社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 三河に手を焼く今川義元~三河忩劇(1555~1558年)

2023年7月8日土曜日

三河に手を焼く今川義元~三河忩劇(1555~1558年)

 長く疑問だったことがあります(゜-゜)

それは、

織田信長が尾張の同族との内紛に明け暮れる中、今川義元はいったい何をしていたのか??

なんで尾張の内紛が収まった1560年になって、尾張に攻めこんできたのか?

攻めこむなら、尾張の中が混乱しているときを狙うべきではないのか??

…というものです💦

しかし調べてみると、今川義元はただボーっとして機を逸したわけではなく、

尾張に攻めこめない事情があったのですね。

今回は、尾張内乱中の今川義元の動きについて見ていこうと思います🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇三河忩劇

これまでにも見たように、今川義元は、1555年までは尾張に対して攻勢を仕掛けていました。

1552年に尾張鳴海城主・山口教継を寝返らせ、

9月には尾張八事に進攻、

天文23年(1554年)1月までに重原城を攻略、村木砦を建設し、来援した織田信長と合戦。

天文24年(1555年)8月には、『家忠日記増補追加』に「三州及び駿州の兵、尾州に発して蟹江の城を攻む」とあるように、海路、蟹江城を急襲してこれを落としました(◎_◎;)

『松平記』には、大給城の松平親乗の家臣である松平久助・松平新助・松平隼蔵・鈴木佐左衛門・今井加兵衛・梅村喜八郎・川合帯刀・川合才兵衛が活躍、武井角左衛門・大橋新三郎が討ち死にした、他にも岡崎衆の大久保忠俊・大久保忠員・大久保忠世・大久保次右衛門・阿部忠政・杉浦吉貞・勝吉父子が大活躍して、この7人は蟹江七本槍と呼ばれた…とあります。

しかしここで今川軍の攻勢は暗転します。

9月に、三河の鱸(寺部城)・三宅氏(広瀬城)が今川に反抗して立ち上がったのです。

両者とも尾張国境にほど近いところにいる国衆であり、もしかすると織田信長が裏で糸を引いていたのかもしれません。

しかもこの際、美濃(岐阜県南部)の遠山氏(岩村城)が三河の小渡まで出陣、ここまで出向いていた鱸氏・三宅氏と合流しています(◎_◎;)

岩村遠山氏の遠山景任は、のちに織田信秀の妹である、おつやの方を妻に迎えているので、織田に近い国衆であったことは確かなので、ここでも反乱と織田との関係をうかがうことができます。

これに対し、今川義元は天野藤秀などを派遣、さらに小渡の土豪たち(阿摺衆)が三宅氏と戦い、美濃まで進出、明智城の遠山氏とも合戦に及ぶなど、戦いのスケールは拡大していきます(◎_◎;)

その後、さらに鱸兵庫助と異父兄の関係にあった大給松平親乗も反今川に立ち上がり、今川はこれを攻撃するものの撃退されてしまっています。

ちょっと前には蟹江城攻めで活躍していたのに、なぜ…?と思いますが、『松平記』で討ち死にで挙げられているのは大給松平家だけなので、ひどい使われ方をしたことに不満があった…というところなのでしょうか??(゜-゜)

弘治と元号が改まった10月には、以前に述べたように、吉良義安が緒川水野氏と結び今川氏に敵対しました。

以上の反乱は全て西三河のものですが、

この年には他にも、東三河の田峯の菅沼定継・島田の菅沼孫大夫が今川氏に反逆するなど、三河は蜂の巣をつついたような状態になります💦

それにしても、なぜ三河の国衆たちは今川に反抗したのでしょうか?

