弘治2年(1556年)4月より、織田信長と岩倉織田家の信安は度々争っていましたが、
その中で、三河の名門吉良氏と尾張守護の斯波氏が会見する、という出来事が起きます。その目的とは、いったい何だったのでしょうか…?
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇吉良氏とは何か
吉良氏も斯波氏も、どちらも足利氏の一門です。
吉良氏は三河の南西部にある吉良荘を根拠地として足利義氏(1189~1255。母は北条時政の娘、妻は北条泰時の娘。三河守護、陸奥守、武蔵守などを歴任)の庶子(正妻の子ではない子ども)から出た家、
斯波氏は足利義氏の子、足利泰氏(1216~1270。丹後守)の庶子(庶子といっても始めは正室の子。最初は北条分家の娘を妻としていたが、のちに本家[得宗家]の娘が妻となったため、こちらが正室になった)から出た家ですから、
吉良氏のほうが歴史が古いのですね。
吉良氏の始まりは、1221年、足利義氏が三河守護(~1252年)になったことに始まります。
足利義氏は三河国内の地頭に足利氏の者を多く起用します。
そこで吉良荘の地頭となったのが義氏の庶子の長氏でした。
長氏は二男の国氏に今川荘(現今川町付近)を与えます。
吉良荘を分割して相続させたのでしょう。
その後長氏の弟(泰氏)の子、公深(妻は今川国氏の娘)が吉良荘一色郷の地頭(吉良荘地頭という記述もあるが、それは吉良氏なので、一色郷の地頭の間違いでは??)となり、
一色氏を起こしています。
つまり三河国吉良荘付近で、足利の名門、吉良氏・今川氏・一色氏が生まれたことがわかります(◎_◎;)
さて、その吉良氏は、
『今川記』に「室町殿の御子孫たえなば吉良につかせ、吉良もたえば今川につかせよ」(足利氏が絶えれば吉良がつぎ、吉良も絶えれば今川が継ぐ)と記されているほど、
(実際は吉良氏の地位は「足利氏御一家」であったのに対し、今川氏は「外様衆」にとどまっており、御一家>三管領家>相伴衆>御供衆>(御部屋衆)>申次衆>外様衆>奉公衆となっている室町幕府の家格のランクでは下から2番目でしかなかった。確かに思えば中央で活躍した今川氏の人物はいない…)
家の格は三管領家(斯波・細川・畠山)をしのぐほど高いものであったようです。
しかし吉良氏は鎌倉時代はけっこう力を持っていたようですが、
(鎌倉時代には吉良氏は名乗らず、ずっと足利氏を名乗り続けていた)
室町以降は家の格が高いだけで実際の力はそれほどありませんでした。
なぜかというと、
室町時代の初めに足利尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱(1350~1352)がありましたが、
吉良氏は吉良満義・満貞親子そろって直義側についたのです。
これに反発した吉良氏の家来の一部は満貞の弟の尊義を擁立して対抗します。
後に吉良満義・満貞は足利尊氏に降伏しますが、
その後は吉良氏は西条家(満貞系。嫡流。上吉良とも。「吉良殿」と呼ばれる)と東条家(尊義系。庶流。下吉良とも。「東条殿」と呼ばれる。「御一家」には入らない[ので、中央で活動はしていない])とに分裂してしまいます。
その後、時代は下って戦国時代になると、
東条吉良義藤(尊義の玄孫[ひ孫の子]にあたる)が京都にいる西条吉良義真(満貞の孫[もしくはひ孫])の領地に攻めこむという事件が起きていますが、まもなく和睦したようです。
西条吉良義真の子、義信は主に京都にいて、1487・1491年の二度の六角征伐に加わるなど、積極的な活動ぶりを見せ、そのために三河守護に任じられたとも言われています。
義信の後を継いだのは、孫の義堯でした。
義堯も京都で活動しますが、将軍・足利義稙が1513年に京都を出奔したことに伴って、義稙派であった義堯も京都を去って本領の三河吉良に戻ったようです。
義堯は遠江にあった吉良氏の領地をめぐって今川氏親と対立しますが、
のちに氏親の娘を妻に迎えて和睦します。
そして生まれたのが義郷・義安・義昭の三兄弟でした。
吉良義郷は吉良にいながらも、たびたび京都に赴いて幕府に出仕していましたが、
天文7年(1538年)を最後に西条吉良家は幕府に姿を見せなくなります。
