尾張織田氏の内紛を終わらせることに成功した織田信長。
しかし、尾張を統一できたわけではありませんでした。
なぜなら、当時の尾張は内乱の中で
斎藤氏・今川氏(松平氏)に奪われた土地も多くあったからです。
『信長公記』には、「万(よろず)御不如意千万なり」(当時は織田信長にとって不本意なことばかりだった)とあります。
そのような状況の中で織田氏を統一した織田信長は、
今川氏と対決することを決意することになっていくのです…!🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇山口教継・教吉父子の死
山口教継父子については、以前のマンガ(赤塚の戦い)でも触れましたね。
『信長公記』には「武篇者才覚の仁なり」(武勇に優れるだけでなく、知恵もある人であった)と書かれており、知勇兼備の将であったようです。
山口教継はその「才覚」を持って、鳴海城周辺の大高・沓掛城も調略して味方につけることに成功します。
その大高・沓掛の城には今川義元の兵が「多武々々(たぶたぶ)」(たっぷり)と入れられました。
山口教継は素晴らしい功績を挙げたわけですが、
その後の教継について、『信長公記』は次のように記します。
「山口左馬助・子息九郎二郎父子駿州へ呼び寄せ、忠節の褒美はなくして、情け無く親子共に腹をきらせ候」(今川氏のために尽くしたのにほうびも与えずに無情にも問答無用で切腹させた)
…褒美をもらえると期待して駿府に行ったところ、逆に切腹を命じられた、というのです😨
今川義元は功績を挙げたものに対し、なぜこのような仕打ちをしたのでしょうか??
理由を知りたいところですが、
『信長公記』にはなんと今川義元が切腹を命じた理由は書かれていません(◎_◎;)
マンガの中でも触れましたが、遠山信春の『総見記』(1685年頃に成立)には、
ある者が山口父子は織田信長に寝返ろうとしていると告げ口し、
今川義元はそれを信じて切腹を命じた、とあります。
山澄英龍(1625~1703年)の『桶狭間合戦記』(17世紀後半成立)には、讒言をしたのは浅井道忠であったと書かれています。
しかし浅井道忠は当時、織田方の水野信元の家来であったのでこれは誤りでしょう(;^_^A
山口父子の死にはもう一つ謎があり、
実は山口父子が死んだ年は諸説あってよくわかっていません(◎_◎;)
横山住雄氏は『織田信長の尾張時代』で、天文21年(1552年)に起きた赤塚の戦いの後まもなく切腹させられたとし、
『愛知県史』はその死を弘治年間(1555~1558年)頃とし、
橋場日月氏は『新説 桶狭間合戦』で調略で大高・沓掛城を落としたのは永禄2年(1559年)としています(死んだ年は載せていないのですが、おそらくこの頃)。
このように現代の研究者でも頭を抱えている状態なのですが、
一つ考える手掛かりになりそうなのが、『松平記』の記述です。
『松平記』には、「弘治三年の春より尾州の侍皆駿府へ心を寄、御手を引申候処知多郡ハ過半駿河へ降参す、依て中村城、鳴海城、科野城皆駿河へ籠る」(弘治3年[1557年]の春以後、知多郡の多くは駿河に味方した、そのため桜中村城・鳴海城・品野城は今川方になった)とあります。
もっと前から鳴海城や品野城は今川方なので、いまいち信頼性に欠けるのですが、
これを見ると、知多郡にある大高城が今川方に降ったのは弘治3年(1557年)以後なのかな、と推量できます。
(大高城のそばに春江院という寺院がありますが、これは水野大膳が父・和泉守を弔うために1556年に建てた寺であるそうです。この和泉守・大膳父子が誰なのか、色々と説があるのですが、1556年に水野一族で水野近守が亡くなっているので、和泉守はおそらく近守であると考えられます。つまり1556年までは大高城は織田方であったことがわかります)
…となると、『松平記』を信じれば山口教継が死んだのは1557~1559年に絞ることができるでしょうか(゜-゜)
(橋場日月氏の『新説 桶狭間合戦』では、出典は不明ですが永禄元年[1558年]4月下旬に今川義元は松平勢に大高城を攻撃させた、とあります。これが確かならば、山口教継の死亡時期は1558年5月~1559年まで絞られます)
一方で、山口教継は今川義元に殺されたのではなく、赤塚の戦いですでに戦死していた、という説もあります(◎_◎;)
尾畑太三氏は『信長公記巻首と桶狭間の戦い』で、赤塚の戦いを天文19年(1550年)に行われたものとし、さらにこの戦いで父子が戦死しているとします。
つまり織田信秀の死を1549年と扱っているわけですね(゜-゜)
教継が1550年か1552年に戦死したとして、それではその後今川義元に殺された人物は誰なのか?
