桶狭間の戦いで今川氏を破った織田信長!
…ですが、その後とった行動は驚きのもので、
勢いに乗って三河を攻めると思いきや、信長はなんと北の美濃(岐阜県南部)を攻めたのです!(◎_◎;)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇美濃攻めの開始
『信長公記』を見ていると、長良川の戦いで斎藤道三を救援しに行き、
斎藤范可(義龍)と戦った後、永禄4年(1561年)に起こる森辺(森部)の戦いまで、織田信長は美濃に攻め入ってないように書かれているのですが、
実は森辺の戦いの前にも2度、美濃に攻め入っているのです。
(『信長公記』は織田信長の負け戦は伏せる傾向にあり、
森辺の戦いより前の2度の戦いも、失敗に終わったものです)
それにしても信長はなぜ、三河ではなく美濃を攻めたのでしょうか?(゜-゜)
『総見記(織田軍記)』には次の信長の言葉が載せられています。
「今川氏真は父の義元よりもはるかに劣る暗将であるが、今川を滅ぼそうとすれば縁戚関係にある北条・武田が助けに来て、畿内に出るのが数年遅れてしまうことになる…」
信長としては、早く上洛がしたい。そのため、京への進路になく、北条や織田との軋轢を生むことになる三河にはこだわりがなかった…という事なんでしょうか(゜-゜)
信長は桶狭間の前年に将軍・足利義輝の要請に応じて上洛した3人(…(-_-;))の大名(他は一色義龍・長尾景虎[上杉謙信])の1人であり、信ぴょう性はないですが『常山紀談』に三好長慶に畿内の土地と尾張の領地の交換を願うなど、中央志向の強い人間でした。
そのため、永禄3年(1560年)5月19日に桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は、
さっそく、翌月の6月2日には西美濃の安八郡(安八町・神戸町・輪之内町付近)に1500ほどの兵を率いて攻めこみ、各所に火を放ちます。
その後の経緯について、『総見記』は次のように記しています。
斎藤家の老臣の丸毛(長照か。大塚城主)・市橋(利尚か。青柳城主?)はこれを見過ごせず打って出たところ、相手が思いのほか小勢なので、何か裏があるのではないかと疑い、とりあえず足軽100ばかりを出して攻めさせた。これに対し信長も140・150ばかりの兵を進め、矢戦の後、押しつ押されつの激戦となった。その時、大垣城から長井甲斐守(衛安)が1000の兵を率いて加勢に来た。信長はこれを見て、敵が一つになる前に兵を退かせよ、と坂井・池田に命じた。池田・坂井は敵を追い払いつつ兵を退きあげさせることに成功した。信長は感じ入って、「汝等が挙動、古の韓信にも劣るまじ」と褒め称えた。その日中に清須に戻った。殿を柴田勝家に任せていたが、敵が追撃してくることはなかった…。
(※丸毛長照について、『常山紀談』に次の逸話が載せられている。丸毛長照・兼利父子は斎藤龍興に仕えて大塚城にいたが、そこに安藤守就・氏家卜全が謀反して攻め寄せてきた。丸毛側には300の兵しかいなかったが、長照は城下の農民たちに竹を持たせて大軍のように見せかけ、氏家卜全を破り、安藤守就を降伏させた。斎藤龍興はこれをほめて、その領地を増やした…。
なんだか、信長と岩倉織田家の戦いの時と似ている逸話ですね(;^_^A)
(※韓信[前231~前196年]とは、項羽と劉邦の争いの時に、劉邦の家来として活躍した「漢の三傑」と呼ばれる名将です。趙を攻めた時、わざと川を背にして陣を布き、逃げ場がない韓信軍は必死に戦って敵軍をひきつけ、その間にひそかに敵の本拠地を占領したことが、「背水の陣」の由来になっています)
8月23日、織田信長は再び1000の兵を率いて西美濃に向かいます。
この戦いの模様は『総見記』に次のように書かれています。
斎藤勢は大垣・多芸より、丸毛兵庫頭・長井甲斐守が1000の兵を率いて迎撃に出、織田軍に突撃してその先陣を破った。森三左衛門(可成)・柴田権六(勝家)は討ち死に覚悟で敵軍に突入、長井甲斐守は撃退したが、疲れてそれ以上は進めなかった。夕暮れになったので、信長は池田勝三郎(恒興)・坂井右近(政尚)を殿にして退却を開始した。今回は敵は140・150の兵を出して追撃をかけた。これに対し池田・坂井は激しく抵抗したので、敵は追撃をあきらめた…。
以上のように、永禄3年(1560年)の信長の二度にわたる美濃攻めは、はかばかしい結果を残すことができないまま終わりました(-_-;)
当時の美濃は一色(斎藤)義龍のもと、まとまりつつあり、信長が入り込む余地がほとんどない状態であったといえるでしょう💦
信長が美濃勢に勝つには、①織田の兵力が増す事、②美濃の統率が崩れること、が必要でした。
そして信長は、その2つともを満たして行いくことになるのです…!🔥
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