社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: いつもよりも「うきうき」?~三郎五郎殿御謀反の事(1557年?)

2023年6月20日火曜日

いつもよりも「うきうき」?~三郎五郎殿御謀反の事(1557年?)

 織田信長は最大の対抗勢力、織田達成方を破り、一息つくことに成功しました。

しかし、このタイミングで、新たな裏切りが発生してしまいます。

※マンガの後に、補足・解説を載せています♪


織田信広の謀反

織田信広を主人公とした『織田家の長男に生まれました ~戦国時代に転生したけど、死にたくないので改革を起こします~』という漫画が10月6日(2022年)に発売されたそうです💦

「斎藤義龍に生まれ変わったので、織田信長に国譲りして長生きするのを目指します! 」も同日発売されている(;^_^A)

流行りの転生ものですな(;^_^A アセアセ・・・

ちなみに、弓矢で撃たれて殺された、織田秀孝を主人公とした『信長公弟記 ~転生したら織田さんちの八男になりました~』の漫画もある😓

織田信広の漫画のは安祥城をめぐる攻防が1巻で描かれるようなのですが、

織田信広は安祥城の城主を務めていた男でした。

織田信広は織田信秀の側室の子として生まれたため、

長男でありながらも跡継ぎではありませんでした。

1548年3月に起きた小豆坂の戦いでは先鋒として戦うも織田軍は敗北してしまう。

その後は対今川の最前線である安祥城の守りを任されているので、

父・信秀からは信頼されていたようです。

1549年、太源雪斎率いる今川の大軍が攻め寄せると、

一度は敵の先鋒、本多忠高(あの本多忠勝の父)を討ち取って撃退に成功するが、

再び攻め寄せてきた今川軍に抗しきれず敗北、生け捕りにされてしまう。

そして尾張で人質になっていた徳川家康と交換で尾張に帰還するが、

この後はしばらく記録から姿を消してしまう。

安祥城を失い、捕虜にもなったことで、織田信広は織田家中での力をだいぶ失ってしまったのでしょう(しかし小豆坂でも安祥城でも最終的に敗北しているがそれなりに奮戦しており、決して凡庸な男ではなかった。「信長の野望 創造」では統率:60 武勇:59しかないが…。最新作の「新生」では統率が62と微増)。

信広の代わりに表に出るのは同じ母から生まれた弟の織田秀俊でしたが、

この秀俊は守山城主になるも、以前のマンガで描いたように、策謀に巻き込まれて?殺されてしまう。

この秀俊は信長派であったので、信広も信長に大人しく従っていたのでしょうが、

秀俊が死ぬと、弟の信長の家来扱いになっている状態に心が揺らぎ、そこを斎藤高政のちの義龍。以前は利尚・范可と名乗っていたが、長良川の戦い後に高政と改名)に「あなたは長男ではないか」などと吹きこまれ、謀反を決意するようになったのでしょう。

謀反のタイミングについては、『信長公記』には日付が載っていません(;^_^A

しかし、斎藤高政が織田信広に対して出した書状が残っており、ここからある程度推量することはできます💦

その書状の内容は信広が太刀・鉄砲・雁を送ってくれたことに対し、高政がそのお礼に太刀1つと鱈(たら)5つを送った、というもの。

この日付は年は書かれていないですが、正月15日と書かれています。

斎藤「高政」と名乗っていた時期は弘治2年(1556年)4月頃~永禄2年(1559年)8月頃なので、

「高政」と名乗っていたときに迎えた正月は弘治3年(1557年)・永禄元年(1558年)・永禄2年(1559年)になります。

『信長公記』には、「三郎五郎殿御敵の色を立てさせられ、御取合い半ばに候。御迷惑なる時見次ぐ者は稀なり。かように攻め一仁に御成り候えども、究竟の度々の覚えの侍衆7・800、甍を並べ御座候の間、御合戦に及び一度も不覚これ無し」(信広が謀反した頃、信長が苦しんでいるのを助けるものは稀であった、しかし、このように一人で戦わなくてはいけなくなっても、武功を度々立てた、優れた家来たち7・800人がいたので、戦いになっても不覚を取ることはなかった)とあり、

