織田信長は、はじめ東美濃から美濃を攻略しようとしましたが、
うまくいかなかったため、中美濃から美濃を攻撃することに作戦を切り替えます。
その作戦はうまく当たり、犬山城・鵜沼城・猿啄城を落とすことに成功します。
また、この際、烏峰城も落とし、森可成に与えています(可成は城の名を「金山城」[兼山城]に改めた)。
永禄8年(1565年)、織田信長は、中美濃に勢力を広げるために、
各地の城主に調略の手を伸ばしていきます…!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇信長に降っていく一色(斎藤)方の武将たち
織田信長の中美濃へのさらなる進攻を防ぐため、
関城主・長井隼人佐道利(烏峰城主だったが、居城を失ったため関城に移動していた)は堂洞に砦を築いて蜂屋の領主であった岸勘解由左衛門信周(『武功夜話』には犬山城主であった織田信清の縁者であり、武辺者として名高い人物であった、と書かれている)と猿啄城から逃れてきた多治見修理たちを配置します。
加治田城主・佐藤紀伊守忠能は人質として娘の八重緑(やえりょく。「旧家松井屋酒造場古文書」に名前が記されていた)を堂洞砦の岸勘解由信周に養女として送っていました(『堂洞軍記』では岸勘解由の子、信友に嫁いでいる)が、
加治田の文化人で、漢詩を得意とした岸(梅村の誤りか)良沢の説得を受け、「ただ信長公を頼りに致します」と丹羽長秀を通じて織田信長に内応します。
信長は「御執着斜めならず」…非常に喜び、兵糧を買って、城に蓄えておくようにと、黄金50枚を岸(梅村)良沢に渡しました。
信長は7月10日に、佐藤右近衛門尉(佐藤紀伊守の子。養子説も)に、占領した土地を領地とすること、美濃三郡の反銭・夫銭の徴収を約束する書状を送っていますが、これはおそらく内応の見返りを示した物と考えられ、この頃に佐藤紀伊守が織田に内応したことがわかります。
信長は当時、佐藤紀伊守以外にも一色(斎藤)方の武将たちに次々と調略の手を伸ばしており、
永禄6年(1563年)4月頃には高木貞久(駒野城主)が内応。
永禄7年(1564年)7月2日に信長は、美濃の国枝古泰(本郷城主)に、越前朝倉氏との間を取り持ったことに対する感謝を伝える書状を送っていますが、おそらく国枝はこの時までに織田方に内応していたのでしょう。
他にも内応したか、もともと織田の配下だったのかはよくわかりませんが、
尾張・美濃国境の領主では、坪内利定(松倉城主)・毛利広盛(八神城主)が信長に味方して戦っています。
永禄6年(1563年)・永禄7年(1564年)は信長にとって美濃進攻が中断する雌伏の時期でしたが、この時期に、武力を使わず知略によってじわじわと勢力を美濃に広げていっていたことがわかります。
〇堂洞砦の戦い
『堂洞軍記』(1681年頃成立)の内容から堂洞砦の戦いを見てみます。
…永禄8年(1565年)8月下旬に織田信長は2万余りの兵を率いて美濃に攻めこみ、まず猿尾の山城を攻め落として猿尾を勝山と改めた、信長は鵜沼城にいた金森五郎八郎を堂洞の城に派遣して味方になるように説得させた、しかし城主の岸勘解由の子、孫四郎は、ありがたいけれども自分は関の永井隼人正と共に戦うことを堅く約束しているので受け入れることはできない、討ち死には覚悟している、今からその覚悟を見せよう、と言って、7歳と5歳の息子を呼んで、その首を斬ってしまった。さらに佐藤紀伊守から人質に取っている娘を長尾丸山にて竹槍で生きながらに貫いて殺害した。佐藤の家来、西村次郎兵衛が夜にその遺体を取り返し、龍福寺に埋葬した。