5月19日の夜明け頃まで、酒宴をしていた織田信長は、丸根砦・鷲津砦を守る佐久間盛重・織田秀敏から、
今川軍が攻撃を仕掛けてきた、という報告を受けます。
報告を受けた織田信長がとった行動は、思わぬものでした…!!(◎_◎;)
※マンガの後に、補足・解説を載せています♪
※マンガの2・3P目は都合により公開いたしません💦〇幸若舞「敦盛」
織田信長が踊ったのは「幸若舞」の「敦盛」の一部分です。
「幸若舞」とは「曲舞(くせまい)」のことであり、
「曲舞」とは拍子に合わせて長い物語を舞いながら語っていくものです。
織田信長は幸若舞を愛好し、1574年には幸若八郎九郎に100石の領地を与えています。
信長は「幸若舞」の中でも「敦盛」を特に愛しました。
「敦盛」とは「平敦盛」(1169~1184年)をモデルとしたものです。
平敦盛は源平の一ノ谷の戦いで熊谷直実(1141~1207年)と戦って15歳の若さで死亡しますが、
『平家物語』では熊谷直実は先年に戦いで失った自分の子どもと同じ頃の年齢の少年を殺したことを悔やみ、のちに出家したとされますが、
この熊谷直実の出家のシーンで流れるのが、マンガでも出てきた歌になります。
前後の部分も紹介すると以下のようになります。
「さる間に、熊谷よくよく見てあれば、菩提の心ぞ起こりける。
(そうするうちに、熊谷直実は出家しようという心が起こった)
今月十六日に讃岐の八島を攻められるべしと聞いてあり、
(一ノ谷の戦いから一年たち、讃岐[香川県]の屋島を攻撃すると聞いた)
我も人も憂き世に長らえて、かかる物憂き目にも、また直実や遇はずらめ。
(私のようなつらい目に合う者がまた現れるのであろうか)
思へばこの世は常の住み家にあらず
(思えばこの世に永遠に続くなどというものはない)
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
(草葉についた水滴・水に映る月よりもはかないものだ)
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
(中国の晋の時代に石崇が作った華麗な別荘「金谷園」も無くなり)
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
(中国の四川にある南楼の月を楽しんでいた者たちも姿を消してしまった)
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
(人間界の50年など、1日が人間界の800年分にもなる化楽天に比べれば夢や幻のようなものだ)
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
(一度生まれて、滅びないものなどない)
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」
(これを悟りをひらく動機と思わないのは情けないことである)
(※『信長公記』では一部表現が異なり、例えば「化天」は「下天」になっている。「下天」と「化天」は大きく異なり、「下天」は天界の中でも一番下で、1日は人間界の50年分に相当するが、「化天」だとその1つ上の天界で、1日は人間界の800年分に相当する)
幸若舞「敦盛」では一ノ谷の戦いの翌年の1185年に熊谷直実は出家した、ということになっていますが、
実際は、文治3年(1187年)8月4日の流鏑馬に参加しているので、
それ以後の事だったと言われています。
(※『吾妻鏡』では、建久3年(1192年)11月25日の裁判の際に口下手な熊谷直実が悔しくてその場で髪を切った、とあるが、その前の年にはすでに出家していたことがわかる書状が発見されたため、誤りとされる)
織田信長が「敦盛」を桶狭間の戦いを前にして踊ったのは、