織田信広が謀反をしたとき、信長は味方が無く苦しい状況にあった、とあるので、

織田信長は尾張北部の平定を完了した永禄2年(1559年)は

『信長公記』の記述と矛盾しているため、謀反のタイミングの候補からは外れるでしょう。

永禄元年(1558年)には織田信長は犬山織田家を味方につけており、

戦いの際に一緒に戦うようになっているので、この年も外れるとすると、

最も可能性が高いのは弘治3年(1557年)になるかな、と思います(;^_^A

しかしそれにしても謀反のタイミングが気になります。織田達成が立ち上がったときに一緒に謀反を起こせばよかったのでは?と思うのですが、

そうなると結局弟にあたる織田達成の家来扱いになるので、織田達成と一緒に挙兵することは耐えられなかったのでしょうか。

そして織田達成が敗れたところで、織田信広は斎藤家と組んで立ち上がることを決意したのでしょう。

織田信広はいつも戦いが起こると一人で真っ先に駆け出していく織田信長の戦闘的なスタイルをいつも見ていたので、

斎藤高政に、「何時も御敵罷り出で侯えば、軽々と信長懸向わせられ侯。左様に侯時、かの三郎五郎殿御出陣侯えば、清洲町通りを御通りなされ侯。必ず城に留守に置かれ侯佐脇藤右衛門罷り出で、馳走申し侯。定めていつもの如く罷り出ずべく侯。其の時、佐脇を生害させ、付入に城を乗っ取り、相図の煙を揚ぐべく侯。則ち、美濃衆川をこし近々と懸け向うべく侯。三郎五郎殿も人数出だされ、御身方の様にして合戦に及び侯わば、後切りなさるべし」(信長はいつも敵が攻め寄せればすぐ清須城を出ていく。私が信長に従って出陣する際、必ず清須城の町中を通る、そうすると必ず留守役の佐脇藤右衛門がやってきて私をもてなすのですが、高政殿が攻め寄せれば今回も必ず佐脇はそうします、その時に私は佐脇を殺して清須城を乗っ取り、成功した合図として狼煙を上げます。そうしたら高政殿は川を渡って信長に攻め寄せなさるがよいでしょう。私が信長の味方のふりをして合戦に加われば、信長は前後に攻撃を受けて敗れるでしょう)と話を持ちかけたのです。

しかしこの作戦はばれてしまう。

なぜバレてしまったかというと、斎藤軍が「うきうき」していたからです(;^_^A

これは冗談ではなくて、『信長公記』に、「美濃衆、何々(いついつ)よりうきうきと、渡りいたり(角川版『信長公記』の校注には「いたり」は「辺り」の方言か、と書かれている。これならば渡し場付近、ということにあるが、「天理本」には「わたりわたり」とある)へ人数を詰め候」と書かれているのである!

この「うきうき」は、「現代語訳 信長公記」では「いつもよりも気合を抜いて」と書かれているのだが、

「うきうき」を調べてもそのような意味はない。

goo辞書では、「楽しさで心がはずむさま。うれしさのあまり落ち着いていられないさま」と書かれている。

しかしこれでも違和感があるので(軍隊がうれしさのあまり…ってなるかな??)、

明治24年(1891年)に作られた辞書、『言海』で「うきうき」を引いてみると、

「心浮かるる状にて」と書かれている。

「浮かるる」とは?引いてみると、

「うかるの訛」とある。

「うかる」を調べると、

「①自ら浮く。②心、落ち居ず。寄辺なく、心定まらず。③心を楽に奪わる」とある。

今回の「うきうき」で当てはまりそうなのは②だろう。

「落ち居ず」は「落ち居(い)る」の否定形である。

「落ち居る」は「心が落ち着く。心が静まる」という意味だそうなので、

今回の場合は、「斎藤軍はいつもと比べて落ち着かない様子です」というのが最も正しい解釈になるだろう。

これを聞いた織田信長は、「去ては、家中に謀叛これあり」(落ち着かない様子なのは、織田家の中で謀反が起こるのを待っているからではないか)と考えます。

織田信長すごっ!と思いますが、

おそらく織田信広あたりが怪しいというのはつかんでいたのではないでしょうか。

この察知能力が本能寺でも発揮されていれば…。それだけ明智光秀がすごかったのか、気が緩んでいたのか…。

織田信長は、佐脇には清須城を決して出るな、町人たちには町の惣構えの入り口を堅く閉じて、信長が帰ってくるまで誰も入れてはいけない、と厳命して出陣します。

そこに信広がやってきますが、中に入れず、「謀反聞え候か」(謀反が知られてしまったか)と思い、

慌てて退却します。これを知った斎藤軍も退却します。

織田信広はその後しばらく抵抗したようですが、『信長公記』には書かれてませんが最終的に降伏したようです。

その後は信長は以下の武将として各地で戦うことになります。

織田信長としては、反抗したけれど、兄だし、無能というわけではないので、

殺さなかった、というところなのでしょうか。

織田信長には有能な一族武将が全然いなかったこともあったでしょうね。

兄弟で有能な人ほとんどいませんから…(;^_^A アセアセ・・・

さて、信長は少しずつ尾張国内の敵を片付けていったわけですが、

その中で、駿河(静岡県東部)の今川義元と関わる出来事が起きることになります(◎_◎;)

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