その理由はよく分かっていませんが(-_-;)

今川義元が織田信秀を破り三河に勢力を広げた後、1549年に今川義元は三河に検地を実行しており、この支配強化に対してそれまで独立勢力であった国衆たちが反感を持った…というところではないでしょうか??(゜-゜)

閏10月10日には今川義元の右腕・太原雪斎が亡くなっていることから、

太原雪斎が病に倒れた、ということも反乱を決意することに影響を与えていたかもしれません。

反乱鎮圧に苦慮する今川氏に対し、

織田信長・水野氏は反攻を開始していきます🔥

信長は10月1日に、花井三河守に八事・池場を与えるという書状を出していますが、

ここの辺りは以前に今川氏に攻めこまれたことからもわかるように、今川氏の勢力圏内にあったと思われます。

信長はそれを奪い返したわけです。

水野氏も、今川に奪われていたと考えられる来迎寺城・牛田城などを取り返しています。

翌年の弘治2年(1556年)、三河はさらに混乱状態となり、

1~3月頃に作手奥平氏の当主・奥平定勝とその息子・定能が今川に反逆、

2月には牛久保城の牧野成定が反乱(『松平記』や『三河物語』には吉良義昭に招かれて西尾城に入ったとある)、

20日には今川方の東条松平忠茂が奥平貞置が守る日近城を攻めたものの討ち死にするということが起きています。

そして3月にはついに織田信長が三河の荒河に進攻、野寺原で合戦となります。

これは西尾城に籠城する吉良氏の援護という側面があり、吉良氏は反攻に出て上野城の酒井忠尚を攻撃しています。

以前にも述べましたが、信長は1549年以来7年ぶりに織田氏の勢力を三河に伸ばす事に成功したのです。

しかし翌月には長良川の戦いで同盟相手の斎藤道三を失い、岩倉織田家や弟の織田達成(信勝)が反抗するなどして、三河どころではなくなっていきます(◎_◎;)

これを境に今川は息を吹き返し、反攻に出ます🔥

5月には秦梨城の粟生永信が攻め寄せて来た反今川方を撃退して奥平市兵衛・松平彦左衛門など5人を討ち取り、

8月4日には雨山の戦いで奥平定勝を破り、これを降伏させることに成功しました(能勢甚三・小笠原孫二郎の活躍を今川義元から褒める書状が残っています)。

この戦いは『武徳編年集成』に次のように記されています。

…織田方である作手の奥平貞勝は雨山に砦を築き奥平貞良に守らせていた、そこで今川義元は野田の菅沼定村などに攻撃を命じ、定村が先鋒となって雨山に進んだ、奥平貞勝・貞能父子は雨山に救援に向かい待ち構えた、8月4日に合戦となり、定村は貞良の弓を受けて戦死(36歳)、その後定村の弟で山野吉田城主菅沼半五郎も戦死(25歳)するなど苦戦したが、それでも今川勢は激しく攻め立てたので、奥平貞勝父子は防ぎきれず今川義元に降伏した…

9月には東三河の田峯菅沼氏で内紛が起き、菅沼定継の弟・定氏が今川方に寝返ったことにより、今川方は菅沼氏の領土の多くをその勢力下に置くことに成功します。

そして、12月までに田峯の菅沼氏の反乱を鎮圧、

他にも、この年中には大給松平親乗・寺部鱸氏も今川方に帰順させ、西尾城を攻略して吉良氏を降伏させることに成功しています。

『武徳編年集成』によれば、この年の冬、織田信長は柴田勝家・荒川頼季等に命じて2000の兵で尾張・三河国境にある福谷城(福釜・浮貝とも)を攻撃させています。

福谷城は今川義元の命で酒井忠次・大久保党の大原左近右衛門・渡辺義綱・阿部忠政・杉浦鎮貞などが守っていました。

以下、記述を見てみますと、

…城兵は奮戦して戦う事数時間、大原左近右衛門は弓矢で敵の早川藤太を射倒し、大久保忠勝が城を出てその首をとろうとしたが、やってきた柴田勝家に腹を突かれてしまった、しかし阿部忠政が助けに来て柴田勝家を馬から射落とした、勝家の家来が助けに来て勝家を馬に乗せて逃げ去った、早川藤太の首は結局、筧正重・坂部又六の2人が手に入れた、織田方に不利な状況の中で、荒川頼季は「勝家が傷を負って退いたが士気を落としてはならない、我に従って戦うべし」と大声で叫んで兵士を激励し、福谷城を攻撃したが、城兵が良く防いだので織田勢は数十人の兵を失って敗退した…とあります。

織田信長はこの年の8月に稲生の戦いで織田達成(信勝)を破っていますので、その家臣の柴田勝家を動員できるようになっていたのでしょうか??(゜-゜)

