だったり、悪意・偏見・不寛容にもとづいた感情的なものであった場合は、世論により非難されるべきだ。一方で、反対者の意見を冷静に観察し、反論するときも過激にならず、でたらめを言わず、相手の不利な部分を誇張せず、反対者に有利になる部分を隠さない人がいたら、どんな意見を持っていたとしても、賞賛すべきである。…
世論による干渉があるのであれば、表現の自由はまったく干渉を受けない、というミル自身の言葉に矛盾するような気がします…(;^_^A
(ミルは第3章冒頭においても、…その意見が、有害な行為[例えば穀物商の家の前に集まった興奮した群衆に対し、穀物商は貧乏人を飢えさせる、と演説するなど]を扇動する場合であれば、自由の特権は適用されず処罰の対象になる…と述べています)
それはともかくとして、ミルが、意見を一つにまとめず、意見を多様なものにすべきだ、と言ったことは、次の章の内容にもつながっていくことになります。
〇第3章 幸福の要素の一つとしての個性(OF INDIVIDUALITY, AS ONE OF THE ELEMENTS OF WELL-BEING.)
中村正直は第3章の冒頭を次のように意訳しています。
「損害ありとも一己に止まり、他人に及ばずということ、まさに眼目の着べきところにして、人民各箇の自由の界限(さかい)のあるところなり。凡そ人吾が自由の為に、他人を損害し、それをして難儀を受しむるは、不可なり。若し能く自ら戒めて、他人に関係する事を擾累(めんどうをかける)せず、ただ一己に関係するものは、吾が意見の是とするところ、好むところに従うこと、固より当れりとなす。既にかく意見の自由あること、確然疑いなきうえは、この道理を推(おす)に、各々他人に障礙せらるることなく、その意見を実事に行い出すを得る自由あるべきこと、明白なり。もし損費失敗することありとも、己一人にて甘んじ受け、他人に及ぼさざることなれば、何事にても、自由に行って可なるべきなり」
他人に迷惑をかけないのであれば、自分が正しいと思う道を、自分が好きなことを、自由に行ってもいいだろう、と言うのですね。
そしてミルは言います。
…人のまねをしたり、自分ですることを他人に選んでもらったりするのではなくて、これをしたいという気持ち、意気込みが、自分の心から出たものである人と言うのは、自分らしさ…個性(character)を持つ人であり、そうでない人は、蒸気機関(機械)と変わらない。個性を持つ人で、欲望や衝動を強い意志で制御できる人は、精力的に活動する。…
また、ミルは個性が存在するために必要な条件を、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767~1835年。ベルリン大学とも呼ばれる名門大学、フンボルト大学の創設者)の言葉を借りて次のように説明しています。
…人間が目指す所というのは、一時的な欲望の赴くままに行動するのではなく、自分の能力を、バランスよく成長させて、十分完全な物にすることである。そのためにはまず、個性(individuality)を見出すよう努力する必要がある。個性が存在するためには、「自由であることと、境遇(中村正直は「職業地位」と訳している)が多様であること( 'freedom, and a variety of situations' )」が必要である。これによって「個人の活力と豊かな多様性」が生まれ、それらが組み合わさって「独創性( 'originality.')」が生まれる。…
ミルは、ヨーロッパにその自由と多様性があったために、ヨーロッパがアジアと違って、停滞することなく向上できた、と言います。
…アジアの人々にはかつて独創性があった。人口も多く、学問が盛んで、技術も発展し、世界で最強最大であった。しかし今は、進歩が停滞し、他の民族に支配される憂き目に遭っている。一方で、ヨーロッパは進歩し続けている。われわれは次々と新しい機械を作り続けている。政治や教育においても、改革を求め続けている。これは、自由と多様性があったので、個性のある人間が多く生まれて来たからである。世の中に活力がある時というのは、個性のある人が多かった時代である。個性のある人は、皆が思いつかなかった新しいことや、優れたことを思いつく。彼らがいなければ、人間生活はよどんだ水たまりのようになっていただろう。個性のある人が才能を発揮するためには、多様な人々が多様な生き方を許されることが必要不可欠である。多様性から多様な意見が生まれ、その衝突から、高いレベルの思考や感覚がはぐくまれていった。その結果、多様な生き方を認められた時代というのは、後世において注目に値するような結果を残す時代になったのである。一方で、アジア、例えば中国では、同一の謨訓(模範となる教え。儒学のことか?)と同一のルールをもって、人々の精神・行動を束縛し、画一化し、自由と多様性が無くなってしまった結果、現在のような状況となってしまったのである。個性を持つ人がいなくなる時、進歩は止まるのである。…