教継の戦死後、鳴海城を治めたのは一族(という説が濃厚)の戸部新左衛門政直なのではないか?という説があります。
この戸田政直という人物について、
富部神社にある看板には、勇猛な人物で、自分の前を横切る者は無礼者と切り捨てていたが、跳んで逃げるカエルは殺せなかったという言い伝えから、地元では「無事にカエル」と験を担いで「戸部蛙」という玩具が作られるようになった…と記します。
物騒な人だったんですね(;^_^A
「忍たま乱太郎」に出てくる剣術の先生、戸部新左ヱ門はこの戸部政直がモデルであるようです(『落第忍者乱太郎 1 天の巻』より。子孫で漫画家の戸部けいこ氏に使ってほしいと頼まれたからだとか)。
戸部新左ヱ門は動くものを見ると刀を振り回しますが、それは先に記した逸話が元になっているのでしょう。
また、『松平記』は次のように記します。
…永禄元年(1558年)、織田武蔵守(信成。もと信勝。信長の弟)は今川義元に内通した。武蔵守は以前小姓であった笠寺の戸部新之丞にも口外しないようにと起請文を書かせたうえで、このことを伝えた。2・3日後、織田武蔵守は突然戸部新之丞を成敗しようとしたので、新之丞は慌てて逃げ、武蔵守は裸足のまま追いかけたが、新之丞は振り切って寺に逃げ込んだ、2・3日後、新之丞は駿河に行き今川義元にこのことをうったえたが、秘密にしていたのに内通のことが織田信長に伝わり、信長は武蔵守を呼んで殺害した、これは新之丞が織田信長に漏らしたからではないか、と噂する者があり、それを信じた今川義元は新之丞を成敗した…
なんだか話が分かりづらいですが💦、
突然武蔵守が新之丞を襲ったのは、内通のことが信長に知られており、新之丞が漏らしたのではないかと疑ったからでしょうか?
そうだとすると、殺される可能性があるのに信長の呼び出しに素直に応じるのがよく分かりませんが…(;^_^A
(また許してもらえると甘い気持ちを持っていた?)
織田信成は美濃の斎藤高政(義龍)と通じていたことは一次史料で確実なのですが、
『松平記』を信じれば今川義元とも通じていたことになりますね(◎_◎;)
『信長公記』によれば、内通を信長に伝えたのは柴田勝家なので、新之丞は濡れ衣を着せられたわけですね💦
高政とは手を切って今川義元に乗り換えた…ということなんでしょうか??
山中長俊(1547~1607年)が書いたとされる『中古日本治乱記』(16世紀末期に執筆。実際は1677年頃という)にはまた違う話が載せられており、
織田武蔵守信行の家来であった戸部新之丞は、弘治3年(1557年)1月5日、信行に召し出されて頼みごとがあると言われ、これまで恩を受けてきた身、何事でも従いますと答えると、信行は喜び、今から話すことを漏らさぬと起請せよ、と言ったので、新之丞は七枚の起請文を書いた、その後信行は「協力して信長を退治しましょう、その後、信長の領地をことごとく信行の物にして下されれば、今川義元の家来として忠節を尽くしましょう」と今川義元に伝えに行くように新之丞に命令した、これを聞いた新之丞はこのような不義の企みはうまくいかないだろうと考えたもののかしこまりましたと答えた、(しかし出発しなかったので?)1・2日後、新之丞は召し出されて再び無理な要求をされたが、新之丞は乗り気でないような返答をしたので、信行は怒って刀を抜き、逃げる新之丞を裸足で10間(18m)ほど追いかけた、新之丞は何とか禅寺に逃げ込み、その後は牢人して駿河に行き、今川義元に仕えることになった、義元は新之丞の名前を新左衛門と改め、笠寺城に置いて信長に対する抑えとした、その後柴田勝家の寝返りで信行は殺されたが、尾張の武士は信行の説得を受けて今川義元に通じ、知多郡などは半分以上が降参していた、今川義元は科野(品野)城には徳川家康の一族・松平信一を大将として300余りを置き、笠寺城には戸部新左衛門・浅井政豊の400、鳴海城には葛山勝嘉・飯尾顕茲・三浦義就を置いた、これらの城は尾張国内の城であったので、信長は度々これと戦った、戸部新左衛門は今川義元に仕えた