※マンガの後に補足・解説を載せています♪
1883年
3月10日 東京日日新聞
大坂の不景気 何地(いずく)も不景気の三字は免れざるが、ここに大坂近情の一端を聞くに、同所には西国筋へ通う小汽船150余艘あるも、先月以来乗客もなければ、積荷もなし。故に定期日限に出帆すること叶わず。…今にして持ち船を維持すること覚束なきもの数十艘に及び、水夫等を解雇するもの多きにぞ。彼らは馴れぬ陸仕事に業を改むるあれど、困難は目もあてられず。昨年中、神坂より讃州多度津へ航海せし船17万1375人にて、荷物は261万2350駄なりしが、今年は1月、2月両月、同所の船客2749人、荷物1784駄なれば、十分の一にも当らぬ高なり[※6倍すると1年分となり比較しやすくなるので6倍すると、1万6494人、1万704駄となる。客数は約10分の1だが、荷物数は約250分の1で、荷物数の減少が著しい]。衰頹も理なきにあらざるなり。
12月6日 朝野新聞
(東京)府下の景況は追々新年に近寄りたれど、米価の安きためか、はたまた一般不融通のためか、田舎仕入客の出廻りも例年の三分の一に足らざれば、府下の商況はますます寝入り、中にも呉服太物類は殊にはなはだしく、衣食住とも数えられながら、他物に比べてはよほどの下落をなしたるに、その捌け方思わしからざれば、大抵の呉服屋にては皆大負けに負けて、これまでわずかの買物をなすものあるも、糸なり小切れなりを御愛嬌に出したれど、思わしきほどの商いもあらざりしに、もはや歳末にも向かいたる事なれば、これではいかぬと気を揉み出し、昨今は大分見切り売りを始めし店ありて、二子織は4反で1円と云うもあり、または3円以上の買物をなせば、花色絹1反を景物[※けいぶつ。おまけの品]に出すなどと種々の苦心にて、ようやく客足を付くる等のことなれば、世の不融通も推して知るべく、この月末もまた思い遣られたりとは、さもあるべき事どもにて、実にこれや不景気の極みなるべし。それとこれとは事変われど、湯屋もこのほどより2厘の直下げをなし、大人1銭3厘となしたるは、これまた客を引かんとの考えなるか。
12月10日 東京日日新聞
松江の景況 島根県出雲国松江市街の米価は、現今は一石に付き3円20銭余、白米小売は一升に付き四銭内外にして、なお下落の勢いあり。これを明治13年[※1880年]11月すなわち米価最高の時に比すれば、当時の四斗入り一俵は現今一石の価よりは、おおむね一円の高価に過ぎず。この景況なれば、その他の諸価も随いて下落したれども、未だ権衡平準を得たりと謂うべからず。郷村農家は目今、納租に際し収穀を売却せんとするも、捌け口緩慢にして買い進む者なく、すこぶる販鬻に苦しむ模様なり。預り米を願い出ずるものは出雲各郡のみにして、石見、隠岐の両国にはあらず。けだしこの両国は出雲に比すれば、米価やや高きを以ってなり。その額は租金の四万円ないし五万円に至るべきが、諸産業は一般退守の方に赴き、商売は不景気にして、金融ははなはだ悪ししとの報あり。
1884年
8月11日 東京日日新聞
大坂始審裁判所[※現在でいう所の簡易裁判所か。軽微な犯罪を扱う]の所轄内に於いて、本年七月中、身代限り公募処分[※破産した者の財産を没収し、公売にかけること]に係れる者221名、この公売金額は総計わずかに193円70銭にてありしとか。これに掛りたる商業者の云うを聞くに、これをしてもし明治14年[※1881年]頃の物価騰貴の時にあれば、2800円位の価はあるべきなりと、物価の下落推して知るべきなり[※つまりだいたい14分の1となっている]。
11月29日 朝野新聞
11月調査、上野国西群馬郡横堀駅、佐藤広吉氏報。
明治13年[※1880年]
一、田1反歩
一、この地価80円
当時売買相場150円位
一、この収穫米2石5斗
当時売却相場33円30銭
一、この肥料3円62銭5厘
一、この手間代5円10銭
小以って残りて24円62銭5厘
一、地租2円
一、地方税19銭2厘余