「生まれて滅びない者などないのだから、死を恐れて何になるか!」と決意を示したものでしょう🔥
信長はこれまでも、何度も何度も命を顧みず突進して戦って勝利を得てきました(村木砦の戦いなど)。
今回の危機も、信長は死を恐れず突進することで打開しようとしていました。
〇織田信長、清須城から出撃
「敦盛」を舞い終わった織田信長は、「螺吹け、具足よこせと仰せられ、御物具 めされ、たちながら御食をまいり、御甲(かぶと)をめし侯て御出陣なさる」と『信長公記』にあるように、すさまじいスピードで出撃します。
これについてこれたのは、小姓衆の岩室長門守(重休)・長谷川橋介(赤塚の戦いでも活躍)・佐脇良之(前田利家の弟。浮野の戦いでも活躍)・山口飛騨守・加藤弥三郎の5名だけであったといいます。
この5人は織田信長の信頼厚い者たちであったと思われますが、
この5人はその後、全員非業の死を遂げることになります…( ;∀;)
出発した後の動向について、『信長公記』は次のように記します。
…熱田まで3里(12km。実際に12㎞程度。走って1時間ほどの距離になる)の距離を一気に駆けて、辰剋(午前7~9時) に源大夫殿宮(上知我麻神社)の前から東の方向を見ると、鷲津・丸根砦は陥落したらしく、煙が上がっているのが見えた。この時、6騎、雑兵200人ほどしかいなかった。浜の方から行けば早く行けるのだが、潮が満ちていたため馬で渡ることができず、熱田から「かみ道」(上の道)を強行して進み、丹下砦にまず到着、続いて佐久間信盛が守る善照寺砦に着いて、兵士を集めて態勢を整えた。…
この内容の中で気になるのは「かみ道」(上の道)とはどこなのか、ということです💦
藤本正行氏の『桶狭間・信長の「奇襲神話」は噓だった』や橋場日月氏『新説 桶狭間合戦』では、
野並から村上社に至るルートに「上道(上ノ道)」と記され、
古鳴海から笠寺へ至るルートに「下道(下ノ道)」と記されています。
一方で、『張州雑志』では、藤本氏や橋場氏の言う所の「上道」より北の、井戸田から鳴海に至るルートが上野の道と呼ばれていた、とあります。
今は干拓されて陸地になっていますが、当時は笠寺と鳴海の間には「鳴海潟」が広がっており、干潮時には浜となって歩いて通ることができますが、満潮時には通行不能になる場所でした。室町時代までの海面が高い時期は満潮時は船で渡っていたそうです。
(『せきれい』[https://www.m-cd.co.jp/sekirei/vol65.pdf]によれば、村上社は「干潟の西岸の船着場」であったといいます。)
後醍醐天皇の子、宗良親王は「なるみ潟 汐の満ち干の たびごとに 道ふみかうる 浦の旅人」(年魚市潟を通る旅人は、潮の満ち引きによって道を変えている)と歌に詠んでいます。
では、当時の織田信長は、藤本・橋場氏の言う所の「上道(上ノ道)」を通ったのでしょうか?それとも「上野の道(上野街道)」を通ったのでしょうか?
それは潮の満ち引きの程度が関係してくるでしょう…。
気象庁のサイトには、名古屋周辺の潮位の記録が1997年以降の26年分載っています。
桶狭間の戦いが起きたのは5月19日ですが、西暦に直すと6月12日。
1997~2023年の6月12日のデータをまとめてみると、1年で平均3時間11分ほど満潮時間が前にずれてきていることがわかります。
それでいくと、1560年の6月12日は、午前3時頃が満潮だったことになります。
『信長公記』には、佐久間盛重・織田秀敏が、援軍がやってこられないように、潮の満ち引きを考えて、敵は朝方に丸根・鷲津砦に攻めてくるでしょう、と信長に報告した、という記述があります。
たしかに朝方に満潮を迎えていたわけです。
そして『信長公記』は、思った通りに夜明け方に敵は攻めてきた、と記します。
過去の記録を見ると、名古屋の6月の日の出の時間は決まって4時39分頃ですから、夜明け方というのは、このあたりの時間になります。
