稲生の戦いで弟・織田達成(信勝)を破り、
残る同族の敵は岩倉城の織田信安だけとした織田信長。
その時、岩倉城で内乱が起きます。
そしてそれを、織田信長は見逃すわけがありませんでした😖
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇浮野の戦いはいつ起きたのか??
浮野の戦いは通説では1558年に起きたことになっています。
しかしこれは小瀬甫庵の『信長記』の記述を基にしているもので確たる証拠があるわけではありません。
一方で、岩倉織田家の家老であった山内盛豊(山内一豊の父)と、山内一豊の兄の墓が一宮市に残っており、そこには、「弘治三丁巳 七月十二日 但馬守 盛豊」「弘治三丁巳 七月十二日 但馬守 子 十郎」とあり、
弘治3年(1557年)7月12日に死んだ、と書かれているのですが、
浮野の戦いは「7月12日」に起きたと『信長公記』に書いてあるのです(何年に起きたかは書かれていない)!(◎_◎;)
これは、2人の死からちょうど1年後に浮野の戦いが起きた、というよりも、
浮野の戦いで織田信長が大勝し、その余勢をかって2人がいた黒田城も攻め落とした、と見るのが明らかに自然でしょう。
父の盛豊が死んだのは翌年とする説もあり、この墓石が作られたのは江戸時代中期と遅いということで信ぴょう性に疑問が残る点もあるのですが、この墓を管理している法蓮寺の過去帳にも弘治3年に死亡したと書かれており、墓石はこれをもとにしていると考えられるので、典拠が不明な甫庵の『信長記』よりは信頼性があります。
ですから、浮野の戦いは1557年に起きたと私は考えます。
〇岩倉織田家との決戦
岩倉織田家は最盛期は尾張の北半分を支配していましたが、
織田信秀のころにはだいぶ勢力範囲は狭まっていました。
後期の岩倉織田家の 勢力範囲 |
そのような状態の中で、弘治3年(1557年)、岩倉城で事件が起こります。
岩倉織田家当主の織田信安が、二男の信家を跡継ぎにしようとして、
長男の信賢に追放されるという事件が起こるのです。
ちなみに織田信安はその後斎藤氏に仕えて、織田信長に抵抗し続けますが、
斎藤氏も滅びると京都に逃れます。
その後織田信長に許され、美濃(岐阜県南部)に土地を与えられ、
最後は寺の住職となって1591年に亡くなります。
なかなかハードな人生を送った方でした(;^_^A アセアセ・・・
さて、岩倉織田家の内紛を見た織田信長はさっそく動きます。
その前に岩倉城~黒田城の間を邪魔するように浮野に砦を建設しています。
この砦が目障りな岩倉織田家と一度戦いになっていますが、この時は小競り合いで終わっています。
(『武徳編年集成』には、永禄元年[1558年]5月28日、信長は岩倉城を攻め、うって出て来た城兵と浮野で戦った、信長は軍を二つに分けて、敵兵1000が攻めてきたところに側面から別動隊に攻撃させて敵を破り270余りの首を得た、この時信長に帰参していた柴田勝家は奮戦し、以前信長に反抗したという非を償うことができた、…とある。しかしこの時柴田勝家はまだ織田信成[信勝]の家臣であったはずである)
そして信長は岩倉織田家を倒すため、姉(名前は不明)を、
犬山城主・織田信清に嫁がせて同盟を結びます。
そして、織田信長・織田信清軍が連合して岩倉城へ攻撃に向かいます。
『信長公記』では信長軍はわずか1000しかいないのですが、
『総見記』では信長軍2000、信清軍1000、合計3000となっています。
清須から岩倉城への最短ルートは「節所」(通行困難な難所。田んぼが広がっていたのか湿地帯であったのか)であったので、
信長は「足場の能き方」である北の方へ迂回して、岩倉城と黒田城を遮断する位置にある浮野に到着し陣を構えます。
それを見た織田信賢は、黒田城への道を確保せんと、決戦を挑むことを決意します。
『信長公記』には、「三千ばかりうきうきと罷出で相支え候」と書かれています。
また「うきうき」!Σ(・□・;)
「うきうき」は以前も説明しましたが、「落ち着かない」という意味です(;^_^A
ですから、「慌てて出てきた」、という感じになるでしょうか(゜-゜)
それにしても気になるのは「3000」という兵数です。
『信長公記』を信じるなら信長軍の3倍、
『総見記』を信じるならば信長軍と同等です😲
織田達成に勝って領土を広げた織田信長に比べれば、岩倉織田家の勢力範囲は小さいはずなのに、なぜこれほどの兵を動員できるのでしょうか??