一、協議費[※町村費]1円16銭
差引21円27銭3厘余赢[※残余率約64%]
明治17年[※1884年]
一、田1反歩
一、この地価80円
当時売買相場45円位
一、この収穫米2石5斗
当時売却相場15円
一、この肥料3円42銭5厘
一、この手間代4円90銭
小以って残りて6円67銭5厘
一、地租2円
一、地方税41銭6厘
一、協議費1円60銭
差引2円65銭9厘余赢[※残余率約18%]
明治13年
一、畑1反歩
一、この地価24円
当時売買相場85円位
一、この収穫高2石3斗
当時売却相場16円92銭
一、この肥料2円55銭
一、この手間代4円10銭
小以って残りて10円20銭7厘
一、地租60銭
一、地方税5銭7厘余
一、協議費34銭8厘
差引9円15銭7厘余赢[※残余率約54%]
明治17年
一、畑1反歩
一、この地価24円
当時売買相場25円位
一、この収穫高2石3斗
当時売却相場8円60銭
一、この肥料2円45銭
一、この手間代4円
小以って残りて2円15銭
一、地租60銭
一、地方税12銭4厘
一、協議費48銭
差引94銭6厘余赢[※残余率約11%]
1885年
1月10日 朝野新聞
旧臘29日の夜よりしきりに降雪し、翌30日の宵まで止まざりしが、積ること四寸[※約12㎝]余、午後は曇天、雨雪降らず至って穏やかにして風もなく、正午寒暖計五十度なりき。かく温和の天気なるに、市中往来の過半は担ぎ商と掛取りにて、諸店とも二人以上の客あるは、稀れに見掛けし位なり。これを一昨年の歳末に比すれば、あたかも三分一ならん。しかして掛金は一分位も取り集めしは、よほど大出来の分なりしと。以って市中に金なきを見るべし。しかれども月迫に随い諸色の気配よく、なかんずく米は十四、五日前に比すれば五割余も騰貴せしゆえ、商家及び農家は少しく色も取り直したるが、市中に金の払底なるは驚くばかりの有様なり。しかし在方は多分旧暦を以って新年の儀式を行う故に、旧暦の歳末にはかえって相応の儲け口あらんと、今より当てになし居れり。昨日伯州境より報道せし物価を見るに、橋津米一石に付き5円50銭、米子米5円25銭、出雲安来米5円20銭、出雲西米5円10銭にて、12月15日の物価に比すれば、これまた一石に付き一円余の騰貴なり。意宇郡忌部村の某は、支那にて酒を醸造するには、出雲米の至極適当なりと聞き、ここぞ一儲けせんものと、しきりに出雲米の買い入れに奔走する由なるが、望み通り纒まり次第同国へ向け輸出するつもりなりという。
5月10日 日出新聞
北越より東海道を経行したる人の直話に、近来石川県下の疲弊困窮は、実に名状すべからざるものあり。輪島の漆器、九谷の陶器など、一時は随分捌け口よくして、県下に銭の落ちる道となりしが[※1883年4月12日の郵便報知には、昨今茶の湯が大流行のため、茶器の売買が盛んになり、一月に何十回も道具市が開かれ、狩野探幽の素滝の絵が160円で売れた、「近来しきりに不景気を唱うれど、金沢はその名に背かず、金がたくさんあるものと見ゆ」とある]、近年は追々その業衰え、当時は全く廃業の姿なり。その故は、たとえ品物を製造しても、これを買い入れくるる人なければなり。金沢の人口は九万五千と称するが、その中十分の一は、その日の暮らしに差し支えるほどの貧民なり。近来はとみに乞食の数を増し、毎朝群を成して市中を横行し、その惨状見るに忍びず。江州の鉄道を経て、東海道地方に来たりみるに、民間疲弊の有様、加能越地方に比すれば、すこぶる軽きのなりと思わるる外見多し。しかし道中の木に、木賃宿の引札を張り付け、御泊り二銭など記しある中に、折々「御泊り八厘」と筆太に記したるものあるには、実に驚き入りたり。天保一枚にて一夜の宿を貸すとは、あまり不思議に堪えざれども、公然張り札も出しある事なれば、マサカ虚事にもあらざるべし云々と云えり。どうして賄いが出来るものにや。
5月15日 朝野新聞
