天文21年(1552年3月3日)、織田信秀が亡くなり、
ついに織田信長が跡を継いだ(おそらく弟の信勝と家督を分割相続)のですが、
前途は多難、さっそく悪い事件が起きてしまいます😓
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇赤塚の戦い
天文21年(1552年)4月17日、織田信秀が目をかけていた鳴海城主、
山口教継が織田信秀が死んだとたんに今川氏に裏切ります😱
(『信長公記』では天文22年、信長[数え年]19歳の年と書かれているが誤り。そもそも19歳の年ならば天文21年である)
山口教継は鳴海城に息子、20歳の教吉(天理本では23歳)を残し、
自らは笠寺に進んで砦を築き(星崎城)、ここに今川勢(葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏)を引き入れます。
そして自身はさらに進んで中村に築いた砦(桜中村砦)に立てこもります。
これを知った信長はその日のうちに800の兵を率いて出陣、
山口教継が立てこもる中村を無視して中根村を抜けて鳴海城方面に向かい、三の山に布陣します。
これに対し鳴海城を任せられている息子の教吉は1500の兵を率いてうって出て、
三の山の東・鳴海城からは北にある赤塚に移ります。
その先頭に立つのは清水又十郎・柘植宗十郎・中村与八郎・萩原助十郎・成田弥六・成田助四郎・芝山甚太郎・中嶋又二郎・祖父江久介・横江孫八・荒川又蔵。
三の山でこの動きを見ていた織田信長は即座に赤塚に向かい、ここで戦闘になります🔥
織田信長軍の先陣は荒川与十郎・荒川喜右衛門・蜂屋般若介・長谷川橋介・内藤勝介・青山藤六・戸田宗二郎・賀藤助丞。
敵にも味方にも「荒川(『信長公記』では「あら川」)がいますが、同じ一族でしょうか(゜-゜)
ここのメンバーは家老の内藤勝介以外は新登場の人物ばかりですね。
しかしこの後出てくる人物は蜂屋般若介・長谷川橋介のみです(;^_^A
先陣の中の荒川与十郎はなかなかの人物であったようで、
腰に差していた大刀は長さ1.8mに達し、金銀で飾り付けがされていたといいます。
しかしこの与十郎は、戦いの初めに両軍10mほど離れた場所から弓矢を撃ち合った際に、眉間付近に弓矢が直撃して落馬、おそらく死亡してしまいます。
(天理本では敵陣に向かう途中で戦死している。あとの内容的にはこちらが正しいような気がする)
豪華な大刀なども持っていたからか、敵兵は落馬した与十郎のもとにかけよってきて、その脛や大刀の柄を持って自分の陣のほうへ与十郎を引きずっていこうとする。
そうはさせまいと信長側の兵も与十郎の頭と胴体を持って引っ張り返し(;^_^A
(天理本では胴体と刀を引っ張っている)
最終的に「のし付(刀)・頸(頭)・筒躰(胴体)共に引き勝つ」と『信長公記』に書かれています。
戦いは午前10時から2時間ほど続き、
「みだれあいて、扣(たた)き合いては退き、又まけじおとらじとかかっては扣き合い扣き合い」という乱戦となったため、お互いに相手の首を取る暇もなかったようです。
山口側は名のある者では萩原助十郎、中嶋又二郎、祖父江久介、横江孫八、水越助十郎が戦死(水越助十郎以外は先に出て来た名前。天理本では死んだのは萩原助十郎・中嶋又蔵・水越助十郎の三人のみ)。
信長側も30人が戦死した。
信長方は荒川又蔵を生け捕りましたが、こちらも赤川平七を生け捕られてしまいます。
その後しばらく、8mほど離れて槍の扣合いになりましたが、
この戦いでは山口教吉は上槍(相手の槍を押さえつけて圧倒すること?)だったといいます。
馬を降りて戦ったので馬はみんな相手側に駆け込んでしまったが、
戦いの後は少しの間違いもなく返還しあい、
捕虜も交換し合ったというから、牧歌的というか、
お互いに知り合いだから厳しくできないというか…💦
(『信長公記』には互いに見知った関係ではあったが手を抜くことはなかったと書かれていますが)
こうして、家督を継いだ織田信長最初の戦いは引き分けに終わったのでした。
しかし山口教継が裏切ったので、尾張内部にさらに今川氏勢力の進出を許す状態となったうえに、
今川氏に寝返った山口教継と戦ったことによって、
今川氏と結んでいた和睦関係に亀裂が入ってしまい、
(山口教継を寝返らせた今川がもちろん悪いのですが)
織田信長をめぐる状況は織田信秀死後すぐに悪化することになってしまいました。
どうする、織田信長!!😥
〇まぎらわしすぎる地名
今回の話では「中村」・「三の山」・「赤塚」という地名が出てくるのですが、
どれもまぎらわしい地名です(;^_^A
なぜかというと、
「中村」は名古屋市に「中村区」がありますが、
今回の話に出てくる「中村」は名古屋市南区にある中村のほうであり、
「三の山」は愛知県知多郡に「三ノ山」という地名がありますが、
今回の話に出てくる「三の山」は名古屋市緑区にある「三王山(さんのうやま)」のことであり、
「赤塚」は名古屋市東区赤塚町のことではなく、
名古屋市緑区にある赤塚のことなのです。
なんてまぎらわしいんだ!!(;^_^A アセアセ・・・
赤塚の戦いに関係する場所。 なお、当時は地図の左半分のほとんどは海であった。 |
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