社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 尾張守護を追放~吉良・石橋・武衛三人御国追出しの事(1561年?)

2023年8月7日月曜日

尾張守護を追放~吉良・石橋・武衛三人御国追出しの事(1561年?)

 今川義元桶狭間の戦いで破り、敗死させた織田信長

しかし、そのさなか、尾張国内ではある人物たちにより陰謀がめぐらされていたようで…??

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇尾張守護追放

1554年、尾張守護・斯波義統坂井大膳らに襲われて殺され、

子の斯波義銀は織田信長のもとに逃れました(以前のマンガで解説)

翌年、織田信長は叔父・織田信光の力を借りて清須城を攻略し(以前のマンガで解説)、

その後織田信長は清須城に斯波義銀を迎えて城の主人とし、

自身は清須城の北櫓に住むなど、斯波義銀を大切に扱っていました(以前のマンガで解説)。

しかし斯波義銀はお飾りのような扱いで、実験はありませんでした。

これを面白く感じていなかった斯波義銀は、

『張州府志』によれば、「今川義元に與(あずか)り心を協(あわ)せ除を欲す」…斯波義銀は今川義元と関係を結び、共に織田信長を除こうと考えるようになったといいます。

また、『張州府志』には、石橋義忠が斯波義銀に、岩倉織田家に従っていた鯏浦二之江(荷之上)の服部友貞が岩倉織田家を織田信長に滅ぼされてしまったので織田信長に恨みを抱いている、といったことを告げた、とも書かれています。

ここで斯波義銀と服部友貞がつながっていくのですが、

今出てきた石橋義忠(忠義とも)という人物は何者かというと、

斯波氏の庶流にあたる石橋氏(室町時代、代々幕府で儀礼関係の役職についていたという)の出身で、

戸田城(名古屋市中川区戸田周辺)周辺を任されていた人物であり、

服部友貞のいる海西郡とは近い位置におり、その縁で服部友貞と関係を結ぶようになったのだと思われます。

そこに今川義元により三河国を追放された吉良義安も加わって、陰謀を企むようになった…というのですが、

吉良義安は今川義元に恨みがあるのに、今川義元と手を組もうとしているのかがよくわかりません。

おそらく、今川義元から、織田信長を倒す企みに乗れば、吉良の土地に復帰を許してやってもよい、とでも言われたのでしょうか(゜-゜)

吉良義安は、尾張を追放された後、松平元康(徳川家康)に拾われ、

吉良の土地の継承を許されていますが、これは織田信長にとっては自分に逆らおうとした男を松平元康が拾うという微妙な話であり、

徳川~織田同盟にひびが入ると考えられる案件なのですが、

もしかすると、吉良義安は織田信長とつながっていて、

斯波・石橋・服部のたくらみを織田信長に伝えていたから、

吉良に復帰を許されたのかもしれません(;^_^A

さて、斯波・石橋・服部の企みというのは、

桶狭間の戦いの際、千艘もの船で大高城に行っていることから。

おそらく、大高城で徳川や朝比奈の率いてきた兵(の一部?)を乗せ、

服部・石橋の勢力範囲である海西・海東郡に連れて行き、

織田氏を東西から挟撃しようとしていたのでしょう。

桶狭間の戦いが起きたのは永禄3年(1560年)5月19日のことでしたが、

これは西暦に直すと6月12日のことになります。

夏は季節風が南東から吹きますから、船で大高城から海西・海東郡に向かうときは追い風となります。

NHKの番組『歴史探偵』では、北西の季節風が吹く12月の時に大高城から熱田まで向かうのに1時間30分かかるところを、6月だとわずか20分で行けると紹介されていました。

海からの進撃のことも考えて、今川義元は5月(西暦6月)に進攻を開始したのかもしれませんね(゜-゜)

しかし、5月(西暦6月)は梅雨の時期でもあり、大雨の為に桶狭間の戦いで今川義元は討ち死にすることになりました(-_-;)

今川義元が討ち死にしたことで、計画は頓挫し、

服部友貞はむなしく尾張に帰らざるを得ませんでした。

その後しばらく斯波・石橋らはひっそりとしていましたが、

おそらく1561年頃(『清須合戦記』には永禄4年[1561年]とある)に計画が織田信長に伝わってしまいます。

『総見記』には、

家臣の中で計画をすべて打ち明けたものがあった、

織田信長は大いに腹を立て、

「所詮高家の人を重んじぬるは筋目を思う故也。

左様に恩を讎(あだ)にて報じ給う人を崇敬して何かせん。」

(名門の人を大切に扱うのは、それが道徳的に正しいことだと思うからだ。

それなのに恩をあだで返す人を、あがめうやまって何になるだろうか。)

と言ったが、

「急度(きっと)誅伐すべけれども、さすが名家の末々なれば、

此上ながら哀なり」

(討つべきところであるが、名門の子孫の方々であるから、それはかわいそうだ)

と、情けをかけて命は取らず、尾張から追放するにとどめた、とあります。

斯波義銀・石橋義忠は長島にいる服部友貞を頼って落ち延びていきましたが、

その服部友貞は、1565年に戦いに敗れて織田信興(織田信長の弟)・滝川一益

荷之上城の近くに鯏浦城・古木江城を作られてしまって苦しくなり、

1568年正月に、伊勢を治める北畠具教にあいさつをしに行く途中で、

織田家の刺客に襲われ、自害に追い込まれてしまいました。

服部友貞を失った斯波義銀は、出家して三松と名乗り、河内畠山昭高を頼ります。

畠山昭高が織田信長にいろいろととりなした結果、

斯波義銀は尾張に復帰を許され、わずかながら所領を得ました。

『総見記』によると、世間の人々は「信長公の御慈悲」「感心」したといいます。

斯波義銀の娘は織田信長の弟、織田信包に嫁いでいます。

織田信長の死亡後は豊臣秀吉の御咄衆となり大切に扱われましたが、

小田原征伐の際に、北条氏直の助命を豊臣秀吉に願ったところ、

増長していると怒りを受け、役職を失ってしまいます。

その後1600年に60歳で没しました。😕

石橋義忠のほうは、松永久秀に拾われ、キリスト教徒となって「サンチョ」と名乗ったといいます。

このように、織田信長は比較的平穏に下剋上をやってのけました。

後の足利義昭もそうですが、織田信長は決して、自分の主君にあたる者に無礼に扱うことはしていませんし、

逆らわれても殺そうとはしていません。

織田信長は主君にあたる人への対応を気にする、道徳的で保守的な面もあった人物なのです。

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