後、度々尾張との戦いで活躍し今川義元の信頼を得ていたが、旧主の信行が殺されたのを知って、この仇を討とうと考えていた、これに対して信長も新左衛門を何とかして除こうと考えていた、新左衛門は非常に字がうまく、尾張の武士はだいたい新左衛門の文字を手本にして字を習っているほどであった、そこで信長は右筆で新左衛門の一番弟子であり、10人中8・9人はその字が新左衛門の物と間違う薗田源二郎に、国中の新左衛門の手本を集めてその筆跡を完璧にマスターさせた上で、「私の内通によって無事信行を誅伐できて何よりです、信行の持っていた土地を私に下されれば、城に火を放ち、その中で今川氏の兵を討ち取って城を奪い取りましょう」という内容の手紙を作らせ、森可成を商人に化けさせて駿河に向かわせ(可成を知っているものがいる可能性も考えて、わざと顔に漆を塗ってかぶれさせて人相を変えたという)、朝比奈泰能の所に行って、末盛の宿で居合わせた駿河の商人が食あたりで死んだ際に手紙を預かり、信長に見せよと言われたが、中身を見れば謀反の内容の手紙だったので、朝比奈様に手紙を持参した、と伝え、驚いた泰能は慌てて今川義元にこれを見たところ、今川義元は話すことがあると新左衛門を呼び寄せて殺害した、新左衛門の突然の誅殺を聞いて、将兵は互いに疑いあうようになった…とあります。
また、山澄英龍(1625~1703年)の『桶狭間合戦記』(17世紀後半成立)には、同様の話が載っていますが、
それに加えて、戸部「父子」を切腹させた、これは永禄元年(1558年)のことだ、とあります。
「織田信長に寝返ろうとしていると告げ口があって父子ともに殺された」というのは、
山口教継・戸部政直が共通している点であり、そのため、二人は同一人物では?という説もあるようです。
先に述べた富部神社の看板にも、戸部新左衛門は1549年に織田信広と松平竹千代(徳川家康)の人質交換の仲介をした、とあるので、この説はさらに補強されます。
しかし、二人を同一人物とするには強引すぎるきらいがあるので、
私は、近い位置の城にいた山口教継と戸部政直のやったことが混同されてしまったのではないか?と考えます。
自分的に話を総合すると、
①赤塚の戦いで山口父子は戦死?その後鳴海城には今川氏の武将が入る、そして笠寺城を手に入れようと考えた織田信長が戸部政直を謀殺した
②笠寺城を手に入れようとした織田信長が戸部政直を謀殺した、その一族である山口教継に対しても今川義元の不安が高まり、呼び出して殺した
…の2通りの説が考えられるのではないかと。
自分としては、②の説が自然ではないかな、と思います。
…となると、1558年に戸部政直が殺害、その後まもなくして山口教継が切腹…という流れになるのではないでしょうか。
研究者の方々の研究を待ちたいと思います(;^_^A アセアセ・・・
まぁ、今川義元としては、対織田信長の前線である、笠寺城や鳴海城に、
織田からの寝返り者である山口教継や戸部政直よりも、譜代の家臣を入れたかった、というのもあるでしょう。
実際、今川義元は、
①1553年に、2年前に織田から寝返った岩崎城主・丹羽氏識から城を取り上げ、駿河の福島氏に与えている
②1552年に寝返った鳴海城主・山口教継はその後桜中村城に移り、鳴海城には駿河から来た岡部元信らが入っている
③『寛政譜』によれば、寝返った沓掛城主・近藤景春はその後、高圃城に移されている
…というように、重要拠点は今川の譜代の家臣に任せるという行動を見せています。
山口教継や戸部政直が死んだことによって、今川氏の尾張進出はより強化されましたが、尾張の武将は今川氏に寝返るのを躊躇するようになったことでしょう…寝返っても殺されたり自分の城を追い出されるのですから💦(だからか、桶狭間の時に積極的に寝返った尾張の武将、ほとんどいないんですよね…)。
桶狭間の前哨戦は、信長に軍配が上がったといえるかもしれませんね。
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