今川氏真が北条氏救援のために関東に向かったのを見て、
西三河に出兵した織田信長ですが、
西三河には長く滞在することはなく、
各所に火を放ったりや弓合戦をしたりするくらいで、
短期間で尾張へ戻っています。
三河に勢力を広げられる好機でありながら、
なぜ尾張に戻ったのかというと、
それはおそらく、美濃から重大な情報がもたらされたからでしょう…!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇森辺(森部)の戦い
以前のマンガで紹介したように、織田信長の美濃への進攻はうまくいっていなかったのですが、
そこに、大きな情報がもたらされます。
永禄4年(1561年)5月11日、一色(斎藤)義龍が34歳(32歳?)で急死したという知らせです。
『大かうさまぐんきのうち』には奇病にかかり、妻と子と同日に死亡したとあるなど、
その死には謎な部分もあり、暗殺説もあるほどです。
しかし、永禄3年(1560年)の信長の二度の美濃攻めの際に自ら動いた形跡がないことから、この頃にはすでに病魔に侵されていたのかもしれませんね(-_-;)
義龍の死は信長にとっては千載一遇の好機であり、
信長はその死のたった2日後には西美濃に向けて出陣しています。
(『信長公記』には5月13日とあるが、『永禄沙汰』には「永禄4年[1561年]5月11日義龍死去、尾軍乱入」とある。ただし、その傍に「同13日従尾州乱入」と書き込みがある)
情報をつかむのがうまかったのでしょう。そしていつもの即断決行です。
『信長公記』によれば、その日は「かち村」(海津市平田町勝賀?)に陣を構え、一夜を明かしました。
それに対し、義龍の跡を継いだ斎藤龍興(1547?~1573年)はわずか13?14歳?であったため、長井甲斐守(衛安)と日比野清実(きよざね)が大将となって、5月14日に墨俣あたりから森辺(森部)方面に向かって出陣します。
長井甲斐守(衛安)と日比野清実は、ともに「六人衆」(六奉行とも)と呼ばれた重臣たちのメンバーであったといいます。
この六人衆は、一色(斎藤)義龍が、政務の補佐をさせたメンバーであり、長井・日比野の他には日根野(延永に改姓)弘就・竹腰(成吉に改姓)尚光・桑原(氏家に改姓)直元・安藤(伊賀に改姓)守就がいました。
長井・日比野以外の4人は一色改姓の際(1559年)に一色家臣の名字に改姓しているので、おそらく長井・日比野の二人も、記録に残っていないだけで改姓していたと思われます(;^_^A
さて、森辺の戦いですが、『総見記』によれば、織田信長軍1500、美濃勢6000であったといいます(誇張されているように思えますが…💦)。
美濃勢の出陣を知った織田信長は、
「天の与うる所」(これぞ天が与えた好機である)
と言って、楡俣(にれまた)の川(現在の大榑川だとする説があるが、誤り。当時大榑川のあたりには、墨俣川[境川・木曽川]が流れていた。楡俣川は、現輪之内町楡俣の北を流れていた川のことだろう)を渡って、美濃勢と森辺あたりで激突します。
『総見記』によれば、織田信長は部隊を先陣・旗本・横槍の3つに分け、
敵が先陣を襲ったところを、側面から横槍隊の森可成・毛利新助・柴田勝家・木下雅樂助・水野帯刀(忠光?)らが突撃してこれを撃破したといいます。
青柳村(大垣市青柳町)まで追い討ちした、とありますが、
そうなると大垣城方面に逃げた敵を8kmほど追撃したということになります。
『信長公記』に話を戻すと、この森辺の戦いでは「哀れなる事」…悲劇が起こったそうです。
ある年に美濃に猿楽集団がやってきたが、長井甲斐守・日比野清実はその中の若者を気に入り、
それぞれ一人ずつ若衆(男色相手)として美濃に引きとめて手元に置いていた。
『信長公記天理本』には、森辺の戦いの前に、2人は猿楽の若衆に、
「戦いとなるからもとの場所に帰るがよい」と言ったが、