なぜかというと、尾張の織田信秀が(河東一乱のために今川氏が三河に手を出せないのを見越して)三河に勢力を拡大し、西条吉良家の西尾城を襲ってきたからです(◎_◎;)
『養寿寺本吉良氏系図』によれば、吉良義郷は家老の冨永伴五郎とともにこれを数回撃退したものの、天文8年(1539年)に伴五郎が戦死すると劣勢を覆すのが難しくなり、天文9年(1540年)4月23日には義郷は西尾城で戦死してしまいます。
義郷死後、西条吉良家を継いだのは弟の義安でしたが、この家督継承は単純なものではありませんでした💦
なぜなら、東条吉良家の吉良持広(?~1539年。吉良義藤の孫。以前に紹介したように、松平広忠の岡崎城復帰を支援するなど松平側に与して活動した)が、西条吉良家の義安を養子に迎え、これに家督を譲っていたからです。
(これによって長く分かれていた吉良家は西条吉良系に統一されることになった。持広には義次という息子がいたが、持広死亡時に9歳と幼かったので義安が養子として迎えられたと言われているが、その辺りの事情はよく分からない)
そのため、普通に考えれば、西条吉良家を継ぐのは残った義昭になりそうなものですが、義安としては弟に家格の高い西条吉良家を継がれるのはおもしろくなかったでしょう。
吉良義安の妻は斯波氏の娘と言われていますが、これは斯波氏・織田氏を味方につけることで、西条吉良家を継ぐことを狙ったものでしょう。
おそらく斯波氏・織田氏の引き立てによって義郷は西条吉良家も継ぐことになります。ここに両吉良家は統一されることになったのです。
『今川記』には「今川殿御計いにて。義安又西條も御相続也。両吉良共に御相続也」とあり、今川氏もどうやらこれを認めていたようです。
その後河東一乱が片付き、三河に目を向けることができるようになった今川義元は三河に進出、織田信秀と衝突することになります(◎_◎;)
吉良義安はもちろん織田派で、天文16年の渡・筒針の戦いでは織田方を支援して安城城に軍勢を入れ、今川氏が中島城を奪った時も吉良から中島城の途中の地点まで兵を進めています。
これに怒った今川氏は天文18年(1549年)9月頃に吉良領を襲い、9月20日には今川方の大村弥三郎という者が西尾城の外曲輪で名のある武将を討ち取って賞されていることからもわかるように、間もなく吉良義安は追いつめられ、降伏しました。
今川義元は義安の外戚の後藤平太夫を「悪徒」(『駿遠軍中衆矢文写』)として処分を要求、これを除くことに成功します。
義安については、まだ13歳と年少であり、吉良氏は家格が高く、三河をまとめる存在としても有用であったので粗略にせず、義安をそのまま西尾城にとどめます。
恩を受けたはずの義安ですが、弘治元年(1555年)10月頃、大河内・富永与十郎の勧めもあり、再び今川氏に敵対、弟の義昭を水野氏へ人質に送り、援軍を得ます。
義安が今川氏に敵対した理由について、小林輝久彦氏は、
松平氏は、清康は東条吉良持清が烏帽子親となり「清」の字をもらい、
広忠は東条吉良持広が烏帽子親となって「広」の字をもらっていたのに、
松平元信(のちの徳川家康)は今川義元が烏帽子親となって「元」の字をもらったので、
「三河国主」の面子をつぶされたと感じ敵対した、としています。
それに加えて、①織田信長からの誘い②下に見ていた今川氏に敗れた不満③三河が騒乱状態(のちに触れる「三河忩劇」)にあり、今川は手を焼いている状態…の3つの要因があったことから挙兵を決意したのでしょう。
しかしこの挙兵には吉良の家臣の荒川・幡豆・糟塚・形原は従わなかったようで、吉良氏も一枚岩ではありませんでした(;^_^A
再びの反抗に怒った今川氏は閏10月4日頃、吉良庄内をことごとく放火、200余人を討ち取りますが、
一方で今川軍敗北、撤退する中で松井宗信がとって返して奮戦したのを賞する史料も見受けられるので、今回は前回と違って今川氏は苦戦したようです(◎_◎;)
その中で弘治2年(1556年)3月、織田信長が吉良庄内荒川に進んで野寺原で今川方と合戦しています(この時吉良義安は織田と連携して上野城を攻撃している)。吉良を援護するために出陣したものでしょうが、
織田信秀が安城城を失った天文18年(1549年)後、織田家は久しぶりに国外に進出するまでに勢いを取り戻していたことがわかります。
しかしいいことは長く続かないもので(;^_^A
翌月に織田信長の同盟相手である美濃の斎藤道三が長良川の戦いで死ぬと、