また、同じ冬には、武田氏が伊那郡の下条氏を三河武節谷に今川の援軍として出陣させるなど、武田氏が今川の三河平定に協力している様子が見られます。

1552年に今川義元の娘が武田信玄の息子である武田義信に輿入れして以降、両家は同盟関係にありました。

ちなみに、天文23年(1554年)7月に今川義元の息子である今川氏真と北条氏康の娘が結婚、

12月に武田信玄の娘と北条氏康の息子である北条氏政が結婚したことによって、

いわゆる「甲相駿三国同盟」が完成していました。

これによって後顧の憂いが無くなった今川義元は尾張進攻を加速させることができたはずなのですが、

三河で多発した反乱のためにそれが遅れることになったわけです(;^_^A

翌年の弘治3年(1557年)4月、吉良氏・斯波氏の会見で織田・今川は一時的に和睦することになり、

これによって織田は岩倉織田家に、今川は三河平定に尽力できることになりました。

今川義元はこの年の10月までには西尾城を直轄地化したり、1556年~1557年にかけて再び三河で検地を実施したり、課税を強化したりするなど、三河に対する支配強化を図っていきましたが、

この動きに反発したのか、翌年の弘治4年(1558年)に再び三河の国衆たちが立ち上がることになります(◎_◎;)同じことの繰り返し…。

1月、足込の河合源三郎が今川氏に敵対、

2月、寺部城の鱸氏が再び反逆、

3月、河合源三郎が再び立ち上がった菅沼定継とともに設楽郡長峰の伊東貞守の屋敷を攻撃(伊東貞守はこれを撃退)、

この状況を見て和睦をしていたはずの織田信長も立ち上がり、

2月28日に笠寺砦を夜襲しましたが、これは守将の浅井政敏・飯尾連龍・葛山播磨守(備中守氏元の誤り…?)・三浦義就に撃退されています。短時間で終わった、討ち取った者も少なかった、と史料にはあるので、小手調べか陽動であったのかもしれません(しかし笠寺攻めの元史料は織田上総介信長なのに「織弾」と弾正忠呼びで書かれていたり、すでに死んでいる太原雪斎の花押が押されていたりして偽文書の可能性もある)。

信長派尾張国内の今川方の城、桜井松平家の松平家次の300の兵が守る品野城(科野城)を攻撃するために近くに山崎城を築いていましたが、

3月7日、信長は山崎城主・竹村長方に命じて品野城を攻撃させます。

しかし必死の抵抗に遭って苦戦、山崎城に退きますが、

そこを今川方が夜襲、山崎城は陥落して竹村長方が戦死(『松平記』によれば他にも礒田重平・戸崎平九郎・滝山伝三など50人が討ち死に)織田方は大敗北を喫してしまいました(◎_◎;)

この夜襲では船越五藤次という者が活躍したようで、

『因幡志』には、今川義元が「於尾州科野城合戦夜討謀略」をほめる永禄(2月28日に弘治から永禄に改元)元年(1558年)4月1日の書状が収められています。

一方で、寺部城の鱸氏との争いは2月から4月にわたって続いていました。

寺部城の戦いといえば、松平元康(のちの徳川家康)が初陣した戦いとして有名ですが(『三河物語』では大高城兵糧入れが初陣)

一次史料で寺部城の戦いに関するものを拾ってみると、

①2月26日、寺部城攻めで活躍した匂坂長能に寺部領の半分を与え、来年3月まで必ず城を守るように今川義元が支持した書状

②鱸日向守が寺部城を奪還した際、これと戦って傷を負い、子の重茂・家来の名倉を失った能見松平重吉に対し、今川義元が土地を与えた4月12日の書状

③4月24日に寺部城に向かった際に、寺部城を助けに来た広瀬城の兵と戦闘になっり、足立甚尉が最前線に突撃して鉄砲で撃たれて死んだものの、その兄の足立遠定はそれでも奮戦し、敵を敗北させたが、このことについて、今川義元が褒め称えた4月26日の書状

…この3つになるのですが、この中にはどこにも松平元康の名は出てこないのです(◎_◎;)

