以前のマンガで紹介したように、織田信長は斎藤道三と会見をしましたが、
その後、斎藤道三は織田信長の実力を認めて援助を惜しまなくなります。
お互いの信頼関係がよく分かる出来事が、今回の村木砦の戦いです🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇村木砦の戦い
織田信長が家督を継いで今川氏に対する敵対姿勢を明らかにすると、
今川義元は再び尾張方面に対する攻勢を強め、
まず尾張との国境付近にある三河の鴫原城(重原城)の山岡伝五郎を攻めてこれを滅ぼして乗っ取ると、
(重原城を攻略した時期について、重原城跡の案内板には出典が不明であるが「天文23年寅1月[1554]重原城は今川義元の軍勢の攻撃を受けて落城した。」とある。一方で、天文19年[1550年]に今川義元は伊勢の神職に重原の土地を寄進しいることを示す書状がある。翌年に刈谷城を水野氏に返還した際に、重原城も共に返還したのかもしれないが。)
次の目標を水野信元(?~1576年)が守る緒川城(小河城)に決め、緒川城の近くの村木に砦(原文は「取手」)を建設します。
(村木砦を建設した時期について、1648年に作られた『群樹捕手城責写』は「石川新左衛門下知を蒙り、駿遠三番匠数多寄、府中に於て作事あり。程なく造作出来、駿州より回船にて運送す。渡海間なく、天文22年癸丑6月朔日、村木の浜に着眼す」とあり、これが正しければ、村木砦の戦いが起こる半年前の天文22年[1553年]6月にはすでに村木砦づくりが始められていたようである(◎_◎;)しかも砦づくりに使われた材料は駿府で作られ、それを駿府から船で村木まで運んだ…というからスケールが大きい話である💦これが正しければ、水野氏の刈谷城・緒川城の間を突破して村木に到達したことになる(◎_◎;)これが正しければ、織田信長は半年間も水野氏を救援するのを放置していたことになるが…?)
水野信元は知多半島周辺に力を持った豪族で、
妹の於大(1528~1602)は松平広忠と結婚し、あの徳川家康を産んでいます😬
つまり徳川家康の叔父ということになりますね。
水野信元は1543年に父の後を継ぐと、次々と周辺の豪族を攻め滅ぼして数年で
知多半島をほとんど統一してしまうほど有能な人物でした。
しかし次第に今川氏の圧迫を受け、天文18年(1549年)には刈谷城を攻略されてしまいます💦
刈谷城は織田と今川の和睦により、その後返還されますが、
苦しい状況にあることに変わりはありませんでした。
一説には刈谷城陥落の際に今川氏に従属したが、天文23年(1554年)に離反して再び織田についたので、
これを許さない今川義元の攻撃を受けて重原城を攻略された、とも言われています。
今川軍が村木砦を築くと、この勢いに恐れおののいた近くの寺本城主・花井氏も今川氏に降伏してしまいました。
ただでさえ織田と陸路でつながるルートを山口教継によって分断されてしまっていたのに、
水野氏をめぐる状況は悪化の一途をたどっていました(◎_◎;)
これに対し、織田信長は緒川城を助けに行こうとしますが、
相手は今川氏、少しでも多くの兵が必要です。
しかし、全軍をもって救援に向かえば、空っぽになった那古野城が清須織田家に攻撃されてしまう可能性がある。
そこで織田信長は、斎藤道三に留守を守ってもらうという思い切った作戦に出ます(◎_◎;)
よほどの信頼がないと、他国の人間に城を守ってもらうなんてことできません💦
斎藤道三はこの要請に快く応え、
天文23年(1554年)1月18日、援軍を派遣、1月20日、安藤守就を大将に、田宮・甲山・安斎・熊沢・物取新五など1000人の兵を率いて尾張に到着しました。
織田信長は那古野城の北東にある志賀・田幡に陣を作り、
ここを安藤守就に守ってもらうこととし、準備が整った信長は翌日、救援に向かおうとしたが、ここで思わぬ横やりが入ります💦
筆頭家老の林秀貞とその弟・林美作守がこの作戦に不満を持ち、勝手に配下(与力)である前田長定のいる荒子城に引きこもってしまったのです(◎_◎;)
他の家老たちは動揺し、信長に「いかが御座候はん」(いかがいたしましょうか)と言ったが、織田信長は「左候共苦しからず」(放っておいてかまわない)とこれを無視して、「ものかは」という名前の馬に乗り、
叔父の織田信光(守山城主)と共に救援に向かい、この日はまず熱田に泊まります。
陸路だと鳴海城・大高城が邪魔して通れないので、
織田信長は海路をとって緒川城に行こうとしますが、
1月22日はあいにくの大風で海は荒れており、船が出せるような天候ではありませんでした。
(※尾張地方では冬に北西から「伊吹おろし」と呼ばれる強風が吹くのだという)
しかし時は一刻を争う状況である。