金森は急いで信長のもとに帰り、以上のことを報告した。信長はこれを聞いて激怒し、攻め寄せてけちらせと言って、翌日28日に自ら堂洞砦を攻撃した。岸勘解由は大手・搦手に兵を分けて守らせ、これを迎え撃った。まず大手長尾口佐藤右近右衛門が2000の兵で攻め寄せた、これを見た関の隼人勢は堂洞砦に向かったが、信長勢は、一人も残らず討ち取れと3000の兵でこれを攻撃したので、敗れて関城に引きこもった。岸孫四郎は大手の門を開いて50の兵と共に織田軍の中に突撃し、7・8度もこれを追い返したが、味方は全員討たれて、自身も13か所も傷を負っていたので、今はこれまで、と帯を切り捨て、肌脱ぎになって、腹を十文字にかききってうつぶせに倒れ伏した。湯浅新六郎が近寄って首を取り、首を刀の切っ先に貫いて大声で、岸孫四郎を湯浅新六郎が討ち取ったり、と叫んだ。勘解由も大軍の中に突っ込んで脇目もふらずに戦っていたが、息子の死を聞いて城中に引き返し、自分が先にと思っていたのにもう討たれてしまったのか、と言って腹をかき切って死んだ。大手・搦手は同時に攻め破られ、城に火がかけられた。戦いは辰の刻(午前8時頃)に始まって午の刻(午前12時頃)に終わった。孫四郎の母は孫四郎の討ち死にを見て、からからと笑い、「先立つも しばし残るも 同じ道 此の世のひまを あけぼのの空」と言って自害した。別の書には勘解由と刺し違えて死んだとある…
冒頭に「8月下旬」に攻めこんだ、とありますが、『信長公記』では9月28日となっています。しかし、現在では、「8月28日」の誤りだろうというのが通説となっています(;^_^A、
織田信長が率いた軍勢が「2万」とあるのは、かなり盛っていますね(;'∀')
信長は美濃出身の金森長近を、織田方に岸孫四郎を寝返らせるために堂洞砦に派遣していますが、『黄耈雑録』によれば、堂洞砦の城外で辰から午の刻まで戦った織田信長は、勘解由の武勇を惜しみ、勘解由を見知っていた金森長近に命じて投降を勧告させたが、勘解由は「私まで信長に味方しては義理が立たない」と言ってこれを固く拒んだ、とあり、説得に向かった状況が異なっています。また、返答したのも孫四郎と勘解由の違いがありますね(゜-゜)
『堂洞軍鑑記』によれば、織田信長は高畑の江見山(恵日山[えびやま]か)に本陣を構え、関城主の長井隼人が援軍に来るのを防いでいます。
堂洞砦は『信長公記』によれば「三方谷にて東一方尾つづきなり」(三方が谷で囲まれ、東方は丘続きになっていた)という堅城でした。
(『武功夜話』には、富加より道は一筋しかなく、攻めがたい城であった、と書かれている)
『富加町史』によれば、永禄8年(1565年)8月28日、西の夕田・南の蜂屋から丹羽長秀たちが、加治田城主佐藤紀伊守が北面の加治田から、それぞれ攻撃を開始しました。
『信長公記』に「其の日は風つよく吹くなり」とあるように、その日は風が強かったので、織田信長は戦場を駆け回り、
「塀ぎわへ詰め候わば、四方より続松をこしらえ、持ちよって投げ入るべし」(塀のそばまで行ったら、作った松明[たいまつ]を四方から砦に投げ入れよ)と命令します。
兵士は砦に松明を投げ入れ、砦の二の丸は焼き崩れました。
そのため、堂洞砦の兵士たちは本丸に逃げ込みます。
この際、太田牛一は二の丸の入り口の高い建物に1人で駆け上がり、
無駄にする矢もなく矢を射ていましたが、
これを見た織田信長は「きさじに見事」(気味が良く見事である)と三度も使いを送ってほめたたえ、戦後に領地を与えています。