このあたりに攻撃を仕掛けられて、信長に報告に行かせるのに21㎞の距離を馬で1時間(狼煙なら即座にすぐ伝えられるが)、そこから信長が出発するのに少し時間がかかって熱田につくのに1時間少々。『信長公記』には辰の刻(7~9時)とありますが、だいたい7時くらいだったでしょう。
過去の記録によれば、3時頃に満潮を迎えると、10時頃に干潮を迎えるまで潮はだんだんと引いていきます。試しに、1999年~2003年で3時頃に満潮を迎えている時の潮位の平均を取ると、潮位は3時283㎝→4時280㎝→5時262㎝→6時230㎝→7時193㎝→8時156㎝→9時131㎝→10時121㎝、となっています。これを適用すると、信長が天白川を渡る頃…だいたい8時頃だと思われる…は、潮位は1m以上も低くなっていることがわかります。
この時間帯ではどのあたりまで潮が満ちていたのでしょうか?(゜-゜)
天白川周辺は、「土地分類基本調査(土地履歴調査)説明書 名古屋南部」 によれば、戦後に丘陵地を住宅地に開発する際に削った土砂により厚く盛土が行われ(…といっても、明治期の地図と比較しても50㎝も高くなっていないように見えるが)、しかも江戸時代に天白川周辺は干拓・新田開発が行われており、土壌改良のために土を入れたと考えられるので、戦国時代の正しい標高はわかりにくくなってしまっています。
ここは仮に、戦国時代は今より1mほど標高が変化しているとします。
すると、潮位が100cmくらいであれば、「下道(下ノ道)」は通行可能です。
150㎝にもなると、「下道(下ノ道)」がまず水没して通れなくなります。
「上道(上ノ道)」は250㎝を超えるようになると西側半分が水に浅くつかり始め、300㎝を超えると西側半分はすっかり水没してしまいます。
…となると、信長が天白川を渡った8時頃は、潮位は156㎝程なので、「下道(下ノ道)」は通れないが、「上道(上ノ道)」は十分通ることができる時間帯であった、ということになります。
『信長公記』でいうところの「かみ道」は「上野の道(上野街道)」のほうではなく、藤本・橋場氏の言う所の「上道(上ノ道)」で正しいと言えるでしょう💦
ちなみに江戸時代の尾張藩士・天野信景(1663~1733)は、『塩尻』に熱田社に伝わる信長の進路を記していますが、それによれば、信長は熱田→蛇塚→井戸田→山崎→野並→古鳴海→太子根(大将ヶ根)というように道を進んだようです。山崎から野並に行っているので、「かみ道」=「上道(上ノ道)」説を補完します。
こうして信長は遠回りを強いられることになったわけですが、疑問点が2つあります。
そもそも「下道(下ノ道)」「上道(上ノ道)」は3.3㎞:4.1㎞と0.8㎞ほどしか違いはなく、時間的に徒歩時間では42分:52分と約10分の差しかなく、走っても4分の差しかありません。そんなに遠回りでもないのです。
1分1秒が惜しかったのでは?という指摘もあるかもしれませんが、それならなぜ、信長は敵が朝攻めてくるとわかっていながら、報告が来るまで清須城に待機していたのでしょうか?夜明けまでに天白川を越えて丹下砦や善照寺砦に行っていればいい話です。
報告というのも、狼煙を使えばすぐに伝えられたはずです。
まとめると、信長は最初から丸根・鷲津砦を助ける気はなかったのではないでしょうか??💦敵を消耗させるための捨て石と考えていたとしたら、すさまじく冷徹なリアリストだった、ということになります…(◎_◎;)
〇丸根・鷲津砦の陥落
今川軍先鋒は、二手に分かれて丸根砦・鷲津砦に猛攻を仕掛けます。
しかし、『信長公記』にある丸根砦・鷲津砦の戦いについての記述は、
「夜明けがたに、佐久間大学・織田玄番かたより早鷲津山・丸根山へ人数取りかけ候由、追々御注進これあり」
