鳴海城・大高城の周囲に砦を次々と築き、圧力を強める織田信長。
その行動に対し、1555年から1558年にかけて起こった今川氏に対する三河国衆の反乱、
三河忩劇(そうげき)の鎮圧に成功するなど、
三河を手中に収めつつあった今川義元は、
いよいよ自ら織田信長と対戦するために駿府を出陣します…🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇松平元康(徳川家康)の「大高城兵粮入れ」
1549年、織田信広との人質交換で尾張から三河に戻った徳川家康(この頃は松平竹千代)。
しかし岡崎城は父の暗殺後、今川氏に乗っ取られていたので、
駿府で今川氏によって養育されることになりました。
1555年、13歳の時元服して松平元信となり(義元から一字をもらう。その後さらに元康と改名)、
1558年、初陣とされる寺部城の戦いで活躍しました。
そして、松平元康の名声を高めたと言われる出来事が、「大高城兵粮入れ」です。
この「大高城兵粮入れ」について、
『信長公記』は「(永禄3年[1560年])5月)18日に入り、大高の城へ兵粮入れ」と簡潔に記すのみですが、諸書では次のように書かれています。
・『松平記』…永禄3年(1560年)5月、今川義元は出陣した。これに先立って大高城を攻略し、ここに鵜殿長介(長照)を入れていたが、兵糧のことで困っていた。そこで義元は松平元康に命じて兵糧を入れさせることにした。大高城に兵糧を入れるには敵陣を抜けていく必要があるため容易なことではなかった。そこで鳥居四郎左衛門(忠広。元忠の弟)と石川十郎左衛門(知綱)の2人に敵の様子を探りに行かせた。戻ってきた二人は「敵が近くて難しい、兵糧が取られては無念だ」と言ったが、これに対し松浦八郎五郎(「杉」浦の誤りか。杉浦吉貞は蟹江城攻めで活躍した蟹江七本槍の一人)は「大丈夫です、敵は山から降りるのでなく、逆に山に登りました。これは戦う気が無いということです」と言った。元康はこれにもっともだと答え、すぐに兵糧を大高城に入れたので、諸将は無双の手柄だと感心した。
・『三河物語』…永禄元年(1558年)、松平元康は大高城への兵糧入れを命じられた。鳥居四郎左衛門尉(忠広)・杉浦藤次郎(時勝。吉貞の弟)・内藤甚五左衛門尉(忠郷)・内藤四郎左衛門尉(正成。忠郷の二男)・石川十郎左衛門尉(知綱)が物見に行った。…その後は『松平記』とほぼ同様。
・『中古日本治乱記』…今川義元が大高城救援に行く者を募ったが、だれも応じなかった。そこで、若年ではあるが100歳の将軍のような老練さがあり、剛の者ばかりの家来を従えている松平元康に役目を任せることとした。…その後の杉浦八郎五郎のくだりについては『松平記』などと同様…(永禄3年[1560年]5月18日に兵糧入れを実行することになったが、)大高城兵糧入れの際に元康は、部隊を三列にし、(旗本を中心に取り囲むように陣形を作る)「四武の衝陣」のような陣形を作り、中心には小荷駄隊を配置し、周りを三段の部隊で守らせた、小荷駄隊から90センチほど離れたところに遊軍を置き、弓隊・鉄砲隊を組み合わせて前後左右に配置、敵が右列を攻撃してきたら、右列の一部隊がこれと戦い、一部隊がこれの側面を攻撃する、遊軍は戦いにはかまわず、左列とともに退避する、その後敵がまた攻めてきたら左列が右列にまわってこれを防ぎ、戻ってきた右列が遊軍と共に小荷駄隊を守って進む、敵が左から攻めてきたときはこの逆とする、と命令していた。敵はこれを見て勢いに恐れをなし、あえて遮ろうとはしなかった。こうして兵糧入れを成功させたが、敵も味方もこれを見て「あっぱれ名誉の兵糧入れや」とたたえない者はいなかった。
・『武徳編年集成』…永禄2年(1559年)5月、鷲津砦の飯尾定宗・信宗(尚清)父子・織田信昌(秀敏の誤りか)、丸根砦(別名棒山城)の佐久間盛重は度々大高城を攻めた、その中で大高城の兵糧は乏しくなり、駿河に窮状を伝えた。そこで今川義元は老臣たちを集め、松平元康は勇才兼備にして家来は皆鍛錬されているのでこれに任せようと思うがどうかと聞いた、老臣たちは苦しい目に遭いたくないので、これを受け入れた。これを受けて岡崎に帰った松平元康のもとに、酒井忠尚・酒井忠次が兵を率いて集まり、松平家次が先鋒を命じられた。元康は1000の兵を率いて出陣したが、この時たまたま鳴海周辺に信長が来て城砦を巡視していたが、元康の家来たちは、大高城の兵糧入れを防ぐために出て来たのでしょう、と言った。そこで、鳥居四郎左衛門信元(信広・忠広とも)・内藤甚五左衛門義教(忠郷とも)・内藤四郎左衛門正成・石川十郎左衛門(知綱)・杉浦藤次郎時勝・杉浦八郎五郎鎮貞(吉貞とも)に命じて敵軍の様子を探らせた。杉浦八郎五郎以外は敵の守りは厳しいと言ったが、八郎五郎は敵は戦いを欲していない、速やかに兵糧を入れられなさいませと答えた。鳥居・内藤は敵の鋭気を察しなかったのか、いい加減なことを言うなと罵った。これに対して八郎五郎は、敵は兵糧入れを邪魔したいのなた山から降りているべきであるのに、敵は我らを見て逆に嶺に引き上げた、これは戦いをしたがってないという事である、すぐに兵糧を入れられなさいませ、と言った。元康はこの意見を聞きいれ、10日の明け方、松平親俊・酒井正親・石川数正らに命じて鷲津砦を攻撃させ、放火させた。