岩倉織田家を滅ぼした織田信長は、
尾張の統一を目指すために、尾張国内にある今川方の城の攻略をはかります。
そこで対象としたのは、
知多郡の勢力(水野氏・佐治氏など)と織田信長を分断している、
鳴海城・大高城でした🔥
※マンガの後に補足・解説があります♪
〇鳴海城・大高城包囲と今川義元
鳴海城について、『信長公記』は以下のように記しています。
「南は黒末の川とて入海、塩の差引き城下迄これあり。東へ谷合打ち続き、西又深田なり。此より東へは山つづきなり。」(南側には黒末川[天白川・扇川]があり、満潮時には城下まで海水が及ぶ。東側は谷があり、西側は深田[泥の深い田]が広がる)と。
この文の中に色々意味不明な箇所があります(;^_^A
①西「又」深田…なぜ西「も」深田なのか?
②東は谷、西は深田と言った後に、なぜ再び東は山続き…と言っているのか?
この謎は、「天理本」を見ると解けました。
「天理本」では、「東へ谷合」の後、「足入の深田也」(足がすっぽり入る程の深い田)と書かれており、谷間には深田があった、西側「も」深田があった…ということだと理解することができます(;^_^A
そしてもう一つの謎ですが、「天理本」では「此より東」ではなく、「北より東」と書いてあるのですね。つまり北東部は山続きだと。地形を見ると、確かにそうなっています(゜-゜)
こうしてみると、鳴海城は地形的にかなりの堅城だったようです。
だからこそ織田信長は無理攻めはせず、周囲に砦を築き、孤立化させる策を取ります。
信長は鳴海城の北部に丹下砦を築き(ここに丹下という古い屋敷があり、それを砦に改造したもの)、
水野忠光・山口守孝・柘植玄番頭・真木与十郎・真木宗十郎・伴十左衛門尉を配置します(「天理本」では水野・山口・柘植のみ)。
『中古日本治乱記』によれば343の兵がいたそうです(やけに細かい)。
水野忠光は小河(緒川)城の水野信元のいとこで、知多半島南部の常滑城周辺を治めていた人物です。また、織田信長は、鳴海城と同じ丘陵の東側に善照寺砦(善照寺跡を砦に改造したもの)を作ります。位置はとても近いので、かなり大胆ですね。
ここには佐久間信盛・信直兄弟と450の兵(『中古日本治乱記』)を配置します。
そして、鳴海城の南東方向には中島砦(中島村という小さな村を砦に改造したもの。すごい…💦)を作り、梶川高秀に守らせ、250の兵を配置(『中古日本治乱記』)します。
この梶川高秀について、ウィキペディアさんでは、
水野信元の父、水野忠政の配下であったと書かれていますが、
水野忠政は1543年に死んでおり、梶川高秀は尾張北部の武士で、
水野忠政が生きているうちに配下であったとは考えづらいです(-_-;)
梶川高秀は『信長公記』で後に1568年の摂津(大阪北部・兵庫県南東部)池田城攻めの箇所で、「水野金吾内」(水野金吾所属の武士)とでてきます。
この「水野金吾」とは、以前のマンガで紹介したように、
水野信元の弟の水野忠分のことであり、水野忠政のことではありません。
水野忠分は桶狭間戦後織田信長に従って近畿地方で歴戦していますので、
その時に梶川高秀が配下につけられたと考えるべきでしょう(;^_^A
話を元に戻して、信長はさらに黒末川(天白川・扇川)の南側に、
鳴海城ー大高城間を分断する砦を築きました。
1つは丸根山に築いた丸根砦で、佐久間盛重(稲生の戦いなどで活躍)と150の兵(『中古日本治乱記』)を配置。
もう1つは鷲津山に築いた鷲津砦で、織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子と520の兵(『中古日本治乱記』)を配置。
織田秀敏は織田信長の祖父、信定の兄弟であり、織田氏の長老的存在でした。
飯尾定宗も織田氏の一族の者ですから、
織田信長は鳴海城ー大高城の連絡ルート上にある鷲津砦を最も重要視していたのでしょう。置かれた兵の数も『中古日本治乱記』によれば砦の中で最大です。
また、『信長公記』には載っていませんが、織田信長は大高城の南にも3つ砦(正光寺砦・向山砦・氷上山砦)を築いていたようです(向山砦は大高城の一部であったとする説もある)。
たしかに、そうしないと大高城は包囲されません😐
包囲の態勢を整えた織田信長ですが、
苦しい状況となった鳴海城・大高城を見捨てるわけにはいかず、
今川義元はなんと自ら出陣することに決定します。
今川義元はこれまでは大将として出陣した形跡がほとんどありません。
しかも、1558年には息子の氏真に家督を譲り隠居までしていました。
なぜ突然アクティブになったのかはわかりませんが、
それだけ事が重大だったということでしょう。
このまま見過ごしていると、尾張にある今川氏の領土はすべて奪われかねない状況でした。
『武家事紀』には、「今川義元、駿・遠・参を討従て、尾州知多郡を打ち取んとす。此比織田信長武威を尾州に振いて、尾州漸く手裏に属しければ、義元自兵を率し、織田信長を退治せしむべしとて…」(今川義元は駿河・遠江・三河の兵を率いて、尾張の知多郡を奪おうとした、当時織田信長の勢いは尾張国中に轟いていて、尾張は織田信長の手中に収められつつあったので、今川義元は自ら兵を率いて織田信長を退治しようとして、出陣を決意した)、と書いてあります。
永禄2年(1559年)3月20日には、今川義元は次の内容の定書を領内に布告しています。
「一、兵粮并びに馬飼料着陳の日より下行を為すを守る事
(兵糧・馬の飼料は着陣した日より支給する)
一、出勢の日次に相違無く出立せしめ、奉行次第其の旨を守るべき事
(出陣の日にちを守って出発し、奉行の命令を守る事)
一、喧𠵅口論仕り立ち候わば、双方其の罪遁れ間敷事
(喧嘩・口論が起きた時には、両方の罪とする)
一、追立使い、押し買い、狼藉有る間敷事
(立ち退きを迫ったり、無理やり安く買おうとしたり、乱暴なふるまいをしたりしてはならない)
一、奉公人、先主へ暇を乞わず主取り仕り候わば、見つけ次第当主人へ相届け、其の上を以て急度申し付くべく、又届け之有りて奉公人を逃れ候わば、当主人越度為るべき事
(前の主人に無断で別の者に仕えた奉公人がいたら、見つけ次第今の主人にその旨を知らせ、厳しく言い渡す。知らせがあったのに奉公人を逃したならば、今の主人の過失とする)
一、城を囲む時、兼て相定むる攻め手の外一切停止の事
(城を囲んだ時、定められた攻める方法以外は禁止する)
一、合戦出立・先陳・後陳の儀、奉行これを專ら下知すべき事
(戦いの際の先陣・後陣については、奉行だけが決めることができる)」
8月には大井掃部丞に対し、来年購入予定分の滑皮・薫皮(どちらも武具に利用されることが多い)を急用のため買い集めるようにも命令しており、
戦いの準備を着々と進めている様子が見て取れます。
決戦の時は迫っていました…!💦
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