社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 犬山城の落城~犬山両おとな御忠節の事(1564~1565年)

2023年8月13日日曜日

犬山城の落城~犬山両おとな御忠節の事(1564~1565年)

 小牧山城を築いて犬山城織田信清への圧迫を強めていく織田信長

そんな時に、またとないチャンスが訪れますが…!?

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


※マンガの2・3ページ目は都合により公開いたしません💦

〇織田信長と上杉輝虎(謙信)・武田信玄

永禄7年(1564年)2月6日に、竹中重虎(半兵衛)と、伊賀(安藤)守就によるクーデターが起き、美濃国主の一色(斎藤)龍興は命からがら稲葉山城から逃れ、8~10月頃に城を取り返すまで本城を失う、という事件(永禄8年[1565年]8月5日の快川紹喜の手紙にいうところの「濃陽之乱」か)が起きます(◎_◎;)

(2月11日の快川紹喜の書状に、「金華山(稲葉山城)、菩提城主竹中遠州子半兵衛、去る6日白昼奪い取り、伊賀守(伊賀[安藤]守就)と両人して一国これを領す、奪い取る時、斎藤飛州以下、以上六人打ち殺すなり、太守(一色龍興)と備中(延永[日根野]弘就)・摂州(成吉[竹腰]尚光)・青木等、一戦に及ばず恙無く退散す」とある)

竹中半兵衛がクーデターを起こした理由は判然としていません。

小瀬甫庵『太閤記』や『総見記』は世間の人々から心が弱い人物だと侮られているのに憤り、隣国の人まで驚くようなことをやってのけて、自分の悪口を言う者たちに思い知らせてやろうと考えたため、とし、

『竹中氏家譜』は正月の宴会で受けた仕打ちに恨みを持ったため(柴田勝家・津々木蔵人と似ている)、としています。

これを知った信長は4月上旬、加納に進出して竹中半兵衛に稲葉山を譲るように求めます(『総見記』には稲葉山城を渡せば美濃の半分を渡すと言って交渉した、とある)が、断られ、失敗しています(『信長公記』にも、4月上旬、織田信長は木曽川を渡り、美濃の加賀見野(各務野)に出陣、一色龍興はこれに対抗して新加納村に出陣、加賀見野~新加納間は難所であったため、織田信長は仕方なく退いた、という記述がある。しかし何年の「4月上旬」かは記されていない。これについては、角川版『信長公記』は永禄9年(1566年)のこととするが、『天理本』では「永禄7年(1564年)」のこととはっきり書かれている)。

信長にとって、美濃の内乱は、美濃に勢力を伸ばすチャンスだったはずです。

しかし、この時期に信長が美濃に攻めこんだ形跡は見られません。

なぜ信長は美濃に手を出さなかったのか。

それを考える1つの手がかりとなるのは、10月4日の武田信玄の書状です。

この書状は、美濃崇福寺の快川和尚が甲斐恵林寺に移るにあたり、武田信玄が長井隼人に対し、美濃移動中の伝馬・馳走を頼む、といった内容のものです。

この書状の前半部分には、「先日は陣中に飛脚を送っていただき、ありがとうございます。越後の軍勢が敗北した後(上杉輝虎は10月1日に川中島から撤退している)、上野に出陣してから、甲斐に戻ろうと思っています。あなたとは特別に親密であるので、とても喜んでくださると思います」と、近況を伝える文章が書かれています。

信玄が甲斐に戻ると長井隼人がうれしい…というのは、信玄が美濃に支援する余裕ができるからでしょうが、この書状からは武田=一色(斎藤)の親密ぶりがうかがえます。

信長としては、1561年の美濃攻めの時と同じく、武田信玄が美濃に介入しようとしてくるのではないか…と考えたため、この絶好機に美濃を攻めることができなかったのではないでしょうか💦