いずれの地方より来たる信書も、みな貧民の惨状を説かざるはなし。なかんずく頃日南部地方[※青森県東部・岩手県北部]の来信によれば、往々死馬の肉を食する者あり。これらは食物全く尽き果てたるにあらねど、追々暑気に向かえば、死肉を食すべからざるを以って、今の内にこれを食い、暑中に至れば、わずかに貯え置きたる糠もしくはシーナ米[※中国米]を食用するつもりなれど、これまた十分の貯蓄あらねば、定めて餓死するもの少なからざるべし。死馬一頭の価はおよそ80銭内外にて、一人二ヶ月の糧に充つべし。試みにこれを六十日に割れば、一日の食料一銭三厘にて、三食とすれば一度の食料四厘強に当れりと。
岡山の来信に云う。当県の海近き処は、天明度の大飢饉以来、未だかって粥を施与する等の事なかりしに、先月より有志者の義捐を以って粥を施与する町村枚挙に遑あらず。美作の山間及び備中の奥にては、葛の根及び何とか称する赤き草の根を採り、糠に交えて食する者ありと聞けり。また生居村は従来貧村と云うにはあらねど、五十戸の内にて食料皆無なるもの、既に七、八戸に及び、児が飢えに泣けるを親が賺(す)かし慰むるなど、ほとんど天明の有様を述べたる書記を読むの想いあり云々と。
このごろ伊予[※愛媛県]の吉田より来たりたる人の話に、同地にては有志醵集したる金を以って、警察分署に於いて麦粥を施与せるに、これを乞うもの日々増加し、もはやその方便に苦しめりと云い、また石州[※島根県西部]安濃郡より来たりたる人の話に、同郡の海辺なる大田、鳥居、羽根等の諸村にては、既に食物を得るあたわず、惣じて予備倉の蓄積も尽き果てたれば、この上救済の方法いかがすべきやと、有志者はしきりに痛心せり。同郡すらこのさまなれば、浜田、津和野等のごときは、定めて更に困難に陥りたるなるべしと。
5月19日 朝野新聞
各地の惨況を略記すれば、秋田県仙北郡金沢村、江州八幡等は、二、三日間絶食者多く、新潟県長岡にては路傍に食を乞い、はなはだしきは餓死せんとする有様に付き、有志者は協力して救助せり。兵庫県淡路にては困窮の村日に増加し、内赤貧者は北海道へ移住せんとす。茨城県猿島(さしま)郡辺は困難者多く、豪家の尽力にてわずかに一命を繋ぎ居れり。京都二条外堀には投身多く、ために交番所を設けらる。かつ同府下は乞食多く入り込み、昼は橋上に袖乞いし、夜は橋上に露臥し、また貧のため棄子多し。福井、敦賀地方は強盗非常に増加せり。滋賀県西近江比叡山下近村の農民は、県庁より粥を施されしにて露命を繋げり。同県愛知郡新平民千五百人余の内八、九分は戸長へ詰め掛け、甲は二日、乙は三日間絶食せりとて泣き付きしより、慈善家は米と薪を施せり。三重県阿拝郡深溝村は戸数六十戸ばかりにて、三十戸余は有志者より粥を貰いて食し居れり。愛知県西春日井郡各村は貧民日々増加に付き、有志者は粥を施与せんと協議中。但馬国出石郡出石町は新乞食多く出現せり。千葉県銚子港伊貝村は、去る四月初め、飢饉に迫るもの三百人ばかりありて、粥を施与せし後追々その人員増加し、同月下旬に至りては千四、五百人となり、施与も続き兼ね、三十日間ほどにて止めたりと。その後はいかがせしや。和歌山県那賀郡は人口八万人あり。粥を啜るもの二万人にして、飢饉に迫る者三千余人なり。大分県大分よりの報中、近在近郷は皆食尽きてただ餓死を待つがごとし。群馬県前橋、高崎市街は豆腐殻を常食とし、またこのほど赤城山麓にて、小児二人餓死したりと云う。徳島県那賀郡辺は、まさに餓死せんとするもの千二百余人、鹿児島県日置郡は餓死するものはなはだ多し。
6月2日 東京日日新聞