しかし、ミルは、現在のヨーロッパは自由と多様性が失われてきている、と警告します。
…イギリスでは、多様性が失われつつある。これまでは、身分・地域・職業が違えば、環境は大きく違っていた。しかし今は、みんなが同じものを読み、聞き、見、同じ場所に行き、同じ対象に希望と恐怖を向け、同じ権利と自由を持つ。この画一化を進めているのは、①政治の変化…上層と下層の格差を縮小しようとしている②教育の普及…学校で定まったやり方で教育をすることで、考え方や行動に同じような影響を与え、同じような意見を持ち、同じような行動をとらせるようにしている③交通手段の進歩…遠くに住んでいる人とも交流できるようになったし、移り住むのも簡単になった④商工業の発達…生活を豊かなものにするとともに、どのような人々でも競争に勝てば最高の地位が得られるので、皆が上昇志向を持つようになっている…の4つである。
画一化が進んだことによって、現在の世論というものは、同じような考え方をし、似たような道徳観を持つようになった。そういう人々によって形作られた現在の世論は、際立った個性に極めて不寛容であり、変わった嗜好や願望を持つ人を軽蔑しさえし、皆がしているようにしない、とある人が非難すると、非難された人(特に女性)は酷評の的にされてしまう。自分の好きなように行動するためには、肩書や地位、もしくは地位のある人に一目置かれることが必要なのである。際立った個性を持つ天才が存在するためには、彼らが育つ環境を作る必要がある。天才は自由な雰囲気の中でのみ自由に呼吸することができる(「Genius can only breathe freely in an atmosphere of freedom. 」)。それなのに世論は中国の貴婦人の纏足のように、個性を世間から承認された基準におしこめようとしている。天才がこれを受け入れれば、社会は彼らから受けられるはずの利益を得られなくなる。彼らがこれを嫌がれば、世論は彼らを「野蛮(wild)」だの「常軌を逸している(erratic)」だのと厳しく注意する。これはナイアガラの滝に向かって、オランダの運河のように穏やかであれと文句を言うようなものである。今のイギリスは、集団的な力によって成り立っている。しかし、今の偉大なイギリスを作り上げたのは優れた個性を持つ人々であった。イギリスの没落を防ぐためには、優れた個性を持つ人々が必要である。個性の大切さを主張するべき時があるとすれば、それはまさに今なのである。…
それぞれが違う考え方のもと行動してた時は気にならないのに、多くの人が同じような考え方の下で行動するようになると、みんなこれをやってるのに、あの人は、なんでこれをしないんだ!?と気になるようになるんですよね。
普段の音楽の授業でやる気のない人がいても気にならないのに、合唱コンクールの時になるとやる気のない人が気になるようなものでしょうか。
人の自由ではあるんですけどね。誰かに危害を加えるわけでもないですし(原始時代に、狩りでやる気のない人がいたら、他の人を危険にさらすことになるので、強制されてもやむを得ない)。危害を加えるわけでもないのに他人の行動に目くじらを立てるのは、個人の権利や自由よりも全体を優先する全体主義の思考ですよねぇ。
でも、ミルは第4章で、他人に危害を加えていない人に対しても、強制はしてはいけないが、干渉はしてもいい、と言います(◎_◎;)
第4章ではミルは、社会が個人に対して強制や干渉をしてもいい範囲・してはいけない範囲について論じています。それを見てみましょう。
〇第4章 個人に対する社会の権力の限界(「OF THE LIMITS TO THE AUTHORITY OF SOCIETY OVER THE INDIVIDUAL.」)
…社会で生きる上で、個人には次の義務がある。①他人の利益を侵害していないこと②社会とその構成員を危害や妨害から守るために、労働や犠牲を分担すること。この義務を守らない者に対して、社会は罰を与えてよい。法律に違反していなくても、相手に対して思いやりを欠いた行動をとり、傷つけた場合(例えば、嘘をつく・だます・優位な立場の濫用・苦しい立場の人を助けようとしない)には、世論はその人を非難してもよい。そのような行為を生み出す性格(残忍・陰湿・嫉妬・不誠実・支配欲・独占欲・ささいなことで怒ったり恨んだりする・他人が苦しむのを見て面白がる・自己中心)も、非難されてしかるべきである。他人に危害を加えない限り、個人は完全に自由である。かと言って、他人に関心を持つな、というわけではない。自分を大切にしない人がいれば、よくないことから離れるように説得したり、警告したりしなければならない。しかし、非難したり、強制したりすることはできない。自分自身に関する事は、あくまで最終的な決定権はその個人にある。しかし、その個人が良くないこと(賭博や過度の飲酒など)をやめようとしない場合、周囲の人は、その人との交際を避けることができる(あからさまな態度を取ってはならない)。その人に近づこうとする人に、警告することも許されるし、義務でもある。その個人が、賭博や飲酒などの度が過ぎて、借金を返せなくなったり、家族を養えなくなった場合は、非難したり、罰したりしてもかまわない。責任に対する怠慢の為に、他人に迷惑をかけているからである。
