大高城に大軍を受け入れる兵糧が入り、
鳴海城の包囲網を攻撃する準備が整った今川軍。
最前線の丸根・鷲津砦にいる佐久間盛重・織田秀敏は、
織田信長に「明日の朝には今川軍は攻撃を開始するでしょう」と状況を報告します…。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇桶狭間の戦い前日の軍議
『信長公記』には、佐久間盛重・織田秀敏からの報告があった5月18日夜について、「其の夜の御はなし、軍の行(てだて)は努々(ゆめゆめ)これなく、色々世間の御雑談迄にて、既に深更に及ぶの間帰宅候えと御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは此の節なりと、各嘲弄候て罷り帰られ候」(その夜、信長は戦いのやり方についてまったく話をせず、雑談ばかりをして、夜になったので家来たちを家に帰した。家老たちは、「運の末には智慧の鏡も曇る」とは、このことを言うのだな、と信長のことをあざけって馬鹿にして帰った)、とあり、ろくに軍議もしなかった、という様子が書かれていますが、
「天理本」には、
信長は軍議を開き、「是非国境にて御一戦を遂げらるべく候、寄地へ踏逃げられ候ては、有(さら)に甲斐無しとの御存分也」(何があっても国境で合戦をしたい、尾張に侵入を許した上に逃げられては、あまりに情けない)と積極策をぶちまけ、
これに対し家老たちが「敵は4万5千もの大軍、こちらはその一割もありません、清須城という名城をお持ちになっているのですから、ここで籠城し、機を見て合戦に及ぶのが良いでしょう」と籠城策を提案すると、
信長は「安見右近(河内国[大阪東部]の大名畠山氏の家臣)は初め城外で戦い、その後に籠城したが、味方の兵は徐々に少なくなり、ついに敗れた、ということが最近あったではないか」と言ってこれを聞き入れなかった。
その後酒宴となって宮福太夫という者が謡をし、それに信長が鼓を合わせ、乱酒となった…と軍議が行われていたことが記されています。
まぁ、こちらもたいした軍議はしていないのですが…(;^_^A
また、『総見記』は「天理本」と内容が似ているのですが、
違う点は
①家老たちは、敵は「4万」、味方は「3千」と言っている。
②宮福大夫が猿楽の「羅生門」を演じ、「兵の交わり頼みある中の酒宴かな」と謡ったところ、信長は感じ入って黄金を与えた。
③帰宅を命じられた家老たちは「日比は能き大将なれども御運の末と相見え智慧の鏡も曇るやらん。指したる軍の御工夫も出ぬと見えて笑止なり」(いつもは良い大将なのだが、運の末で、知恵の鏡もくもったようだ、これといった作戦も立てられなかったのは気の毒だ)と言いあいながら帰った
…の3つであり、所々詳しくなっていたり、信長に対しての批評がマイルドになっていたりします。
また、頼山陽の『日本外史』には、
林秀貞らが、「敵は5万人になろうとする大軍、こちらは3千人にすぎない、清洲城に籠もって時機を待ちましょう」と提案したが、信長は「不可なり」と答え、続けて、「地の利を頼みにして時機を逸し、滅亡したものは少なくない。父上はこう言った、『敵が攻めてきたとき、決心をためらってぐずぐずしていては、家来の者たちに心変わりして敵に寝返る者も出てくるだろう。すみやかに迎え撃つのが良い』。私は父上の言葉には背かない。明日、うって出て決戦を挑む。私と思いを同じくする者は努力せよ」と述べた。家臣たちで意見する者はいなかった。そして酒宴となり、明け方まで飲んだ…
とあります。
こちらは、小瀬甫庵の『信長記』と内容がほぼ同じであるので、『信長記』をもとに書いたものだと思われます。
この『信長記』は創作が多く、信頼性が低いとされています。
そしてこの『信長記』は、「天理本」を下敷きに書いた、とも言われます。
つまり、まとめると「天理本」をもとに「陽明本」や『信長記』が書かれ、『信長記』をもとに『日本外史』が書かれた…ということになるでしょうか。
『総見記』は「天理本」や「陽明本」の中間のような内容ですが、
その分真実に一番近い内容なのではないでしょうか(やけに細かい宮福太夫の描写はともかく)。
さて、酒宴もたけなわとなった明け方、ついに織田信長は動きます。
いよいよ桶狭間の戦いが始まろうとしていました…!🔥
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