※マンガの後に補足・解説を載せています♪
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松平定信の幼少時からの側近である水野為長(1751~1824年)が風聞をまとめた書物である『よしの冊子』(文がいつも「~候由」で終わるので、後の世の人によって『よしの冊子』と呼ばれるようになったという)には、この頃にあった風聞を次のように記しています。
8月5日条
この頃、町人どもは商売が少なく困っているという。それについてのことか、何者かが、「白川の 清き流に住かねて 濁りし田沼の 水ぞ恋しき」という落首を書いたという。この頃は、権勢のある家に対する「音物」(賄賂)が無くなり、世の中の様子も質素になったので、賄賂として贈られていた物を扱っていた商人たちが売り上げが落ちて困っているのであるという。また、米の値段が安くなっているので武士の金回りが苦しくなり、結果として売上が少なくなっているのだという。「愚民」どもは米が高かったら高いと言って歎き、安かったら安いと言って歎き、自分に都合のいいことは何も言わないのに、自分の都合の悪いことばかりを話しているという。このことは『書経』にもあるように、昔から小民(下々の者)の常情(一般的な考え方)なのだ(『書経』(尚書)にある、「夏暑雨,小民惟曰怨咨:冬祁寒,小民亦惟曰怨咨」のことを指すか。下々の者たちは夏には蒸し暑い時に降る雨に不平を言い、冬には厳しい寒さに不平を言う、という意味)と放言しておるとのこと。特に博奕を禁止したことについて、銭周りが悪くなって困っていると不平を言っているとのこと。これはもっとも評判の悪いことだと言っておるとのこと。田舎では博奕が厳しく禁止されて、さまざまなことに対する取り締まりがほどよく有難いことだと言っておるとのこと。
8月24日条
駿河町の三井店が不景気なので、番頭たちが残らず集まって相談したところ、「あまりに御倹約が過ぎて町人は立ち行かぬ」「田沼様が恋しい」などと口々に罵っていたとのこと。そのうち、70歳余りの古い番頭が言うには、「そのような考えでは、この店は実に心もとないと言わざるを得ない」。その訳について、「なるほど、田沼様の時のようであれば、売り上げは多くなるだろうが、その代わり、三井の暖簾を下げて、駿河町に店を構えているのは心もとないことだと密かに自分は思っておった。一昨年、米屋が打ち潰されたのを見て、あなたたちはどう思われた。今はたしかに御倹約が厳しいので取引が少ないが、その代わりに、飯を食う所、粥を食い太り、紬を着る所木綿を着、さまざまなことに注意して人をも減らすようにし、律儀に商売をしたならば、もうけが少なくても暖簾をかけて店を構え続けることができる。100年余り続いてきたこの店を守り通すことができる時期にめぐりあえたのは、有難いことだと自分は思っている。だからあなたたちの考えでは心もとないと申し上げたのだ」と言ったところ、先に不平を言っていた番頭たちは皆感服したとのこと。「あなたたちは天秤棒を担ぐその日暮らしの貧しい町人と同じ考え方をしている。貧しい町人たちが不平を言うのはもっともなことだが、町人は町人でも店を任されている番頭職の者が、このような目先の利害にとらわれて、先の事を見据えて考えておらぬようでは残念だ。心もとないことだ」と先の老人は叱ったとのこと。道理にかなったことを言う老人であると、このことを報告した者たちがほめたたえていたとのこと。
有名な落首が出てきましたね。『よしの冊子』によれば寛政の改革について賛否両論あったようです。しかしその内容からは否定的意見が一般的であったように見て取れますね😕その日暮らしの人が多かったでしょうし…。
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