若衆2人は、「無情なことを言わないでください」と言って、戦いについていったといいます。
『信長公記』には「今度2人ながら、手と手を取り合い、主従枕を並べ討死侯」とあり、激戦の中で若衆2人は、長井甲斐守・日比野清実と共に討ち死にを遂げました…。
長井甲斐守は服部平左衛門(今川義元に一番槍をつけた服部小平太の父)が、日比野清実は恒河久蔵(津島の名族出身)がそれぞれ討ち取り、
(『総見記』には日比野清実の死について次のように記述している。…恒河は出陣に遅刻し、遅れて戦場に向かったところ、兜を脱いで織田軍の様子を見ていた日比野[『総見記』では「日根野」と間違えて書かれている]を見つけ、これに勝負を挑んで討ち取った、これを信長のもとに持って行ったところ、信長は、「これは日比野の首だ、今日の合戦の勝ちは決まったぞ」と言った…)
他にも神戸将監(『現代語訳 信長公記』では「神戸」に「かんべ」とルビが振られているが、付近に神戸[ごうど]町があるため、おそらく読みは「ごうど」ではないか?)という名有りの武将をこれまた津島の河村久五郎という者が討ち取っています。
河村久五郎はこの功を認められて、後で森辺(森部)城主になったようです。
そして、この戦いで活躍したのが前田利家です。
前田利家は2つ首を取ったのですが、そのうちの一つは、
美濃の国で知らぬ者はいない、「頸取足立」足立六兵衛(日比野清実の家来)の首でした。
前田利家は、以前にも紹介しましたが、織田信長のお気に入りの物を殺したために、出仕停止の処分を受けていました。
前田利家は、織田信長の怒りを解くために、
桶狭間で3つの首を取る活躍を見せましたが、織田信長は復帰を認めませんでした。
しかし、今回の活躍で、ついに織田信長は前田利家を許し、織田家への復帰を認めます。
『信長公記』には足立六兵衛は「下野と一所に討死候なり」とあり、日比野下野守清実と同じ場所で死んだようです。
『中古日本治乱記』にも森辺の戦いの様子が書かれているので、それを紹介します。
…信長は西美濃を取ろうと1500の兵を率いて出陣した。これを長井甲斐守・日比野下野守らが6000余りの兵で迎え撃った。信長は兵を500ずつ3つに分け、1つは正面を、1つは敵の側面を、1つは旗本とした。敵は難所を越えて来たばかりであったが、織田軍を小勢と見て侮って攻めてきた。敵の兵がニ町(約200m)に近づいたところで、信長は柴田勝家・森可成・毛利新介・木下雅樂助・水野帯刀らを突進させた。敵兵は難所を10町(約2㎞)進んできて疲れている中で、疲れていない織田軍の攻撃を受けたために崩れ去った。長井甲斐守は、敵は小勢なのに逃げるものがあるのか、甲斐守はここにいるぞ、と味方を励まし戦ったが、そこに津島の服部平左衛門尉が戦いを仕掛けついに長井を討ち取った。日比野下野守は神戸と一緒になって戦っていたが、下野守は恒河久蔵に討たれ、神戸は川村久五郎に討ち取られた。敗走した美濃勢は青柳まで追撃を受け、300余人が戦死した。前田孫四郎は常に信長に近侍していたが、同朋衆を殺害して出仕停止となっていた。桶狭間の戦いでは一番に首を取って信長に見せに行ったが信長はその首を泥の中に捨てた。孫四郎はそれでももう一つ首を取ったが、信長は喜ばなかった。今回の戦いで再び先駆けして首を二つ取ったところ、信長はついに孫四郎を許した。勝利した信長は各地を放火した後、翌日の5月14日に帰国した。…
一色(斎藤)義龍の急死後、電光石火の攻撃で美濃に攻めこんだ織田信長は見事勝利を挙げることに成功しました。
しかもただの勝利ではなく、重臣六人衆のうち2人を戦死させるというすさまじい勝利でした(◎_◎;)
美濃を手に入れるのは目前と思われましたが、
美濃攻略は長い時間を要することになります。
なぜかというと、尾張国内で織田信長に反逆する者が現れたからでした…!
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