ですから、寺部城攻めに松平元康が出陣していたかどうかは証明できないのですが、

1582年に死亡した阿部定次(定吉の弟)が書いた『松平記』、

1560年に生まれ1639年に死んだ大久保忠教が書いた『三河物語』、

比較的早く作られたこの2つの書物には松平元康が寺部城攻めに参加したことが記されています。

『松平記』では永禄元年春に松平元康が初陣して優れた活躍を示し、寺部城下を放火して裸城にしたので今川義元から褒められて山中に土地を得た、…とあり、

(ちなみに『松平記』では寺部城の鈴木日向守は、もう降伏しているはずの吉良氏[しかも義昭]に味方して今川氏に敵対した…とある)

『三河物語』では、寺部城の外曲輪に放火した後、岡崎に戻り、さらに梅坪城を攻めて多数を討ち取った上に二・三の丸を焼き払って岡崎に戻り、続いて広瀬城・拳母城を攻撃、多数を討ち取り放火して岡崎に退いた、とあります。

同時代を生きた阿部定次などが記しているのですから寺部城攻めに松平元康が参加していたのはおそらく事実なのでしょう。

『三河物語』は『松平記』と比べて、松平元康の活躍を華々しく書いていますが、

『三河物語』は以前に述べたように松平清康の活躍をだいぶ誇張して書いている様子が見受けられるので、今回のことについても、初陣周辺の活躍をだいぶ盛ったのではないかという疑いがあり、額面通り信じることはできません(;^_^A

(それでも寺部城を陥落させたとは書いていないという、控え目なところも見せていますが💦)

1740年に作られた『武徳編年集成』では、寺部城の戦いは次のように書かれています。

…弘治4年(1558年)正月、今川義元は松平元康に「西三河は松平氏が代々治めて来た土地である、それが近年は織田に通じている。速やかに彼らを討伐したならば、土地を与えよう」と言った、松平元康は喜んでこれを受け入れた、2月、元康が岡崎に戻ると旧臣たちが集まってきた、5日(あるいは9日)、織田方についていた加茂郡寺部の鈴木日向守重教を討つために出陣した、石川清兼・酒井・本多達が先鋒となって、寺部城を急襲した。城兵も反撃してよく防戦したので、本田重次の弟の重玄が最初に敵と戦い、重次は3人を斬って自身も傷を負った、重玄は深入りしすぎて命を落とした、城兵はその驍勇ぶりに感じ入り、首を送り返した、その首には13か所も傷があり、見たものは驚き称賛した、松平重吉は苦戦し傷を負い、次男重茂(17歳)・家臣名倉惣助は討ち死にした、重吉と福釜の松平親俊は奮戦して敵を城内に追いやった、本丸まで迫る活躍を挙げて、元康は兵を収めた、得た首は100余りもあった、元康が兵を岡崎に返したことを聞いて、織田信長は西三河の城砦に援軍を送った、大久保忠勝・大久保忠世・内藤家長達は加茂郡広瀬の城主・三宅右衛門大夫を攻撃した、織田の援軍の津田兵庫助・神戸甚平は城外にうって出て合戦となった、大久保忠世は津田兵庫助を討ち取った、江原孫三郎は神戸甚平と戦っているときに、従者が神戸を槍で突いたので、その首を得ることができた、内藤信成は14歳であったが軍功を挙げた、こうして松平方が大勝し敵兵を追いつめた、竹谷松平家清(※正しくは清善)・深溝松平康定は用心して城から離れたところに軍を置いていたが、やはり寺部・設楽・設楽郡中島・尾張愛知郡丹下の四か所から援軍がやってきた、これを見た石川清兼が「殿は初陣して2つの勝利を得て、栄幸これより大きいものはありませんが、勝っても慎重であるべきです」と進言したので、兵を戻すことにした、その後、拳母・梅が坪・伊保等の加茂郡の敵城を攻めた、また、碧海郡横根村石が瀬にも兵を進め、叔父の水野信元とも戦った、内藤正成は弓術に長けており、多くの敵を射倒しただけでなく、十文字の槍を持って敵を討ち取った、渡辺守綱(17歳)も首を取った、元康は朱色の具足をつけて軍を指揮し、味方を勝利に導いた、水野信元は元康の強く猛々しい様子に感じ入って敵ながらすばらしいと言った、元康は凱旋して勝利を今川義元に報告した、義元は感じ入って三河加茂郡山中に300貫の土地を与えた、…