美濃だけでなく岩倉織田家が敵対、弟の織田信勝も敵に回るなど、
急速に織田信長をめぐる状況は悪化していきました(◎_◎;)
織田信長の援護を受けることが難しくなった吉良義安はそれでも、
『言継卿記』で弘治2年9月に山科言継が吉良領内を避けて通行していることからわかるように、
挙兵してから約1年間にわたって抵抗を続けることができていました。
しかしその後しばらくして吉良氏は今川軍に敗北、
敗れた義安はおそらく尾張に逃亡しました。
西尾城を手に入れた今川氏はここに今川方の城代を置いて直轄地にしますが、
一方で東条城には人質から戻ってきていた(今川氏が強く求めた結果か?)吉良義昭が入れて城主としました。
そして今川義元は新たに吉良の当主となった義昭を使って織田信長と和睦することを思いつきます。
今川氏は三河国内での争乱鎮圧に苦慮し、織田は岩倉織田家との戦いを控えている状況であり、両方ともひとまず戦いを止めておきたい状況でした。
両者の思惑が一致した結果、
弘治3年(1557年)4月上旬、
尾張を代表して斯波義銀、三河を代表して吉良義昭が、三河の上野原で会見し、和睦することになりました。
両軍は上野原に到着すると、約160メートル離れて、斯波・吉良が床几に座りました。
すると双方は立ち上がって10歩ほど前に出ると、何もせずに元の席に戻り、両者とも引き上げる…という謎の行動をとりました(◎_◎;)
この謎行動の原因としては、両家の家格差があったと考えられます。
ふつうに和睦の儀式を進行すれば、吉良に比べ家格が低い斯波が下風に立つような形で和睦が結ばれることになってしまう…おそらくそう考えた織田信長は、斯波義銀に吉良と同じように動くように行動させることにしたのでしょう💦
今川氏と織田氏の和睦は永禄2年(1559年)途中まで、約2年にわたって続き、その間両者は直接対決を控えることになります。
〇薮田に幽閉された吉良義安?
吉良義安の墓が静岡県藤枝市にあります。
吉良義安の墓が三河を含む愛知県ではなくなぜここにあるのかというと、
吉良義安は藤枝市にある薮田に幽閉されていたからだ、とされます。
吉良義安が薮田に幽閉された時期については、今川に対する一度目の敵対時(1549年)とする説、今川に対する二度目の敵対時(1555~1557年?)とする説が有力であるようですが、
この2つの説だと、後にマンガで触れますが、『信長公記』に、(おそらく桶狭間後に)「吉良・石橋・武衛」が尾張で信長に対し謀反を企んだので、3人とも国外に追放された、とする記述と矛盾するのです(◎_◎;)
この「吉良」にあたるのは吉良義安か義昭なのですが、
吉良義昭は桶狭間前後はずっと東条城にいるのでありえず、
そうなるとこの「吉良」は義安ということになります。
薮田に幽閉されていたとしたら尾張から追放されるわけがありません(◎_◎;)
この時期の吉良家について、『松平記』『三河物語』は次のように記述をしています。
『松平記』は、
弘治2年4月頃、駿河の薮田にいた吉良義安の弟の義昭が西尾城で今川氏に敵対した、自身は東条城に移り、西尾城には牛久保城の牧野成定を入れた…と記し、
『三河物語』は、
桶狭間後、松平元康[徳川家康]と戦うことになった吉良殿は、長男の吉良義藤(吉良義安の誤り)は松平清康の妹婿であったので駿河の薮田に移した、西尾城にいた弟の義昭を東条城に移し、西尾城には牧野成定を置いた…と記します。
どちらも同じような内容なのですが、
『松平記』は桶狭間前の今川氏に対する敵対時、『三河物語』は桶狭間後の松平元康との敵対時という違いがあります。
おそらくこの2つの事件が混ざってしまったのでしょう(;^_^A
前者が正しいとすると1555年の時にはすでに義安は薮田におり、一度目の敵対後に幽閉されていることになります。先に述べたように、これでは後の尾張謀反事件とのつじつまが合いません。
そうなると、後者の1561年の時に薮田にいた、という方を信じるべきです。
この場合だと幽閉、という形ではなく、
尾張から追放されて、弟を頼ろうとしたが、松平と縁があるので断られ、仕方なく今川氏を頼って駿河の薮田に移り住んだ…というのが真相ではないでしょうか(゜-゜)
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