世上一般の不景気中最もはなはだしきものありとて、京都よりの報に曰く、下京区大仏の近辺にては、中以下の者は米を買うべきなし。雪花菜(おから)、飴粕等を食してわずかに露を繋げる者多く、この近辺の飴屋、豆腐屋では、肝心の正物より殻や粕が売れるので、牛や鶏の餌に困りて、不景気の惨状は動物にまで波及するに至れり。また上の店の魚市場では、芥(ごみ)捨場に捨てある魚の腸を、近辺の子供が争うて拾い喰うもあり。その他身投げ、首縊りの多き事枚挙に遑あらず。かつその筋の調査によれば、目下洛中にて明家(あきや)の数は八千四百余戸なりと云う。それに続きて一昨日、熊谷より上京せし人に聞き得たるには、埼玉県下武州榛沢、男衾(おぶすま)、秩父の三郡は武甲山の山脈縦横して、人民はその谷々に家をなし、平素といえども米穀の十分に産出する地方にはあらざるが、昨今に至りては大小の別なく、人家は皆食物に窮し、特に中等以下の人民の惨状は実に目も当てられず。中には豪農、金満家もあれば救済の事に尽力すれど、施救者の資力には限りありて、被救者の人員は何ほどと云うを知らず。さればいずれもあぐみ果てて、ただ力の足らざるを歎くのみ。大抵右の貧民は小麦のフスマ、或いは葛の根を以って常食とし、死馬死犬ある時は、ことごとく秣場(まぐさば)に持ち往きて皮を剥ぎ、その肉を食うを最上の珍味とせり。また昨今首に札のなき犬どもは多く撲殺されて、飢民の腹に充たされぬ。その惨状かくのごとくなれども、警視察予防の行き届くと、人民に自ら質朴正直の風あるとによりて、強窃盗をなす者ははなはだ稀れなり。もっとも目下はこれにても一時の凌ぎは附くべけれども、本年の不時候にて収穫に不足を見る時は、いかなる有様に至るべきかと、県官郡吏は痛く心配し居らるるよし。右につき、熊谷、大宮の裁判所には訴訟の者絶えてなし。殊に貸借の淹滞(えんたい)などは、被告の方に弁金の見込みなく、結局原告の入費損が目に見えて居る故なりと語りし。
6月9日 東京日日新聞
群馬県より出稼ぎに出たる人の咄(はな)しに、上州地方にていずれの村でも困却せしは、苗にとて蒔き置きし籾を、夜な夜な盗み取りて喰いし者あるをしらず、芽を出す時刻の遅きを不審して、初めてこの事あるに驚き、再度蒔き直して、その後は苗守りをおく事となし、これがために植え付けの時期に後るる場所尠(すく)なしとせず。不景気の極ここに至れり。
7月1日 山陰新聞
左は困多道人より投ぜられしが、中には現今の実況を穿ちしもあれば、そのまま掲げて埋草とす。
一ツトセー、日々にいやます不景気は、売れず買わずのにらみあい。
ドウ成リ行クカ
二ツトセー、富者は〆込み[※無理にたくさん食べること]貧は飢え、苦楽の界は壁一重。
テモ[※さてもまあ、なんとまあ]浮世[※辛いことが多い世の中]ジャナ
三ツトセー、見え場[※外見]を飾りし槍栗の、手段は最後の屁のごとし[※外見を飾っていた服を切り売りする事を指すか]。
ハテ臭イモノ
四ツトセー、蓬草葛根に腹愈せて、その日送りの哀れさは。
ソリャ涙ゴト
五ツトセー、色は青ざめ手は細り、何する仕業(しごと)もなけらねば。
タダ泣クバカリ
六ツトセー、無性に殖えるは獄ばかり、詐偽漢盗賊密売淫。
アア是非ガナイ
七ツトセー、中にも慈善な人達は、飢民を救うに怠らず。
アア嬉シイネー
八ツトセー、破れかぶれは止しにせよ、世直る時節もあろうから。
トシテ働ケヨ
九ツトセー、こんな不順の気候では、秋の稔(みの)りが安事らる。
ミナ覚悟セヨ
十トセー、東西南北苦情のみ、聞くも五月蠅き梅晴(つゆ)の空。
マダ霽レヌカイ
8月12日 朝野新聞
一、農家の困難
近来農家の非常に困難に陥りしより、驕奢に流れしによれりと云う者ありしは、明治十三、四年[※1880・81年]のころ米価の高価なれど、決してしからず。さきに地租改正の事あり。その文量を始めしより地券を下与せるるに至るまでの諸入費は、一般の疲弊を来たしたる初めにして、尋(つ)いで学校建築費等の徴収あるに至りたれば、一時民間はいっそうの困難を来たすに至りしが、その後米価やや騰貴し、十二年[※1879年]には一石の代六円より七円までに上りたれど、農家の手にては、四斗俵にて二円五十銭に売却したるは稀れにして、運送費を引き去ればおおむね二円内外に過ぎず、その他はことごとく米商の利となりたるなり。