社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 清須織田家との決戦~柴田権六中市場合戦の事(1553年)

2023年6月7日水曜日

清須織田家との決戦~柴田権六中市場合戦の事(1553年)

  主君である尾張守護斯波義統を殺害した清須織田家の家老・坂井大膳たち。

斯波義統の子、義銀をかくまった織田信長はさっそく清須織田家討伐の兵を起こします🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇中市場の戦い

斯波義統が殺されたのは天文22年(1553年)7月12日のことでしたが、

その6日後の7月18日に早くも、清須城攻撃の軍が出動します。

その大将は織田信勝の家老の柴田勝家でした。

これについていった足軽(足軽大将のことか?)には、

安孫子右京亮・藤江九蔵・太田又助 (牛一)・木村源五・芝崎孫三・山田七郎五郎がいました。

「天理本」では、参加者に太田牛一・山田七郎五郎の名前は載っておらず、代わりに真木孫市・浅野孫三・浅野与七郎・浅野孫八が加えられています。また、まず楊盧木(うつき)山というところに進んだ、とも書かれています。

『清須合戦記』では、参加者は安孫右京進忠頼・藤江蔵・太田又助・木村源五・芝崎孫三・山田七郎五郎・天野佐左衛門となっています。

清須織田家と最初に衝突したのは三王口でした。

『清須合戦記』には、戦いの模様が次のように書かれています。

…清須城兵は山王口で防ぎ戦ったが、力の強い那古野勢に追いまくられて四方に逃げ散り、数百人が討ち取られた。

ここで敗北した清須勢は乞食村に後退、さらに誓願寺まで下がるも、ここも守り切れずについに堀の中に逃走します。

しかし清須勢はやられっぱなしでは終わらず、

河尻左馬丞・織田三位・原(下の名前が不明)・雑賀修理が反撃して2・3間(3.6m~5.4m)も追い返しますが、

(「天理本」では原・雑賀は載っていない)

弾正忠家の槍が長いため槍が短い清須勢は次第に押され、

河尻左馬丞・織田三位・雑賀修理・原・八板・高北・古澤七郎左衛門・浅野久蔵など30騎が討ち死にしました。

(「天理本」では、「高北」は「河北」と書かれ、古澤七郎左衛門は古澤新左衛門になっている。『清須合戦記』では原の名前は「源左衛門尉」、高北の名前は「伝次」と書かれていて、八板・浅野久蔵はおらず、代わりに安食九郎兵衛・八牧平四郎が加わっている。また、討ち取られた数は「80余人」となっている)

この戦いの中で斯波義統の家来であった由宇喜一は17・8歳の若さであったものの(『清須合戦記』では由宇「彦市」、「17歳」と書かれている)、湯帷子(ゆかたびら。入浴するときに着る着物)姿で戦い、織田三位を討ち取っています。

これに対し、織田信長は「御感斜めならず」(感心することしきりであった)と『信長公記』に記されています。

こうして、中市場の戦いは清須勢の大敗に終わり、清須織田家の勢力は清須城の堀の内部くらいにまで減少します。滅亡は間近に迫りました。

この戦いについて、太田牛一は最後に次のように記しています。

「武衛様、逆心思し食し立つといえども、譜代相伝の主君を殺し奉る、その因果、忽ち歴然にて、7日目と申すに、各々討ち死に、天道恐ろしき事共なり」

(斯波義統が先に坂井大膳らを排除しようとしたのではあるが、代々の主君を殺してしまった報いはすぐに表れて、斯波義統が死んでたった7日目に斯波義統を殺害した河尻左馬丞・織田三位などが死んでしまった、悪い行いをすると運命が変わって悲惨な最期を必ず迎えることになる。恐ろしいことである)

『清須合戦記』には、そのまま城を攻め落とすべきところであったが、今川が知多郡の水野氏を攻めるという噂が流れて来たので、やむなく引き返した、と書かれています。

今川氏の脅威が迫っていました…(◎_◎;)

〇戦いはどこで行われたのか??



今回扱った戦いの名前は、本によって名称が異なり、

『織田信長合戦全録』では「成願寺の戦い」

『戦況図解 信長戦記』では「安食(あじき)の戦い」

『信長公記』では「中市場の戦い」と書かれています。

ウィキペディアでは「安食の戦い。中市場合戦とも言う。」と書かれていて、

「安食の戦い」が主となっています。

しかし、「安食の戦い」はありえないのです。

上の地図に載せたように、「安食」とは現在の「味鋺」のことです。

この「味鋺」で戦ったとなると、

『信長公記』には柴田勝家は清須城の攻撃に向かい、まず山王宮周辺で戦い、

次に乞食村、次いで誓願寺で戦い、堀の中に追い詰めた、と書かれているのですが、

まず山王宮は現在の清洲山王宮 日吉神社のことだということはわかっています

(この日吉神社の門前に「中市場」があり、最初に中市場で両軍は激突した)

が、それ以外の「乞食村」「誓願寺」の場所が問題になっているのです。

『信長公記』の注には、

「乞食村」…「安食村であろう」。

「誓願寺」…「成願寺」と書かれているのですが、

「安食(味鋺)」「成願寺」とすると、

清須城と正反対の方向になってしまいます。

なぜ清須織田家は「山王口で応戦したが追いまくられ…」なのに、

清須城と正反対の所で戦っているのか。これは明らかにおかしいでしょう💦

まず、『信長公記』の作者、太田牛一は安食村の出身です。

生まれた場所を「乞食村」なんて書き間違えないでしょう。

ですから、「乞食村」も「誓願寺」も、すべて清須城周辺の地名であったと考えるのが自然です。

(服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』には乞食村が清須城周辺にあったと書かれています。)

そもそも『信長公記』の見出しに「柴田権六中市場合戦の事」と書かれているのに(作者の太田牛一は参戦もしているのに)、

現代の人たちが「安食の戦い」と変更するのがおかしいのです…(なんで名前を変えるのか??)。

〇中市場の戦いに織田信長は参加していなかった??

『愛知県史 通史編3』には、

「信勝の臣柴田勝家の軍のみが清須に攻め入り、守護代重臣川尻左馬丞以下30騎ばかりを討ち取った。『信長公記』は「上総介信長御感斜めならず」と記している。自ら軍勢を出すことなく、清須守護代が打撃を被ったことに信長が喜んだのは当然である。ただし、信勝派が信長のために弔い合戦に出たのではない。岩竜丸を獲得した信長を牽制し、弔い合戦をした実績を周囲に示して、信勝への求心力を保つ狙いであろう」

…とあり、信長はこの戦いに参加していなかったと書かれています。

しかし本当にそうでしょうか??(゜-゜)

『信長公記』には、清須勢の槍は短かったが、敵の槍は長かったと書かれています。

この長槍部隊はこれまでに何度か登場しているように、信長が育成したものです。

ですから、大将は柴田勝家でしたが、信長も兵を派遣していた、と考えるのが自然ではないでしょうか。

そもそも、斯波義統の生き残った家来たちは、斯波岩竜丸(義銀)とともに那古野城に逃れてきているのであって、末盛城に逃げ込んだわけではありません。

織田信勝の軍勢だけが攻め込んだのであれば、斯波の家臣の由宇喜一が参加しているわけがないのです。

由宇喜一が参戦している(太田牛一も斯波家臣であったという)ということは、

織田信長も軍勢を派遣したという事の証拠の一つになっているのです。

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