堂洞砦の岸勘解由は午の刻(正午頃)から酉の刻(午後六時頃)まで抵抗しましたが(『堂洞軍記』と『信長公記』では戦っていた時間が大きく異なりますね(◎_◎;))、最後には戦死します。
『信長公記』は『堂洞軍記』と違い、岸勘解由の死について「大将分の者皆討ち果たし畢(おわんぬ)」とそっけなく記すのみです。
織田信長は加治田城主の佐藤紀伊守父子と対面し、その後は佐藤紀伊守の子、佐藤右近右衛門忠康のところで宿泊しますが、
佐藤紀伊守父子は感激して涙を流し、「忝(かたじけな)し」という言葉もなかなか言えないほどであったといいます。
こうして、信長は堂洞砦を落とすことに成功しました。
〇須衛・苧ヶ瀬退却戦
翌日29日、織田信長は小牧山城に向け引き上げようとしました(『武功夜話』によれば、須衛の間道を通っていたとされる)が、
そこに北から長井隼人が、南から一色(斎藤)龍興が、合わせて三千余りの軍勢で攻撃を仕掛けてきました。
『信長公記』によれば、その時の織田信長の軍勢は700~800ほどしかなかったといいますから、兵力差もあることながら挟撃も受けたのでかなりの苦戦を強いられ、多くの死者を出してしまいます。
信長はなんとか広い野原(各務野)に出て、態勢を立て直し、負傷者や雑人(雑務を任せるために雇った農民など)を先に引かせ、敵の追撃に備えます。
『武功夜話』によれば、殿(しんがり。最後尾)を佐々成政・小坂雄吉・佐久間信盛に任せて退却を開始しますが、そこに日根野弘就が猛攻を仕掛けてきたため、
織田信長は恥も外聞もなくほうほうの体で苧ヶ瀬方面から遁走したといいます。
『信長公記』には、馬を乗り回して配下の者たちに、追撃してくる兵に足軽を出して迎撃するように命じ、「かるがると引取てのかせられ候」(やすやすと退却に成功した)とありますが、
実際は『武功夜話』のように、厳しい退却戦だったのではないでしょうか。
『信長公記』には、「御敵ほいなき仕合と申したるの由候」(敵方は「残念だ」と言ったという)とあり、
『武功夜話』には「日根野備中、尾張勢打合う者とて無い故、後より盛んに悪口申す」(日根野弘就は、尾張勢が戦わずに逃げて行ったので、盛んに悪口を言った)とあります。
斎藤方は織田信長を討ち取る千載一遇のチャンスでしたが、
織田信長のただひたすらに逃走に集中する逃げ足の速さに追いつけず、
文句を言い、「残念だ」と言ったのでしょう。
〇加治田城・関城の戦い
信長が手痛い損害を受けて尾張に去った後、佐藤紀伊守は勢いに乗る長井隼人の攻撃を受けます。
『堂洞軍記』にはこの時の戦いは次のように記されています。
…8月25日、関の隼人が加治田へ向けて出陣した、と聞いた信長は斎藤新五郎に500をつけて加勢に向かわせた。これで計1000となり、佐藤紀伊守は軍勢を2つに分けて、西の大手口には斎藤新五郎・佐藤右近右衛門の2人に任せ、搦手は紀伊守が大将となって城の北東を固めた。永井隼人は三方を思い切って捨てて一か所に兵を集中させ、絹丸に押し寄せた。城兵もこれに対してまず鉄砲を撃ちかけ、その後お互いに刀を合わせての戦いとなった。その時、佐藤右近右衛門は深手を負って討ち死にしたが、湯浅讃岐が、命をいつの為にか惜しむべき、続けや者ども、と言って敵中に突撃して斬りまくった。敵はこれにかなわないと思ったのか、肥田瀬川まで追い詰められ、隼人勢はこの戦いにも負けて関城に引き返した。斎藤新五は城に戻り、湯浅の手柄をほめて腰に差していた刀を与えた。…
冒頭に「8月25日」とあるのは明らかな誤りで、後の記述からするに、8月29日、が正しいでしょう。