翌十三年は、一石に付き十円より十一、二円までの高価なりしも、農家の売却する所は四斗俵にして四円以上に売れしは稀れにして、運送費を引き去る時は、四円の内に入らんとするがごとくなりし。十四年は、農家一般に前年より高価に売却せんとの心組みより売り惜しみしに、前年よりはかえって安く、四円以内にて売り払いたるはほとんど一般の実況なり。十五年は、米価やや下落して手取り三円にも至らざりし。されば米価の四円に至りたるはわずかに二年に過ぎざるなり。一年一度米穀を売却するより他に、金銭の入る道なき農家なれば、驕奢をなしたりとて何ほどの事かあらん。いわんや地租改正後疲弊を極めたる時なるをや。しかしてその後米価はますます下落し、金融はようやく閉塞するに、課税は厳にして延納の請願も聞き届けられず、かつ百戸内外の村落にても、戸長の月給五円、書役の給料四円、総代同一円五十銭、小使い同三円、学校教師同十二円、その他役場費、学校費と種々の村費あるに、その上地方税も追々多額に上れり。元来この諸種の税は地価、戸数、商工業等それぞれに賦課するものなるが、商工業の営業者はその景気と不景気とより、本年は廃業し、翌年再び営業を始むることを得れども、農業に至りてはしからず。例えば田畑は洪水に浸され諸作物の腐敗したれば、本年は廃業し明年再び従事せんと休業するも、その期の税を免がるるを得ざる道なれば、商工の世間の不景気とともに廃業転業する者とは、同一の労にあらざるに、商工に課せし税は転じて地価に来たり、日に増加するに至れり。つらつら考うるに、地租改正の時の説論によれば、今日ごろは百分の一にも減ずべき算当なりしに、地方税及びその他の費用を合算すれば、百分の四より小村にては四分五厘にも上らんとするに至れり。今日の米価を以って、豈によく諸税費に差し支えずして、一家の生計をなし得べけんや。
8月14日 朝野新聞
…自然の妨害物にして、人力の容易に繋ぎ得べからざる旱魃、水害、気候の不順、暴風、虫害の五者あり。この妨害物の来たる毎に、地券証の相場に何ほどかの高低を来たすに至るなり。しかしてこの五者は年々必ず何ほどかの害をなさざるはなし。見よ、一昨年[※1883年]は旱魃のために六、七分[※60~70%]も収穫を減じ、昨年より今年に掛けては、水害ありて八、九分も無用に属せんとするに至りしにあらずや。されば今日に在りては、飯米に差し支える者多くして、その籾種を買い入るる事も出来ざる始末なるに、…
9月19日 朝野新聞
近来世上の不景気にて、何商売も客人の稀れなるより同業者は互いに客を引かんと、火の車に乗りたるごとき辛き内幕をば深く秘し、ひたすら外面にのみ景気の色づけをなし、甲が二銭で売るものは、乙は一銭に価下げをなすは到る処として皆同じ様なり。このごろ京都上下京区内の理髪営業人八百余名は相談のうえ、協力組と平安組との二つに分かれ、協力組の方は俗に渡り者と呼び、妻もなく子もなくまた金もなく、腕一本にて処々方々の理髪に雇われ歩行く連中にて組織し、また平安組の方は妻子もあれば、家もある仲間より成り立ちたるものの由。しかるに去る一日、平安組にて一応の相談もなく突然これまで散髪六銭、髯(ひげ)剃三銭なりしを、散髪四銭に髯剃二銭としたりしより、協力組の連中は大いに怒り、先が競争の了簡ならば、我々独身ものは何の用捨のあるべき、と一同申し合わせ、三日の朝より散髪を三銭に髯剃を二銭にしたれば、平安組もこれでは溜らぬと更に散髪を一銭としたるに、協力組にてもまたまた直下げをせんと目下相談中なるが、客人は大いに歓び、これまで一週間一度の髭を剃り、一月に一回刈りしものも、以来両度ずつとなしてもなお安上りなりとて、我も我もと詰め掛くる故、店頭の景気ばかりは(ちょっと見た所にて)驚くべきほどなりと。
1886年
2月7日 改進新聞
