今回は有名な歴史の一場面、「聖徳寺の会見」です!😆
※マンガの後に補足・解説を載せています。
天文22年(1553年)4月下旬、突然、斎藤道三から
「聖徳寺に行きますので織田上総介殿もおいでください。対面したい」という
連絡が来ます。
聖徳寺とは、鎌倉時代にできた浄土真宗のお寺で、『信長公記』では「正徳寺」と書かれ、現在は名古屋市天白区にありますが、
当時は美濃(岐阜県南部)と尾張(愛知県西部)の、
本当に境目にあるお寺でした。
そんな位置関係にあるので会見場所に選ばれたのでしょう、
聖徳寺は立派な寺で、浄土真宗の本拠地、大阪の石山本願寺から住職を派遣してもらい、
尾張・美濃の守護から無税の許可状をもらっていました😕
そんな聖徳寺を中心にして成立した寺内町が「富田」でした。
富田は豊かな町であったようで、『信長公記』には家が700軒ほどもある、「富貴の所」だと書かれています。
さて、その聖徳寺で信長と道三が面会することになったのですが、
『信長公記』には、斎藤道三が会いたいという連絡をよこした理由が書かれています。
すなわち、
「此比上総介を偏執候て、聟殿は大だわけにて候と、道三前にて口々に申候キ、さ様に人人申候時は、たわけにてはなく候よと山城連々申候キ、見参候て善悪を見候はんためと聞え候」(家来たちが偏った考えで、口々に『婿殿[織田信長]は大だわけ[大馬鹿者]ですな』と言うので、そのたびに『馬鹿者ではない』と答えていたが、直に対面して、織田信長の善悪を見極めようと考えた」。
斎藤道三は早めに聖徳寺に到着し、ドッキリ作戦を考えます(『信長公記』には「仰天させ候て笑わせ候わん」[ビックリさせて笑ってやろうとした]とある)。
どのような作戦かというと、年を取った家来(譜代の家来のことか?)たち7・800人に肩衣・袴の立派な服を着させて聖徳寺の本堂の前にずらーっと並べて座らせ、その前を織田信長に通らせるというもの。
『信長公記』には、「実目になき人の由取沙汰候間」とあり、
まじめではないと世間で噂されていたので、正装をした人々が並ぶ前を通らせることで、信長の格好の場違いさを笑ってやろうとしたのでしょう。
意地の悪さを感じますね…恥をかかされたと信長が怒って、同盟にヒビが入ったらどうするつもりだったのでしょうか??(;^_^A
ドッキリを仕掛けた道三自身は民家に隠れ、のぞき見してモニタリングをすることにしました。
お茶目な人である(;^_^A
そして、聖徳寺に向かう途中の信長の服装を確認します。
織田信長はいつものヤンキースタイルの格好で、
さらに袴は虎の革・豹の革をつなぎ合わせて作ったものを着用し、
腰には火打ち袋やひょうたんを7・8つほどもぶら下げるというキテレツぶりで、グレードアップしていました(◎_◎;)
ここで興味深いのは、お供の7・800人(道三も7・800人だったので、両者であらかじめ連れてくる人数を決めておいたのでしょう)に例の長い槍500、
弓や鉄砲500を持たせていたことです。
弓・鉄砲合わせて500と書かれているので、
鉄砲がどれだけだったかはよくわからんのですが、
1543年に種子島に伝わってまだ10年しかたっていない鉄砲を、
かなりそろえていたというのは先見の明があったというべきでしょう(◎_◎;)
また、それだけの金を持っていたという証でもあります。
もしかすると、織田信長は軍備に金をかけまくって、
財政担当の平手政秀と衝突したのかもしれませんね💦
さて、織田信長は聖徳寺内にある自分に割り当てられた宿舎に到着すると、
こちらもドッキリ作戦を企てます。
何かというと、
①「一世の始に」(生まれて始めて)まげを折り曲げに結い(それまではずっと茶せん曲げ…伸びた毛をまとめて結んでいるだけでした)
②いつの間にか染めさせていた「かちん(褐色[かちいろ]。漢字は一緒だが、黒みがかった茶色の褐色[かっしょく]とはちがい、黒く見えるほどの藍色の事)の長袴」をはき、
③いつの間にかつくらせていた小刀を腰に差す
ーーつまりは、いつもの信長からは想像できないほど立派な格好に変身するというもの。
これを見た信長の家来たちは、「去ては此比たわけを態と御作り候よ」(最近のたわけはわざと作っていたのか)、と肝をつぶします。
あざむくにはまず味方から。信長、徹底しております。
そして、信長は斎藤道三のドッキリが待つ本堂の前に向かいます。
そこでは春日丹後・堀田道空というものが、「早くおいでなさいませ」と言って出迎えますが(着替えで遅れたのか。道三はだいぶ早く到着してたし)、
信長はこれを無視して(『信長公記』には「知らぬ顔」とある)、
ドッキリで配置された利政の家来たちの前を「するする」と通り抜け、
なんと縁側の柱にもたれかかって座りこんでしまいます😱
なんというヤンキースタイル…!!
しばらくして、斎藤道三がやってきますが、
信長は例の「知らぬ顔」でヤンキースタイルで座り続けます。
しびれを切らした堀田道空が、「こちらが山城(斎藤道三)殿でございます」と声を出すと、
信長は「であるかと仰せられ候て」…
きたーー---!!!!😍
織田信長の「で、あるか」!!!!!!
ここが初なんですねー--!!!しびれますね、もう!!😍
そして信長は座敷に入り、道三に挨拶をして、
堀田道空が運んできた湯漬けを食べ、盃を交わし、会見はお開きとなった。
斎藤道三は「附子(毒)をかみたる風情にて」(苦虫をかんだような表情で)別れの挨拶を述べて帰りますが、
信長はこれを家来たちと共に2kmほど同行して見送ります。
斎藤勢と織田勢が並んで歩くと、槍の長さの違いがはっきり分かります。
それを見て、斎藤道三は「興をさましたる有様」(面白くない顔)になって、
無口になって美濃に帰ってしまいます。
そして、美濃の茜部(よく出てくる)というところで、
家来の猪子兵介が「何と見申し侯ても(どう見ても)、上総介はたわけにて侯」と言ったところ、
斎藤道三は、「されば無念なる事に候。山城が子共、たわけが門外に馬を繋ぐべき事案の内にて候」(だからこそ無念なのだ、わしの子どもたちが、その『たわけ』の家来になってしまうのだから)と答えたといいます。
その後、道三の前で信長のことを「たわけ」という者はいなくなったといいます。
途中まで読むと信長が利政を不快にさせてしまっただけのように見えますが、
最後の言葉からは利政が信長を恐ろしいと思うほど高く評価したことがわかります。
不快になったわけではなく、単純に戦国大名として悔しかったのでしょう。
若く才能にあふれる信長。
驚かせてやろうと思ったら、驚くそぶりも見せず、逆にこちらが驚かされ、
その装備の充実ぶりにも舌を巻かされた。
きっとこの信長に、自分が死んだ後の美濃は圧倒されるー-。
そう感じたのでしょう。
この後の斎藤道三は、織田信長に助力を惜しまなくなります。
織田信長はその力を借りて、尾張統一に邁進するのです。
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