「辰尅(8時頃)に源太夫殿宮のまえより東を御覧じ候えば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り候」
「5月19日午刻(12時頃)、戌亥(北西)に向て人数を備え、(今川義元は)鷲津・丸根攻落し、満足これに過ぐべからずの由候て、謡を三番うたわせられたる由候」
「今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依て、人馬の息を休め、大高に居陣なり」
…以上がすべてで、夜明け頃に丸根・鷲津砦への攻撃が始まり、8時頃には落城か落城寸前となっており、12時までには完全に落城していたこと、松平元康(徳川家康)が先鋒を務めていたこと、がわかります。
丸根砦・鷲津砦の攻防について、諸書にどう書かれているか見てみましょう。
①『松平記』…5月19日早朝に飯尾近江守(定宗)・隠岐守(尚清)父子が籠もる鷲津城を今川軍の先陣が攻略し、佐久間大学(盛重)が籠もる丸根城は松平元康隊が攻め落とした。しかし、松平善四郎(正親)・高力新九郎(重正。清長の叔父)・筧又蔵(正則)など多くの将兵が討死した。佐久間玄蕃(盛政であるがこの時6歳なので誤りだろう。大学はどこに行った??)は城を明け渡して退いていった。
②『三河物語』…『松平記』とほぼ同様。殺されずに逃げ延びたのは「佐間」(佐久間)とだけ記す。
③『武徳編年集成』…松平元康は石川日向守家成を先鋒として丸根城に向かい、部隊を3つに分け、一つは正兵として正面を、一つは遊兵として側面を担当させ、一つは馬廻(親衛隊)とした。正兵は松平又七郎家広…(多くの人物名が書き連ねられる)、遊兵は松平勘解由康定…(多くの人物名が書き連ねられる)、馬廻には酒井左衛門尉忠次…(多くの人物名が書き連ねられる)。奉行は石川日向守と酒井左衛門尉であった。丸根城の兵は門を開いて打って出て来た、元康は敵は小勢なので守ることは不可能なので野戦で勝負をかけてきたのだろうと考えた。そして足軽隊にこれを防がせ、敵の隙をついて城を乗っ取るように命令した、酒井・石川はそのように命令したが敵の攻撃が早く合戦となった、朱具足の出で立ちの元康は団扇でもって指揮をとり、将兵は奮戦したが高力新九郎重吉・筧又蔵・野見松平庄左衛門重昌(24歳)・大草松平善兵衛三光(48歳、正親の父)等が戦死した。しかし敵も敗れ、佐久間大学は鉄砲にあたって戦死した。その間に贄掃部氏信が城内に一番乗りし、左右田興平などが突入して丸根城を陥落させた。鳥居彦右衛門元忠(22歳)・本多平八郎忠勝(13歳)は初陣であった。ある者は次のように言う、戦いの前、佐久間大学は城内の兵が400しかなく、今川義元の兵が来れば忽ちに城は落ちるだろう、去りたいものは去ってもかまわない、私一人ここで死のうと言ったが、服部玄番が城兵に義の心を励ますと、渡邊大藏・太田右近・早川大膳・原田隠岐らは主将とともに死ぬことを誓い、皆討ち死にしたと。佐久間大学の娘は佐久間玄蕃允盛政に嫁ぎ、盛政の死後は新庄越前守直好(直頼の誤り)の側室となった。
丸根城攻めと同じ時刻に今川方の先鋒・朝比奈備中守泰能(泰朝の誤り)は鷲津城を厳しく攻めてこれを陥落させ、城将の飯尾近江守定宗・織田玄番允信昌以下、城兵は大半が戦死し、城のほとんどは焦土と化した。この定宗は京都幕府(室町幕府)の相伴衆を務め従四位下侍従となっていた(幕府に仕えた飯尾氏と間違えている)。実は尾張奥田城主織田左馬助敏宗の子で、信長の親族にあたり、そのため鷲津城を任されたのだという。