織田信長は、信玄をどうにかしない限り、美濃は攻略できないと悟ったでしょう(1561年の時に気づいておくべきでしたが(;^_^A)。

そこで信長が取った作戦は、越後(新潟県)の上杉氏と関係を深める、というものでした。

上杉氏は、あの有名な川中島の戦いで武田氏と何度も争っていることから明らかなように、武田氏と対立関係にありました。

信長としては、上杉と関係を深めることによって、武田信玄が美濃に介入することを牽制しようという狙いがあったのでしょう。

信長は6月9日、上杉家臣の直江景綱に上杉輝虎(謙信)が関東で勝利を得て帰国したことを喜ぶ書状を送って、甲斐甲斐しく機嫌を取っていますが、

11月7日には、信長は直江景綱に、大鷹5連を贈られたこと・信長の息子を輝虎の養子にすることが承諾されたことに対する感謝を伝える書状を送っており、織田~上杉の仲がかなり進展していることがわかります(◎_◎;)

そしてチャンスが訪れます。

永禄8年(1565年)1月8日、武田信玄が上野(群馬県)に出陣し、それから長く断続的に上杉方と争うことになったのです。

これを知った信長は、まず犬山城に出兵します。

この時の様子について、『信長公記』は次のように記しています。

「一、或時犬山の家老、和田新介 これは黒田の城主なり。中島豊後守 これは於久地の城主なり 。此の両人御忠節として、丹羽五郎左衛門を以て申し上げ、引き入れ、生(はだ)か城になし、四方鹿垣二重・三重丈夫に結いまわし、犬山取り籠め、丹羽五郎左衛門警固にて侯なり。」(ある時、犬山の家老の和田新介[黒田城主]・中島豊後守[於久地城主]は丹羽長秀を通して織田方に内応、織田軍を引き入れたため、犬山城は城下が焼き払われて裸城となった。丹羽長秀は犬山城の四方に鹿垣を二重三重に築き、犬山城を厳しく包囲した)

信長は永禄7年(1564年)中に、織田信清の家老二人と密かに接触し、味方につけていたのでしょう。

信ぴょう性は低いですが、『武功夜話』には、犬山城に向け5000余りの兵で出陣した、佐久間信盛・柴田勝家などが楽田道、丹羽長秀が於久地城の中嶋豊後を加えながら中道(小田井道)を、信長は旗本衆を連れ稲木本道を進んだ、敵方の柏森砦には斎藤方の援軍もいた、とあります。

『信長公記』には続いて、美濃の宇留摩城・猿啄城攻めが記されています。

「一、飛騨川を打ち越し、美濃国へ御乱入。御敵城宇留摩の城主 大沢次郎左衛門、ならび、猿ばみの城主 多治見とて、両城は飛騨川へ付いて、犬山の川向いに押し並べて持ち続けこれあり。十町、十五町隔て、伊木山とて高山あり。此の山へ取上り、御要害丈夫にこしらえ、両城を見下し信長御居陣侯なり。宇留摩の城ちかぢかと御在陣侯間、越訴ども抱え難く存知、渡し進上候なり。

一 猿ばみの城、飛騨川へ付いて高山なり。大ぼて山とて猿ばみの上にはえ茂りたる崱(かさ)あり。或時、大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸けにて攻めのぼり、御人数を上げさせられ、水の手を御取り侯て、上下より攻められ、即時につまり降参、退散なり。」

(宇留摩[城主は大沢次郎左衛門]・猿啄城[城主は多治見]は、犬山城の対岸にあって持ちこたえていた。約1.1㎞~約1.6㎞離れたところに伊木山という高山があったが、織田軍は宇留摩・猿啄両城を見下ろせるこの山に登り、砦を築いた。宇留摩城の近くに砦を築かれてしまい、支えきれないと考えた大沢次郎左衛門は城を明け渡して退散していった。猿啄城は高山にあったが、近くに大ぼて山という、猿啄よりも高い山があり、丹羽長秀はこの山に駆け上って猿啄城の水源を断った。その後、猿啄城を上下から攻め寄せたので、敵は降参して退散していった)

しかし、『信長公記』の記述には気になるところがあります。「伊木山に築いた砦から宇留摩・猿啄両城を見下ろした」という部分です。

なぜこの部分が気になるのかというと、伊木山は173mで、宇留摩城は約90mであり、これはわかるのですが、猿啄城は240mほどのところにあるので、見下ろせるとは思えないからです(◎_◎;)しかも距離も6kmほども離れています💦(伊木山~宇留摩は2.5㎞ほど)

ですから、『信長公記』にある「両城」というのは、「宇留摩・猿啄」のことなのではなく、「宇留摩・犬山」のことなのではないでしょうか(゜-゜)