だいぶ詳しいですね(;^_^A

しかし典拠は何なんでしょうね?(゜-゜)

『武徳編年集成』は所々に古文書が収められるなど、しっかり史実を踏まえてあるように見えるのですが、例えば稲生の戦いについての記述に、「名塚」なのに「赤塚」に砦を築き佐久間盛重を置いた…とあったり、弘治3年(1557年)以後も生きていることが確認できる織田信勝について、弘治2年冬頃に暗殺されたとあったり、織田信安が弘治3年に病死したとあったりするなど、明らかな誤りも見受けられます。『三河物語』同様、そのまま信じるわけにはいかないでしょう。そもそも、寺部城の戦いについてここまで詳述できることが眉唾です(;^_^A

1844年に完成した、徳川氏公式歴史書である『徳川実紀』では、

…家康は寺部城攻めの際に、「敵この一城にかぎるべからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゆしき大事なるべし。先ず枝葉を伐ち取りて後本根を断つべし」(敵はこの城だけではなく、寺部城を攻めているうちに周辺の城から援軍がやって来てはまずい、まずは周辺の城を落としてから、寺部城を攻略すべきだ)と言って、寺部城には城下を放火しただけで引き上げ、その後に広瀬・拳母・伊保などの城を攻撃、さらに水野氏と石ヶ瀬で戦った…

と書いてあり、『武徳編年集成』に比べだいぶ穏当な表現になっています。

『徳川実紀』編集委員もさすがに『武徳編年集成』の内容はやりすぎだと感じていたのではないでしょうか(;^_^A

近年に出版された徳川家康についての概説書では寺部城の戦いについてどう述べられているでしょうか?

①笠谷和比古氏『徳川家康』(2017年)…寺部城の外郭を焼き払い、転進して織田方の広瀬・拳母などを攻撃、外郭を焼き払って寺部城を孤立化させた。

②藤井譲治氏『徳川家康』(2020年)…2月5日、寺部城の鈴木重辰を攻めた。

③柴裕之氏『青年家康』(2022年)…春(旧暦の1~3月)には寺部鱸氏攻めで初陣を遂げた。

三者三様ですね。それぞれ典拠としている史料が違います。

笠谷氏は『三河物語』、藤井氏は『武徳編年集成』(1740年に作られたもので、古文書を多く収める)、柴氏は『松平記』でしょう。

総括すると、寺部城の戦いについては、一番信頼できると思われる『松平記』の記述にしたがい、寺部城下に火を放って帰城した、と松平元康の活躍を限定的に見るのが良いのではないか、と思います(;^_^A

さて、話を戻すと、今川方は4月頃までには鱸氏の反抗もほぼ制圧することに成功したわけですが、

5月17日にはなんと美濃岩村衆が鱸氏を救援するためか、三河加茂郡名倉に進攻するという事件が起こります(◎_◎;)

今川方は船戸橋でこれと戦って撃退することに成功、後に6月25日に奥平松千代・奥平定勝が今川義元から活躍を賞されています。

弘治2年(1556年)に今川氏に反抗していた奥平貞勝が今川義元のためにしっかり働いていますね(◎_◎;)

この船戸橋合戦を最後に、三河での争いは見られなくなるので、永禄元年(1558年)5月頃には三河忩劇は終わったとみていいでしょう(゜-゜)

こうして、織田・今川の争いの場は、いよいよ尾張国内に移ることになるのです…!!💦

(『武徳編年集成』によれば、織田信長は永禄2年[1559年]3月1日に再び品野城を攻撃したが、城将の藤井松平信一が堅固に城を守ったために苦戦した、3日まで信長は昼夜を問わず攻め続け、180人余りの死傷者を出していたが、夜、風雨が激しくなったところで、信一は織田軍を夜襲、織田軍は54人死亡、117人の負傷者を出して敗退した。…とありますが、なんだか内容が第一次品野城攻めと似ていますね(;^_^A しかもやけに死傷者の記述が細かい…💦ほんとにあったんでしょうかね(;^_^A)


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