織田信長は「昔の渡辺・福嶋にて逆櫓争う時の風も是程こそ候らめ。是非に御渡海あるべきの間、舟を出し候え」(源平の戦いの時に源義経が摂津[大阪府北部・兵庫県南西部]の渡辺から讃岐[香川県]の屋島に出港する際に、船頭たちは暴風であったため止めたが、義経は船頭たちを脅して無理やり出港させたことがあったが、あの時の風もこれくらいだったのだろう。わしは何があっても今日向かわなければならぬ[一日でも遅れてはならない]。船を出せ!)と言って、止める船頭たちを強引に出港させます(◎_◎;)
すると「伊吹おろし」による追い風効果もあっていつもの半分の時間で対岸に到着することに成功します(なんという強運😱)。
その日は上陸地で野営し、翌日(1月23日)に織田信長は緒川城に行って水野信元と対面しました。
(『信長公記』には野営とあるが、webサイト『史跡夜話』には出典は不明であるものの、『知多半島西岸加家の浜に上陸した。ここで荒尾善次の木田城に入城して野陣』と書かれている。入城したのに野陣[外に陣を構えること]とはよく意味が解らないですが、城に入りきらなかったということなんでしょうか(;^_^A)
水野信元は驚きつつも喜んだでしょう。
到着が遅れていたら、織田は頼りにならない、今川に従属する方がいい、と考えるようになっていたかもしれません(-_-;)
翌1月24日に織田信長は村木砦に向けて出撃します。
村木砦は衣浦(きぬうら)湾岸の砂丘上に作られた砦で、
北・東は衣浦湾に守られ、南には向こう側がはっきり見えないほど大きな空堀が築かれている堅固な砦でした。
北東の大手(表門)は海上から水野忠分(水野信元の弟。この戦いに参加したのは水野信元とする説もある)が、
西の搦手(裏門)は織田信光が、
一番難しい南側は織田信長が受け持つこととし、
夜明けとともに午前8時ごろ、村木砦を急襲します🔥
油断を突かれた今川軍は搦手からの侵入を許し、
六鹿椎左衛門が一番乗りの功績を挙げます。
一方、南側を攻める織田信長は、空堀の端にいて
「鉄炮にて狭間3つ御請取り」(鉄砲で敵の狭間[弓矢を打つために壁に穴があけられているところ]3つを引き受ける)
と言い、鉄砲を取り換え取り換え次々と狭間を撃たせます。
(※城や砦の攻撃に鉄砲を使ったのは日本で初めてといわれています😯)
家来たちは我も我もと塀に取り付き、突き落とされては這い上がり、
死傷者は数え切れないほどでした。
そして、
「城中の者働く事比類なき働きなり。然りといえども、透きをあらせず攻めさせられ、城内も手負い・死人、次第次第に無人になり、様々降参申し候」(村木砦の者たち抵抗の様子は敵ながらすばらしいものであったが、間断なく攻められ続けた結果、村木砦を守る兵は次第に少なくなったので、ついに降参を申し出た)
…午前8時から戦い続けて午後5時についに村木砦は降伏しました。
中の者は皆殺しにする予定だったのですが(◎_◎;)、
こちらにも多数の死傷者が出ているし、
日も暮れかかっていたので、織田信長は降伏を許すことにしました。
織田信長は本陣に戻った後、「それもそれもと御諚なされ感涙を流させられ候」
という様子であった、と『信長公記』に書かれているのですが、
この訳し方は、
①「あの者も、この者も死んでしまったのか…と言って、深く感じ入って涙を流した」
②「活躍した兵一人一人の手を取って、そなたも、そちらも、よくがんばってくれた…と言って、深く感じ入って涙を流した」
…という2パターンが存在するのですが、どちらに訳すべきなんでしょうね(;^_^A
その前文に「信長の小姓衆の死傷者は目も当てられない有様であった」とあり、
一方で次に「午前8時から午後5時まで戦い続けて思い通りの決着となった」
とも書いてあるので、涙は悲しくて泣いたのかうれしくて泣いたのかはわかりません💦
感情を素直に表す信長ですから、悲しくて泣いていてほしいと思いますが、
現地には「飯喰場」(いくいば)という地名があり、これは戦いに勝った後、祝いの酒盛りをしたためについた地名であるそうで、
泣いていたらとても祝宴なんてできなかったんじゃないかな…とも思います(-_-;)
ちなみに現地には「取手」(とりで)という地名も残っています。
織田信長は翌日、裏切った寺本城を攻めて城下に火を放ち、那古野城に戻ります。
1月26日、信長は安藤守就に礼を述べ、翌日、美濃勢は帰国しました。
安藤守就は帰国して、斎藤道三に、織田信長から聞いた嵐の中渡海した話・村木砦に果敢に攻めよせた話をしたのですが、
それを聞いた斎藤道三は「すさまじき男、隣には嫌なる人にて候よ」(恐ろしい男だ、隣にはいてほしくない男だ)と語ったといいます(◎_◎;)
織田信長のスピード感あふれる戦い方が如実に表れた戦いとなりました。
村木砦の戦い関連地図 |
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