客年の夏中各地方とも不景気のため貧民は餓に迫り、人間の日蔭干が出来そうにとの騒ぎより、遠州[※静岡県西部]人某が発明して、藁餅と云うを製せしが、追々この製法各地に流行(はやり)出せしより、その製造法を伝授せんとて、無智なる村民のハシタ銭を貪り取らんとする者ある由なるが、右の製法なりと云うを聞くに、まず藁屑を五分[※約1.5㎝]位に刻みて鍋に入れ、これに石灰または灰のアク水を加えて、およそ二時間も煮たる後、鍋より上げ、上に糯米(もちごめ)を混和して蒸龍(せいろう)に入れ蒸すこと常の精米をふかすと同じくして、これを搗(つ)けばすなわち藁餅となり、大抵糯米五合に付き、藁屑五百目位を混和して製すれば、四升[※40合]の糯米を搗きたるほどの量となると云えり。いかにして製すればとて、かかる餅の滋養となるべき謂われなきに、これを製することの流行とは、聞くも誠に忌わしきことにこそ。
[※藁餅については、江戸時代の天明の飢饉の際、天明3年(1783年)に東大和(東京都)の幕府代官所から公式に藁餅を作って飢えをしのげ、その作り方を教える、とのお触れが出されていたようで、「東大和どっとネット」には、その時のお触れの訳文が次のように載っています。
「藁餅仕様(わらもちしよう)生わらを半日も水につけて置き、あくを出し、よくよく砂を洗落し、穂はとり去り、根元の方より細にきざみ、それを、むして、ほして、煎(い)って、臼(うす)にてひき、細末にする。その藁の粉、壱升へ米粉、弐合程入れ、水にてこね合、餅のやうにして、蒸(む)すか、又はゆでて塩か味噌をつけて、食事によし、また、きな粉を付てもよし、米粉の代りに葛蕨(くず わらび)の粉、又は小麦の粉を混ぜてもよし 但し餅にして蒸したものを臼につ(舂)けば更に宜しい 米穀が高値なので、食料の足しにするため、こしらえて食べるように 作り方と藁餅の粉を試作する分、勘定所より渡された。粉は至って宜しいので右作り方の通り、村々で早速こしらえて、食料が足りない時の食事とするように この書類を早々村々へ順達せよ」]
2月18日 東京横浜毎日新聞
大坂にてはこのごろ湯屋の競争が始まり、新町辺より江戸堀京町堀辺に掛けての湯屋は、大人が三厘小児が二厘とまでに引き下げ、中にはかく直下げせし上、マッチ、楊枝などを景物に出すものありと。
2月24日 朝野新聞
京都府京都通信(12月19日発)中にて、目下質渡世をなす者は530余戸なるが、同業に付き昨今の景況を聞くに、例年とも年末には金融の切迫なるより、質入れする者多く、或いは一月の晴れ衣の槍繰りに受け出す者もありて、自ずと利足も揚がり、商業も緊忙なるが、本年は諸商況とも恢復の傾きあるも、何分四、五年前より打ち続きし不景気の影響にて、質物は少しも動かず、従って利足も揚がらず、大いに困却し居れり。
4月17日 中外物価新報
近来非常の不景気にて、地方の下等農工等は、なかなか米麦類の食い難きより、いろいろの工風をなし、口腹を満たさんとして発明したる食品の中に、最も強く流行したるは、かの藁餅と称するものにて、上州より越中、越後等の寒村僻地に、もっぱら流行する由はとくに聞く所にて、その製法のごときも去る頃の紙上に記載せし事ありしが、今般富山県に於いては右薬餅の儀に付き、左のごとき告諭を発したりとぞ。
近頃藁餅と称え、薬を糯米または蕎麦粉に混和し食用に供せし者、往々これあり候に付き、現品を試験せしに、藁の繊維は未だ全くその原形を変ぜざるを以って、なにほど咀嚼するも胃腸中に於いて消化するあたわざるはもちろん、石灰分多量を有し、衛生上有害の食物に付き、自今食用となすべからず、この旨告諭す。
[※江戸時代の作り方では石灰は使用していないので、これはよくない藁餅の製法だったのだろう]
7月21日 大阪日報
大坂西区新町の裁縫学校にては、昨年は登校するもの日々五、六十名位なりしも、昨今は毎日七、八十名に及びし由なるが、これは芸娼妓等の勉強心を起せしによるにはあらずして、例の不印[※不景気の事]より嫖客[※色街で遊ぶ客]の少なく、お茶挽くこと[※客が無く手持無沙汰なこと]の多きによるものなるべしとのこと。

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