信ぴょう性は低いですが、『武功夜話』には、美濃方の兵が加わっていた、とあります。
同盟を組んでいる相手に、斎藤高政が何もしないとは考えられないので、あり得る話です(゜-゜)
『信長公記』には、戦いの様子が次のように書かれています。
…7月12日の午後12時頃、信長軍は南東方向に向かって突撃、数時間戦って敵を追い崩した。敵に浅野村の林弥七郎という弓の達人がいて、退こうとしていたところに、信長軍の鉄砲の名人・橋本一巴(信長の鉄砲の指南役でもあった)と遭遇した。2人は旧知の間柄であったので、林弥七郎は一巴に「たすけまじき」(助けてはやれないぞ)と言い、一巴は「心得候」(わかっている)と答えた。弥七郎は約12㎝もの矢尻がある弓矢を放ち、それは一巴の脇へ深々とつきささった。一方で一巴もほぼ同時に「二つ玉」(2つの弾を紙や糸でくくったもの。一度で2発放つことができる)を入れた鉄砲を放っており、弥七郎に命中して弥七郎も倒れた。そこに信長の小姓である佐脇良之(前田利家の弟。以前に登場した佐脇藤右衛門の養子となっていた)が駆け寄って、弥七郎の首を取ろうとしたが、弥七郎はたおれながらも、太刀で佐脇良之の左ひじを籠手もろとも斬った。しかし佐脇良之はかまわずに弥七郎の首を取った。弥七郎の弓・太刀両方での活躍は見事であった。信長はその日中に清須に戻り、翌日、首実検をしたところ、首の数は1250余りもあった(「天理本」では1100余り)…
林弥七郎と橋本一巴の戦いは詳しく書いてあるのですが、肝心の浮野の戦いの様子については詳しく書かれていません(;^_^A
一方で、『総見記』には次のように戦いの経緯が詳しく書かれています。
…岩倉方が陣形を乱したところに、森可成・中条家忠が突撃、岩倉方は敗れて岩倉城に逃げ込んだので、信長軍は勝鬨をあげ、織田信長は南の清須城へ、織田信清は北の犬山城に向けて移動した。それを見た織田信賢は信清軍に攻撃を開始した。これに対して信清方は高木左吉・生駒勝助・土倉四郎兵衛・和田新助・中島主水・金松牛之助・角田小市・猪子二左衛門・猪子加助・猪子才蔵などが、引き返して迎撃する。その時は11時40分頃、浮野川で一進一退の攻防が繰り広げられた。前田利玄(としふさ。前田利家の兄)は以前織田信清の家来で、今は岩倉織田家のもとで武者奉行をしていたが、犬山勢と戦うことになり、朝から戦い通しで疲れていたこともあり、土倉四郎兵衛に首を取られた。織田信長は犬山勢の苦戦を聞いてすばやく駆けつけて側面から岩倉勢を攻撃したので、岩倉勢は8・900の兵を失い大敗して何とか岩倉城に逃げこんだ。(ここで『信長公記』と同じく林弥七郎と橋本一巴の話が載る)岩倉勢はもう城を出る力は残っておらず、そこで信長軍はその日の晩に退却した…
『総見記』とほぼ同時期に成立したとされる『中古日本治乱記』には、『総見記』よりも詳しく書かれている箇所があり、例えば、
・森可成・中条家忠は「敵は早くも引き始めたぞ、進めや進めや」と叫んでから突撃した。
・討ち取った首は900余り。
・岩倉織田家の兵は城中に初め3500余りいたが、戦後は300足らずとなった。
・岩倉城を一気に攻め落とさなかったのは、一日に二度も戦っていて疲れていたのと、城中の兵がこれほど少ないとは考えもしなかったため。
・信賢は戦後再び兵を集め、城中の兵は1000ばかりになった。
岩倉方の死者について、『総見記』は8・900、『中古日本治乱記』は900、「天理本」は1100、『信長公記』は1250とバラツキがありますが、
『信長公記』を信じるならば、岩倉方は42%も戦死したことになります(◎_◎;)
また、『信長公記』も『総見記』も戦いの後、清須に戻った、と記していますが、
実際は先に述べたように岩倉支配下の黒田城をこの日の夜に攻撃してこれを落としています。
この時、岩倉方の家老であった山内盛豊は戦死したとも、負傷しながら岩倉城へ逃れたとも言われていますが、子の十郎(一豊の兄)は戦死します。
そして翌年(永禄元年[1558年])の春、織田信長は岩倉城に再び攻め寄せて
城下町に火を放ち、さらに周囲に柵を二重三重にめぐらして完全に包囲します。
そしてその間何度も火矢や鉄砲を撃ちこみました。
頼みとしていた斎藤高政も援軍にこず、
さらに楽田城も織田信清により攻略されたため、
万事休した織田信賢は2~3か月の籠城の末、ついに降伏を決意します。
織田信賢は尾張から追放され、流浪して武田氏のもとに落ち着き、武田氏滅亡の際に捕らえられますが、助命されています。
その後は関係のある山内一豊が土佐(高知県)の大名となった際に招かれたともいわれています。
また、落城の際に山内盛豊は自害(もしくは戦死)したと言われています。
それから山内一豊は各地を流浪することになるのです。
こうして、織田信長は同族の争いを制して、尾張北部をほぼ平定することに成功したのです。
そして次なる敵は、いよいよあの、今川義元となるのです!🔥
0 件のコメント:
コメントを投稿