佐藤紀伊守は織田信長から援軍として残されていた斎藤新五利治(1541?~1582年)は、斎藤道三の末子とされる人物で、斎藤道三の死後、信長のもとへ逃れていたと考えられています。
加治田勢は佐藤紀伊守の子の右近右衛門忠康を失うなど苦戦を強いられますが、
ここで活躍したのが堂洞砦で岸信周の子、孫四郎の首を取った湯浅新六で、敵勢に突撃を仕掛けてこれを突き崩して形勢を逆転させました。
その後の様子を再び『堂洞軍記』で見てみましょう。
…斎藤新五は翌日1日は兵を休め、9月1日に関城を攻めようと軍議を開いていたところ、関城に一色龍興の残党が集まっているという知らせが聞こえてきた。信長はこれを受けて援軍を斎藤新五のもとに送った。このため斎藤勢は大軍となり、敵方はこれに気を呑まれて城から落ち延びていった。こうして関城も信長の物となった。その後斎藤新五は佐藤紀伊守の養子となった。永禄10年(1567年)初春に紀伊守は加治田城を斎藤新五に譲って伊深村に隠居し、天正6年(1578年)3月29日に病死し、龍福寺に葬られた。…
「一色龍興の残党」とあるのは、『堂洞軍記』では永禄7年(1564年)8月1日に稲葉山城が陥落、一色(斎藤)氏が滅亡した、としているためです。
これは明らかな誤りなので、関城に入ったのは一色方の増援でしょうか(゜-゜)
戦後に斎藤利治が佐藤紀伊守の養子になっているのは、紀伊守の子の忠康(右近右衛門)が戦死していたからですね。
さて、斎藤利治は敵を撃退しただけでなく、反撃して関城を奪い取るという大功を挙げたわけですが、利治に対して与えられた恩賞について記された書状が残っており、
それによると、利治は美濃の平賀・小牧・大山・肥田瀬・夕田・鷹栖・加治田・絹丸・吉田・津保・沓部・坂の東・倉知・大迫間を与えられています。
与えられた領地のほとんどは関・加治田周辺のものなのですが、中には沓部のように、山間の奥深くの土地もあり、これを見ると、信長の勢力は遠く飛騨南部まで広がっていたことがわかります(◎_◎;)
信長は9月9日に、越後(新潟県の)上杉輝虎の家臣・直江景綱に書状を出していますが、
そこには「…先月濃州に相働き、井口近所に取手の城を所々に申し付け候。然らば犬山落居せしめ候、その刻金山落居候、その外数ヶ所降参候条、宥免せしめ候、その上勢州辺まで形の如くに申し付け候…九月九日」(先月美濃に出陣し、稲葉山城の近くにいくつか砦を築いた、犬山・金山城や、その他数城を降参させた、伊勢にも出陣した)…とあり、信長が勢力を広げていたことを裏付けるものとなっています。
しかし、美濃に出兵して稲葉山城近くに砦を築いた、というのは確認できないので、誇張の可能性もありますが、実際にしていたのかもしれません。
また、驚きなのは、伊勢(三重県)にも出兵していた、ということです(◎_◎;)
これも誇張かと思ったのですが、
信長は永禄7年(1564年)11月13日に、伊勢の長野藤定(長野城主)の家臣・分部光高から使者が来たことを喜び、援助を約束する書状を送っているので、
永禄8年(1565年)までに、支援するために兵を送っていたのかもしれませんね(゜-゜)
以上のように、永禄8年(1565年)の織田信長は美濃や伊勢に勢力を拡大することに成功し、一方で一色(斎藤)氏は大きくその勢力を弱まらせることになったのですが、まだまだ侮れない勢力を持っていたようで、永禄9年(1566年)、信長は悔しい思いをさせられることになります…(-_-;)
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