他人に迷惑をかけない限りは、私的な行為は自由なはずなのだが、宗教なものにより、自由が制限されている場合がある。例えばイスラム教では豚肉が食べられない。スペインでは、聖職者は結婚できない。17世紀のイギリスでは、ピューリタンにより、多くの娯楽が禁止された。アメリカの一部では酒を飲むことが禁止されている(アメリカのメイン州で1851年に可決された禁酒法の事。これは10年ちょっとしか続かなかった)。
エドワード・ヘンリー・スタンリー(1826~1893年。外務大臣などを務めた)は、イギリスの禁酒運動団体に対して、次のように語っている。
「思想・意見・良心に関することは法律の範囲外であり、社会的行為は法律の範囲内、ということになっている。私はこう主張する。私の社会的権利が他人の社会的行為によって侵害されたときは、いつでも法律を作ることを要求できる権利があることを。例えば、アルコールの販売は私の社会的権利を侵害している。アルコールは社会の無秩序を引き起こし、安全という最も重要な権利を侵害する。アルコールは貧困者を作り出す。その支援費用となる税金を納めることが必要になり、平等の権利も侵害される…」
ここで言っている「社会的権利」というのは、「自分がすべきだと思うことを他人がしないのは権利の侵害に当たるから、法律で守ってもらうように要求できる権利がある」ということである。これほど不条理なものはない。なぜなら、(内部にとどまる思想・良心の自由を除き)どんな自由も認められなくなってしまうからだ。例えば、私が有害だと思う意見を、他人が言った時、それは法律によって罰せられる、ということになってしまう。人によって道徳の基準が異なるのだから、こういったことは一律に法律で裁くべきではない。…
酒を適度に飲む分には何の問題もありませんからね。問題は酩酊するまで飲むことです。禁酒法は過度の飲酒により問題が起こることを予防するために作られているのですが、ミルは第5章で、「国が行う予防の仕事は、濫用され自由の侵害となる可能性がかなり高い」と言っています。日本の治安維持法とかもそうですよね…。ミルは予防が許されるの事の例として、毒物を買うこと、以前に酩酊した状態で暴力を振るったことがある人が飲酒をすること、を挙げています。確実に誰かに危害が加えられる可能性が高い場合ですね。一方でミルは、アルコールに課税をすることは支持しています。ミルは、「課税対象は、人が使わずに済むもの、特に適量を超えると有害なものを選ぶべきである」と言っていて、課税により飲酒の自由が制限されることよりも、過度の飲酒を防ぐことを優先しているわけですね。日本では近々カジノができる予定ですが、利用者の税金にあたるのは入場料金2000円だけなようです。これではギャンブル依存症を防げないような…(◎_◎;)パチンコや競馬などにも税はかかってないようですね。回数に応じて税金を取らなければいけないと思うのですが…。酒税はビールの場合27.5%、タバコ税は52.6%ありますから、例えば馬券1枚100円に対して、それくらいの課税をして1枚130~150円くらいにすべきではないでしょうか…??(゜-゜)
さて、『自由論』の内容をかいつまんで見てきましたが、その内容を要約すると、
①他人に危害を加えない限り自由である。
②人民の代表による政府であっても、少数者を抑圧する「多数者の専制」を防ぐために、その権力を制限するべきである。
③言論は多様であるべきで、1つの意見以外を封じるべきでない。1つの意見を妄信する人は、大変な誤りを犯す。意見が衝突することによって、人は自分の意見の誤りを正すことができるし、物事の本質を理解することができる。
④社会の進歩の為には個性が、個性が生まれるためには自由と多様性が必要不可欠である。世の人々は、個性的な言動をする人を抑圧してはならない。多様な人々が、多様な生き方をできるようにして、多様な意見が得られるようにしなければならない。
⑤他人の権利を侵害したり、国に対しての負担に応じなかったりする者には、国は罰を与えてよい。法律に違反していなくても、思いやりのない行動や性格に対しては、世の人々は非難してもよい。それ以外の行動は、節度を守る限りは、非難してはならない。
…ということになりますね😕
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