④『中古日本治乱記』…5月19日、井伊信濃守直盛と松平元康が先陣となって鷲津城を攻めた、飯尾近江守致公(定宗の誤り)・舎弟(子の誤り)隠岐守致衡(尚清の誤り)・織田玄番允信平(秀敏の誤り)は弓・鉄砲を雨の如く浴びせて今川方に多くの死傷者を出させ、城兵も門を開いて突撃したが、攻撃方は次々と新手を繰り出すため敗れて城から落ち延びていった、その後今川軍はすぐに丸根城を攻撃した、元康の兵が先頭に立ち、門を破り塀を乗り越えようとした。城の大将・佐久間季盛(盛重の誤り)・山田藤九郎は弓・鉄砲で抵抗したため、松平善四郎正親・高力新九郎直重・筧又蔵らが討ち死にした。しかしその死も顧みずに突撃を繰り返す松平勢の前に、もともと小勢であった城兵はだんだんと力を失っていき、ついに降伏して開城した。
⑤『徳川実紀』…松平元康は先陣の一人となって丸根城を攻め落とし、しばらくして鷲津も駿河勢が攻め落とした。
『武徳編年集成』の詳細さが際立っていますね(;^_^A
(どこまでが本当かわかりませんが…💦)
異なる点を整理してみると、
・『中古日本治乱記』以外は鷲津砦は駿河勢が、丸根砦は松平勢が担当したことになっているが、『中古日本治乱記』だけは鷲津を攻略した後に丸根も攻撃したことになっている。
・『松平記』『三河物語』『中古日本治乱記』は佐久間盛重の死を記さずに丸根砦が降伏開城したと記しているが、『武徳編年集成』は盛重の戦死を記している。
・『中古日本治乱記』は鷲津砦の飯尾定宗・織田秀敏は敗れて落ち延びていった、としているが、『武徳編年集成』では戦死している。
…の3点ということになるでしょうか。
まず1つ目、松平元康は丸根だけでなく、鷲津砦も攻撃したのか?ということですが、たしかに『信長公記』にも「鷲津・丸根にて手を砕き…」と両方に参戦したという記述があります。
しかし、松平氏側の史料である『三河物語』などが、松平元康の活躍を誇張して丸根・鷲津両方を落としました、と書けばいいものをそうしていないことから、松平元康が攻略したのは丸根砦だけとするのが正確でしょう(゜-゜)
2つ目、佐久間盛重の生死についてですが、『武徳編年集成』以外は降伏開城して落ち延びていっていますが(『松平記』は生死不明)、その後「佐久間大学」は『信長公記』にも一切登場しなくなるので、戦死した可能性が非常に高いと考えられます(◎_◎;)
同じように、3つ目の飯尾定宗・織田秀敏の生死についてですが、飯尾定宗はその後『信長公記』に登場しなくなるため、戦死したとするのが正確かと思われます。一方、織田秀敏はその後『松平記』に登場するので、おそらく落ち延びたのでしょう。
ちなみに飯尾定宗の息子、飯尾尚清[1528~1591。主に吏僚として活躍し、1590年には侍従にまでのぼった]はその後の活躍が確認できるので、砦から落ち延びたことがわかります。
こうしてみると、鷲津・丸根で多くの織田方の将兵が寝返ることをせずに、戦死を遂げていることがわかります。
寝返ることが無かったのは、以前にも説明したように、尾張で今川方に寝返った者が冷遇を受けた、ということがあるでしょう。
(織田信長は寝返ったものを冷遇することなく、そのまま元の土地を安堵しています。朝倉氏を滅ぼした際には織田方に寝返った前波吉継に越前[福井県北部]を任せています[これがもとで後に越前一向一揆が起こってしまうことになりますが…💦])
おそらくこれは織田信長からの死守命令が出ていたものと思われます。
織田信長としては、各砦で少しでも今川軍を損耗させ、疲れさせたかったのでしょう。
実際、丸根砦で思わぬ被害を受けた松平元康は兵糧入れからの疲れがあるだろうということで、大高城に戻されてもいます。
〇佐々政次・千秋季忠の突撃の謎
『信長公記』には、「信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正 ・千秋四郎二首(かしら)、人数300ばかりにて義元へ向て足軽に罷出で侯えば、噇(どっ)とかかり来て、槍下にて千秋四郎・佐々隼人正初めとして50騎ばかり討死候。是を見て、義元が戈先には天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと悦で、緩々として謡を唄わせ陣を居(すえ)られ侯。」とあり、