これを見て丸根砦の兵はこれを助けようと兵を動かした、これを知った元康はたちまちのうちに兵糧を運ぶ小荷駄隊を大高城に入れることに成功した。この時軍を三列にし、その中で一部隊を3つに分けてそれぞれ奇・正・遊軍として三段にし、本陣であるところに小荷駄隊を置き、そこから90㎝ほど離れたところに弓矢・鉄砲の兵を配置、敵が左右から攻撃してきたら正兵をもってあたり、奇兵に横槍を入れさせ、遊兵は敵にかまわず小荷駄隊を守りながら押し通るという作戦を立てていた。大高城に兵糧を入れることに成功した後は、鷲津砦を攻撃していた兵を退かせたが、この時奥平貞勝が敵を破り元康から感状を受け取ったとも、小栗仁右衛門忠吉が斥候に出た時に敵を討ち取ったとも言われている。元康が兵糧入れの成功を今川義元に伝えると、「龍種龍を生ず」とはこのことか、と言って感じ入ったという。
・『総見記』…(永禄3年[1560年]5月)「18日松平蔵人元康を以て大高の城へ兵粮を入させ」とあるのみ。
・『武家事記』…永禄2年(1559年)、「織田信長大高城を攻む。尾州鵜殿長持(長照の誤り)之を守る。神君糧を城中に入る」
・『徳川実紀』…永禄2年(1559年)、織田信長が鳴海周辺に砦を設けこれを苦しめていると聞いた今川義元は怒り、家老たちと評議したが助けに行く者はいない。その中で松平元康がけなげにもこれを受け入れ、敵軍に中を分け入り、難なく小荷駄隊を大高城に入れることに成功した、敵も味方も「天晴(あっぱれ)の兵糧入れかな」と感嘆しない者はいなかった。一方で、大高城兵糧入れについては異説が多くある。その一つに、信長が寺部・拳母・広瀬の城に兵を派遣していたが、松平元康はまず寺部城を放火したので、丸根・鷲津の兵がこれを救おうとしたところをついて、難なく兵糧を大高城に入れることに成功したというものがあるが、これは道理にかなっている。その後元康は寺部・梅津(梅坪?)・広瀬城を攻めてから岡崎城に戻った。
これらの史料を見て気づくのは、「大高城兵粮入れ」のタイミングがバラバラだということです(◎_◎;)
まとめてみると、
①永禄元年(1558年)…『三河物語』
②永禄2年(1559年)…『武徳編年集成』『武家事記』『徳川実紀』
③永禄3年(1560年)…『松平記』『中古日本治乱記』『総見記』
…ということになります。
通説は永禄3年(1560年)で、『どうする家康』でも桶狭間の戦いのタイミングでやっていました。
しかし、これを裏付けるような一次史料は残っていません(◎_◎;)
「大高城兵粮入れ」について残っている史料は、
10月19日、大高城へ兵・兵糧を入れようとして、それを妨害しようとする織田方と合戦となった際、先鋒として活躍した奥平定勝・菅沼久助(定勝?)に対し、10月23日に今川義元が両者をねぎらって出した書状のみです。
しかもこの書状には年代が記されていないため、何年の10月19日のことなのかわからないのです(◎_◎;)
今川義元は永禄3年(1560年)の5月19日に戦死していますので、
永禄3年(1560年)はあり得ないことになります。
…となると、可能性があるのは永禄元年(1558年)か永禄2年(1559年)。
永禄2年(1559年)8月21日に朝比奈輝勝が大高城の城主に任じられていますので、今川方が大高城を得たのはおそらくこのあたりだったのではないでしょうか。
…となると、奥平定勝・菅沼久助が参加した大高城兵粮入れが行われたのは永禄2年(1559年)、ということになるでしょうか(゜-゜)
『東照宮御事蹟』にも永禄2年(1559年)10月に大高城兵粮入れをしたとあり、書状の内容と一致します。
いわゆる「大高城兵粮入れ」は永禄2年(1559年)に行われたもの、とするのが適当でしょう。
この後、大高城の城主は朝比奈輝勝から鵜殿長照に変更されています。
朝比奈輝勝はだいぶ疲労困憊していたのでしょう。
後に、大高城を守る鵜殿長照は兵糧に苦しみ、草や木の実を食べてまで飢えをしのいだ、とも言われていますが、
これは朝比奈輝勝の時の話と混同されているのではないでしょうか(;^_^A
鵜殿長照はそこまで苦しい状態ではなかったはずです。
しかし、奥平貞勝らによる大高城兵粮入れが成功したとはいえ、
まだ丸根・鷲津砦などが健在で、まだ織田氏優位の状態にあり、大高城への兵糧輸送を丸根・鷲津砦の兵士が見張っていたことでしょう。
永禄3年(1560年)5月18日の松平元康による再度の兵糧入れは、
窮状を救うためというよりかは、大軍を擁する今川軍の前線基地として、
兵糧を集積させる必要があったからだと思います(今川義元も大高城に向かっていました)。
(翌日には海上から服部友貞によりさらに兵糧が運び込まれてもいます)
2度目の兵糧入れの際は、今川義元の大軍が後ろに控えていることもあり、
兵力の消耗を避けた織田方は、諸書の言うように、山の下に降りるなどして積極的に妨害しようとしなかったのでしょう。
再び兵糧入れを成功させた松平元康は、いよいよ丸根・鷲津攻撃に取り掛かることになります。
それに対し、砦を守る佐久間盛重・織田秀敏は明日の朝には今川軍が攻め寄せてくるでしょう、と織田信長に報告します。
いよいよ決戦の時は迫っていました🔥
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