犬山城はまだ落ちたとは書いてありませんし。犬山城は80mほどですし。伊木山から犬山は1.5㎞ほどですし。

…ということは、伊木山に砦を作ったときは犬山城はまだ落ちていなかった、ということになります。

信ぴょう性は低いですが、『武功夜話』には、犬山城を落とす前に、木下藤吉郎(豊臣秀吉)・前野長康・蜂須賀正勝などが、伊木山砦の伊木清兵衛を調略して味方につけて伊木山に陣を構えた、とあります。

『総見記』によれば、織田信清は包囲されても30~50日ほど持ちこたえようですが、斎藤方とつながる、対岸の伊木山・宇留摩城が陥落したのを見て、

ついにあきらめて犬山城を去りました(『総見記』には夜中の内に城から落ち延びた、信長は翌日犬山に攻め寄せたが、昨夜敵は散り散りに落ち延びていった、という報告が入ったので、犬山城に人を派遣したところ、中には誰もいなかった、とある)。

犬山城が陥落した時期についてはだいたい判明しています。

犬山城近くに瑞泉寺という寺があるのですが、

8月5日の快川紹喜の手紙に「瑞泉寺は…犬山落城故に、寺も全焼してしまった」とあり、

(横山住雄氏は『尾張時代の織田信長』で、瑞泉寺が焼けた理由を、瑞泉寺は出城的役割を持っていたため攻撃を受けたから、としている)

その瑞泉寺を復活させた僧、東庵宗暾が、「永禄8年乙丑2月22日、此の山の伽藍は回禄(※中国の日の神の名前で、火災の事)の変に罹る。尽くして焦土と成れり…」と記録しているので、

瑞泉寺が炎上したのは永禄8年(1565年)2月22日だということになります。

横山住雄氏は、これをもって、2月22日に犬山城は落城したのだ…と結論づけておられますが、

瑞泉寺炎上と犬山城落城が同じタイミングだったとは言い切れないため、

犬山城の陥落は、2月下旬~3月頃、とすべきでしょう(;^_^A

ちなみに犬山城主の織田信清はその後、甲斐(山梨県)に落ち延び、協力関係にあった武田氏のもとに身を寄せ、剃髪して犬山哲斎と名乗ったといわれています。『総見記』には武田信玄と親しくなり、側に常にいて、信玄に養われて楽しく過ごした…とあり、なかなかに良い暮らしをしたようです(;^_^A

『織田系図』によると、武田氏が滅亡した後は、旧臣であった生駒氏に養われるようになり、最後は生駒氏の領地である讃岐高松で亡くなったといいます。

犬山城・宇留摩城を落として勢いに乗る織田信長は、先述のようにさらに猿啄城を落とし、続いて長井隼人佐の居城、烏峰城(鳥峰とも)も攻略したようです。

(9月9日の直江景綱宛の書状に、「…犬山落居せしめ候、その刻金山落居候」とある)

烏峰城は森可成に与えられ、可成は城の名前を「金山城」(兼山とも書く)に改めています。

先に落ちた猿啄城も、河尻秀隆に与えられましたが城名は「勝山城」に改められているので、改名がはやったんでしょうか(;^_^A

(信長は後に稲葉山城も「岐阜城」に改名してますし…)

それにしても山城・啄城・峰城と、(烏峰はカラスですが[鳥と書くという説も])桃太郎ですね…(;^_^A

そして織田軍が金山城に至ったとき、事件が起こります(◎_◎;)

なんと、武田軍と織田軍が衝突したのです💦

『甲陽軍鑑』などによると、この衝突は永禄8年(1565年)4月に起こったようです。

この戦いについては、『信長公記』にも書かれており、

「道家清十郎・道家助十郎とて兄弟覚えの者あり。生国尾張国守山の住人なり。一年東美濃高野口へ武田信玄相働き候。其の時森三左衛門・肥田玄蕃先懸けにて、山中谷合にてかかり合い、相戦い候て、兄弟して頸3つ取て参り、信長公へ御目に懸け候えば、御褒美斜めならず。白きはたをさし物に仕り候。其の旗をめしよせられ、天下一の勇士なり、と御自筆に遊ばし付けられ候て下さる。都鄙の面目これに過ぐべからず。名誉の仁にて候なり。」