織田信長が今川義元と戦う前に戦闘があったことが記されているのですが、
この信長に先んじて戦闘を行った佐々政次・千秋季忠がどこにいたのか、『信長公記』陽明本には書かれていません。
しかし、天理本には、
「中嶋の取出より信長善照寺へ御出を見申す佐々隼人正・千秋四郎二首、山際まで懸向かわれ候」とあり、中島砦にいたことがわかります。
佐々政次は以前にも紹介しましたが、佐々成政の兄であり、「小豆坂七本槍」の1人でもある勇猛な男です。
千秋季忠(1534~1560年)は、加納口の戦いで戦死した千秋季光の弟です。
兄と同じく熱田神宮の大宮司ですが、兄弟そろって武闘派だったようです🔥
この2人は織田信長が善照寺砦までやってきたのを見て出撃するわけですが、
この出撃について、「陽動説」と「抜け駆け説」(藤本正行氏)があります。
「陽動説」は、佐々・千秋隊が今川軍の先鋒を引きつけている間に、
織田信長が今川軍本陣を突く作戦であったというもの。
「抜け駆け説」は、織田信長本軍が来る前に功績をあげねばと、はやって行ったというもの。
典拠はわかりませんが、『大いなる謎・織田信長』(武田鏡村:著)には、
桶狭間の勝利後、みんなが祝う中で佐々・千秋隊の生き残りの者たちは端っこの方で恥ずかしそうにしており、
しかも戦争直後に松平元康に対する備えを命じられて最前線に送られた、とあり、
陽動ではなかった、独走であったとしています。
もし陽動であれば、それは名誉の死であり、『信長公記』にそのまま書けばいいのです。しかし『信長公記』にそう書かれていないとなると、これは抜け駆けであったのでしょう(;'∀')
また、佐々・千秋隊の突撃については、もう一つ謎があります。
「天理本」には佐々・千秋隊は「山際」に向かった、と書かれていますが、それはどこの山のことなのか??というものです。
この謎を解くためには、まず今川軍の前線はどこにあったか、ということがわからなければいけません。
前線があった場所を推定する手がかりとなるのが、地名です。
中島砦から南に少し行ったところに、「伊賀殿」「左京山」という地名がありますが、
「伊賀殿」は藤枝伊賀守氏秋が布陣していたこと、「左京山」は島田左京進将近の布陣していたこと、に由来していると言われています。
では、佐々・千秋隊はどちらを攻撃したのか。
『信長公記』には今川義元の所に向かって突進した、とありますので、
進行方向に桶狭間がある「左京山」に布陣していた島田左京進将近を攻撃した、とするのが正しいと思われます(゜-゜)
しかし、この説だと『信長公記』にそぐわない部分があります。
『信長公記』には、「是を見て」とあり、これを「今川義元は佐々・千秋が死んだのを見ていた」と解釈すると、
桶狭間からは高根山(有松神社付近)が邪魔して佐々・千秋が討ち取られる様子が見えないからです。
そこで、今川義元の本陣は高根山にあったのではないか、とする説や、
なんと今川義元が、中島砦のすぐ南にある丘陵、漆山にいたとする説まであります(『桶狭間合戦之図』)😱
ビックリですが、たしかに、中島砦から佐々・千秋隊が来た一部始終ははっきりと確認できます(;^_^A
しかし、漆山だとあまりに中島砦に近すぎて最前線すぎますから、これはトンデモ説のたぐいでしょう(-_-;)
自分としては、「是を見て」の「是」は「佐々・千秋の討ち死に」ではなく、「佐々・千秋の首」のことだと思います。
『武徳編年集成』でも、「桶狭間田楽が窪義元の陣所へ駿州の先鋒最初討捕る岩室・千秋等が首級を送る所に義元大いに欣こび誇り…」とありますし。
こちらの方が無理が無いだろうと思います(;^_^A
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