社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 小牧山に城を築く~二宮山御こしあるべきの事(1563年)

2023年8月12日土曜日

小牧山に城を築く~二宮山御こしあるべきの事(1563年)

 於久地城(小口城)の戦いで、織田信清・斎藤方の連合軍に敗北した織田信長は、

力攻めでは勝つことが難しいことを悟り、

別の方法をもって於久地城の攻略を試みることになります…!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇小牧山に築城

『信長公記』には、次のような話が載ります。

永禄6年(1563年)、織田信長は、二の宮山(現・本宮山[ほんぐうさん]。標高293m。尾張国二宮である、大縣神社があることに由来する。ちなみに一宮は真清田神社で、一宮市の由来になっている。ちなみに有名な熱田神社は、三宮で格的には尾張国第三位である)に旗本衆を引き連れて登り、「ここに城を作る、皆の者ここに引っ越せ」と発言した。

旗本衆たちは、此の山中へ清州の家宅引き越すべき事、難儀の仕合せなりこんな山中に引っ越さなけれればならないのは大変だ)とひどく迷惑がった。

すると、織田信長は今度は小牧山(標高86m)に移ると言い出した。

旗本衆たちは、「小牧山なら、ふもとまで川(五条川)が清州とつながっていて家財道具を運びやすいぞ」と、喜んで移動した…。

『信長公記』には、これは織田信長様の優れた作戦であって、最初から小牧山と言い出したら、みんな嫌がったろうが、先に二の宮山移転を言ったことで、すみやかに家臣たちを小牧山に移動させることが可能になったのだ、と書いてありますが、

織田信長は本当は織田信清のいる犬山城により近い、二の宮山にこそ築城したかったのかもしれません。

織田信長が攻めあぐねていた稲葉山城は、329mの高さの山の上にありました。

一方、清洲城は平地にあり、戦国大名の居城として心細いものを感じたのかもしれません。

実際、織田信長は、その後、山城ばかりを居城としています。

平城→山城と、時代に逆行する動きを見せていたわけで、

織田信長は決して時代の最先端ばかりを突き進んでいたわけではありません。

保守的な面も多分にあったのです。

さて、織田信長は、小牧山に移ることになりました。

小牧山は平地の真ん中に独立して存在する、86mの小山です。

『定光寺年代記』には、「永禄6年2月、火車輪城鍬始、上総守開之、年齢30歳」とあり、

「火車輪城」と呼ばれていたことや、2月から築城を始めていたことがわかります。

(信ぴょう性は低いが『武功夜話』には、小牧に移るとの触れがあったのは永禄5年[1562年]11月頃であったという。当時小牧は凶作で、農民たちは苦しんでいたが、仕事ができた上に税も半分とされたので、大喜びで普請に協力した、という興味深い話も載っている)

小牧山の南側に、「池田」という地名が残っていますが、

『尾張古城跡記』「永禄6年より小牧要害に取立、南に池田勝入、辰巳に丹羽長秀、…」とあるように、池田恒興の館があったことに由来しているようで、

丹羽長秀のいた「辰巳」も「南東」の方角を表しているので、

小牧山の南側に家臣たちの屋敷が作られていたことがわかります。

また、小牧山に移動したのは武士たちだけではなく、

「油屋町」「鍛冶屋町」「紺屋町」などの地名が残っていることからわかるように、

商工業者も清洲から小牧山に移動していました。

『朝日物語』には、「清洲より小牧越の有しに、清須へ成敗と号して小牧へ越さぬ者は家を焼くとて藤吉を奉行に遣されける。…町人共、家を焼かれては悲きとて詫言致し、早速小牧越を仕りたりける」とありますが、

けっこう強引な方法を以て商工業者たちを移動させていたことがわかります(;^_^A

ちなみにこの時、移動を無事成功させた使者の「藤吉」は、「其時、信長公「藤吉は才覚者なり」と誉給う」と、織田信長から褒められていますが、

この「藤吉」とは木下藤吉郎、後の豊臣秀吉のことです😆

「油屋町」「鍛冶屋町」「紺屋町」などの地名は、小牧山の南側の西半分に存在しているので、

小牧山南の城下町は、東側が武家屋敷、西側が商人町であったようです。

さらに、「惣堀」という地名もあり、城下町の南側は堀で守られていたようです。

小牧山の南に広がる城下町は、1994年以降に発掘調査が繰り返し行われ、

その結果、

・武家屋敷は2mの堀、3mの土塁に囲まれていたが、城のある方向の北側には堀が無かった

・瓦が見つからないので、板ぶきの屋根であった

・排水施設があった

・同じ職業の者たちが集まって住んでいた…

などのことがわかったようです。

ちなみに、織田信長の家臣全てが城下町に住んだわけではないようで、

丹羽長秀は、小牧山の南東1kmほどのところにある、

蟹清水砦に住んでいたようです。

そのため、織田信長の命令にしっかり従い、城下町に移り住んだのは池田恒興をはじめとする、信長の旗本衆たちだけであり、

織田信長の強制力は旗本衆にしかまだ及んでいなかったことがわかります。

さて、小牧山城(火車輪城)ですが、

1998年から発掘調査が行われ、

石垣は信長時代に作られていた、ということが判明しました。

織田信長はこれまで石垣づくりの城を作っていませんでした。

というか、当時の尾張に石垣づくりの城は存在しませんでした。

石垣づくりの城は1530年代、畿内から作られ始めており、

織田信長は、上洛時に石垣づくりの城を知って、

近江(滋賀県)の石垣づくりの城を参考にしながら(おそらく近江の職人を招いた)、小牧山に石垣づくりの城を作ったようです。

織田信長がこの小牧山城を作ったのは、織田信清勢力に圧力をかけるためでした。

信長が先年、攻撃をかけて落とせなかった於久地城は、

小牧山城から6km、歩いて1時間余りの距離にありました。

これが清洲城だと18㎞程離れ、歩いて4時間ほどの距離だったので、

於久地城にかなり接近したことがわかります。

於久地城は全くの平地にあり、小牧山から見下ろされ、城の中の様子が手を取るようにわかる状態になってしまうと、

城主の中島豊後守は守り切れないと考えて、城を明け渡し、犬山城へと去っていきました。

織田信長は、戦わずして、要害・於久地城を手に入れたわけです。

織田信長の作戦勝ちでした!

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