…とあります。

信長からこんなことされたら、めちゃくちゃうれしいでしょうね…(;^_^A

金山城主の森可成と共に戦った肥田玄蕃とは、金山城の北西約3㎞のところにある、米田城(川辺町)の城主で、妻は金森長近の娘だった人物です。

織田・武田が衝突した「東美濃高野」というのは、神箆(現在の瑞浪市土岐町の辺り)のことです。

金山城から直線距離で約17㎞…けっこう東に進出していたんですね(;^_^A

そりゃ東美濃を勢力下に置いている武田軍を刺激しますよ💦

しかし、この神箆の衝突は武田信玄に衝撃を与えたでしょう。

東で上杉と戦っている背後をつかれかねないわけですから。

この後、織田と武田は急速に関係を深めていくことになります。

なぜ戦ったのに逆に関係が良くなったのか?

それは織田・武田の利害が一致したからです。

織田としては、美濃攻略にあたって武田に介入されたくない、というのがあります。

武田を攻撃するチャンスでは?とも思うのですが、

信長は中央志向の人なので、早く上洛したい。

桶狭間の戦いの後、弱った今川を攻める好機なのに、三河を松平家康(永禄6年[1563年]に元康から改名)を委ねたように、信長は基本的に東には興味が無いのです(;^_^A

しかも永禄7年(1564年)10月28日には、朝廷から御所の修理などのために上洛を促す使者が清須に来ていましたし、

後に詳しく述べますが、永禄8年(1565年)5月19日には、京都で永禄の変が起き、室町幕府将軍・足利義輝が襲われて殺されるという重大事件も発生しており、

京都の情勢を何とかしたい、と気は急いていたことでしょう(◎_◎;)

『総見記』にも、「信玄と云う老功の名将を敵にするならば、美濃信濃の境目にて毎度合戰、勝利を得るとも年を重ね月日を送って、上方の発向遅かるべし」(信玄という名将を敵にすると、上洛は遅れてしまうだろう)と書いてあります。

武田としてはどうでしょうか。

『甲陽軍鑑』に「大方今明年の間に美濃國も信長支配に仕べく候、さ候はば信玄公御持の木曽郡とうちつとき候間、在々の往來もたがひに申事なきために…」(近いうちに美濃は信長に平定されてしまうだろう、そうなると武田の領土の信濃の木曽郡と接することになる、美濃との行き来が出来なくなっても困る)…とあるように、

敵の織田と領土を接して、上杉と戦っている背後を襲われたくありませんし、

さらに信玄の方針転換もありました。

当時、今川氏の状況は日増しに悪化するばかりでした。

永禄6年(1563年)には遠江の武士たちが次々と反今川に立ち上がるという事件(遠州忩劇)が起こり、それに手を焼いているうちに三河に残っている拠点を松平家康に次々と落とされ、永禄8年(1565年)3月には東三河の重要拠点、吉田城と田原城を失っていました。

武田信玄は次第に、オワコンの今川を支えるのではなく、今川が松平家康に滅ぼされる前に、同盟を破って駿河を手に入れたい、と考えるようになります。

そのため、永禄8年(1565年)10月には、それを察した今川派の嫡男、武田義信(妻は今川義元の娘)が信玄の暗殺を謀る事件が発生、信玄は義信を捕まえて幽閉、今川派の武将たちを粛清しています。

信玄としては、今川領を松平とぶつかることなく、平和裏に分け合いたい。

織田と松平は手を組んでいますから、織田との敵対関係をやめることは、松平と友好関係を結ぶことにつながります。

こうして、利害が一致した織田と武田は、急速に接近することになったのです。

『甲陽軍鑑』によれば、

9月9日、信長は織田掃部助(忠寛)を武田氏に派遣、織田信長の養女(苗木遠山氏の娘だが、母は信長の妹なので、信長の姪にあたる。『甲陽軍鑑』には、姪とはいっても、信長は実子よりもかわいがっていた、とある)を信玄の息子の諏訪(武田)勝頼の妻とすることを提案、

11月13日、この信長の養女と諏訪(武田)勝頼の婚儀が実施され、織田と武田は同盟関係となりました。

こうして美濃に対する武田の介入を排除することに成功した織田信長は、

美濃平定に邁進していくことになるのです…!🔥

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