社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 義兄弟・織田信清、謀反~於久地惣構破るるの事(1562年)

2023年8月11日金曜日

義兄弟・織田信清、謀反~於久地惣構破るるの事(1562年)

 美濃攻めを開始した織田信長は、森辺の戦いで勝利し、

西美濃に大きく勢力を広げることに成功しましたが、

美濃国はやはり大国、攻略は一筋縄ではいかず、

十四条・軽海の戦いでかなりの損害を負ってしまいます。

しかもそこにもたらされた急報は、なんと姉の婿であり義兄弟である、

犬山城主・織田信清が裏切ったという衝撃的なものでした…!!(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇於久地城(小口城)の戦い

織田信清の謀反の理由はよくわかっていません(;^_^A

『総見記』も、「犬山の城主織田十郎左衛門信清と申は備後守殿信秀の御舎弟与次郎信康の次男也ければ信長公の御従弟なり。其の上に信清を信長の妹聟になされける故親類と云い縁者と云い旁以て親しからん處にいかなる故にか中悪くて信清既に別心の色を立たりけり…」と記しています。

まぁ、関係が深くても、織田信長は実の兄と弟に謀反されてるんですけどね(;'∀')

織田信清が反旗を翻した理由としては、織田信長の岩倉織田家攻めに協力して楽田城を落としたのに、戦後に楽田城を与えられなかったことが考えられます(代わりに黒田城は手に入れたようですが、もともと楽田城は犬山織田家の物で、岩倉織田家に奪われていたのを取り返した物だった)(※もめたのは岩倉城という説もあり)。

その不満がたまっていたところに、斎藤方の宇留摩(鵜沼)主、大沢治郎左衛門から誘いの声がかかったので、織田信清はこれに乗ったのでしょう。

その直前に、十四条の戦いで弟・織田広良が戦死したことも決意を後押しすることにつながったかもしれません。

織田信清と行動を共にしたのは、於久地(小口)主・中嶋豊後守(織田信清の家老)、黒田城主・和田新介(織田信清の家臣)でした。

以下、於久地城(小口城)の戦いについて紹介していきますが、

実は於久地城(小口城)の戦いは『総見記』にも『中古日本治乱記』にも、小瀬甫庵の『信長記』にも記述が無く、情報が極めて少ない戦いです(◎_◎;)

『信長公記』以外に於久地城(小口城)の戦いについて記している書物は信ぴょう性に疑問が持たれている『武功夜話』しかないため、信ぴょう性は低いものの、『武功夜話』に頼って今回は話を進めざるを得ません💦(まぁ『総見記』も『中古日本治乱記』も信ぴょう性に難のある小瀬甫庵の『信長記』をもとにしているようですが…)

『武功夜話』には、織田信清が謀反したのは永禄5年(1562年)5月中旬、織田信長が洲俣で戦っている最中のことだったと書かれています。

織田信清の謀反は永禄4年(1561年)という説もあるのですが、永禄5年(1562年)というのはまったく根拠のない話ではなく、

『明淑慶浚等諸僧法語雑録』には、永禄5年(1562年)8月28日に織田信清が一色(斎藤)氏と結んだとの噂があった、との記録があります。

さて、織田信長に敵対した織田信清は、下津を攻撃して火を放ち、乱暴を働きました。

織田信清の謀反を知った織田信長は、ようやく作った墨俣の砦を斎藤方に利用されぬように破壊し、清須城へと戻ります(『武功夜話』には織田信長が織田信清の謀反の振る舞いに腹を立てた、と書かれています)。

織田信長は、まず於久地城を攻めることとし、その前に丹羽長秀を於久地城に派遣して。戦うことなく開城させようとしましたが、これには失敗します。

於久地城は、『武功夜話』によれば、平地にある城であったが、少し小高い所があり、ここを本丸とし、東側には二重の堀、南西の方向は沼地があるなど、攻めがたい城であったようです。

(古城絵図には、たしかに東側に二重の堀が見受けられます。大口町歴史民俗資料館で復元されたものでは、南西方向に大きな堀が存在しています)

しかも於久地城には、斎藤方の援兵も入っていました。

6月下旬(『武功夜話』では6月7日)、織田信長は於久地城へ出陣します。

織田信長は、「我、是より於久地田の暮共一泡吹かせんの所在也。各々高名を惜しまず手柄を競え」と言って真っ先に於久地城に向かい、これに負けじと家来たちも於久地城に進みました。(『武功夜話』)

織田軍は小姓衆が先駆けとなって於久地城に攻めこみ、激戦となります。

『武功夜話』には、敵方の老将・坂井小藤太が10人ほどで一丸となって織田信長の旗本隊に向かって突撃してきたのに対し、市橋伝左衛門・岩室長門守・伊藤夫太夫が長槍でもって立ち向かい、織田信長は約4mほど(二間有余)の槍を自在にあやつって戦ったことが書かれています。

『信長公記』には、味方に10人ほどの負傷者が出た、と書かれていますが、

その後に、この戦いで岩室長門守が戦死したと書かれているので、

被害を抑えて記述していることは明らかです。

岩室長門守はこめかみを貫かれて戦死しましたが、

『信長公記』には「隠れなき器用の仁」(世に知られた有能な人材)であったため、

織田信長がその死を嘆く様子は並大抵のものではなかった(信長御惜しみ大方ならず」)、と書かれています。

織田信長軍は奮戦しますが、激しい抵抗にあって、結局城を落とすことはできませんでした。

力攻めによる攻略が難しいと悟った織田信長は、

違う方法を考えて、於久地城を攻撃することなく落とす事に成功するのですが、

それはいったいどのような作戦だったのか!

次回をお楽しみに!😆

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