社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 織田・今川の本格的な武力衝突~小豆坂の戦い(1548年)

2023年4月27日木曜日

織田・今川の本格的な武力衝突~小豆坂の戦い(1548年)

 三河松平氏・戸田氏連合は東西両方向から織田氏・今川氏の攻撃を受け、

絶体絶命の状況に陥っていました。

そのような中で、松平広忠は今川氏に従属することを決意します。

織田方につかなかった理由は、対立する松平信孝がいたのが大きかったでしょうか。

今川氏と戦っていた戸田氏は松平広忠の裏切りに怒り、

広忠が今川氏に送った人質である竹千代(のちの徳川家康)を途中で強奪し、

織田信秀のもとに送ってしまいます。

こうして、三河をめぐり、織田氏・今川氏の関係の緊張は高まっていき、

ついに両軍は衝突することになります…!(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

※マンガの2ページ目は都合により公開しません<(_ _)>

小豆坂の戦い

前回でも触れましたが、天文16年(1547年)9月28日、松平広忠は渡・筒針で松平信孝と対戦、これに「竹千代を相助けるべく」今川軍も援軍を出していました。

ここで織田ー今川の初めての衝突があったわけですが、この戦いは松平広忠の敗北に終わっています。

おそらく、今川氏もまだ本腰を入れたものではなかったのでしょう。

苦しい状況の松平広忠は、10月に奇策にうって出ます。

対立する上和田城城主の松平忠倫を暗殺するのです。

『松平記』では、竹千代の人質の話より前に出てくるのですが、

広忠は「三左衛門(忠倫)を切て参り候へ」筧三郎(重忠)に命令、これを受けて筧三郎は忠倫に偽りの降伏を申し出て近づき、忠倫の脇を二か所ついて殺害して城から脱出、忠倫の兵士たちは捕まえようとしたが追いつけなかった…とあります。

『三河物語』でも、竹千代の人質の話の前に出てきます。

広忠は筧図書(重忠)を呼んで、「忠倫を斬ったら、百貫の土地をやろう」と言った、そこで筧図書は和田の砦に忍びこみ、寝ていた忠倫を4・5回突き刺して殺した、しかし忍びこむので体力を消耗したのか腰が立たず、そこで、勇士と有名な、弟の筧助太夫が兄を背負って城から脱出した…。

また、今川義元も驚きの行動に出ています。

翌年の天文17年(1548年)1月26日、今橋城の戦いの際に今川氏に寝返った野々山政兼尾張大高城の攻撃を命じたのです。

これは、援軍としてくるはずだった松平広忠が来なかったため、野々山政兼の戦死に終わったのですが、尾張に侵入を許したことに織田信秀も驚いたことでしょう。

一方、織田信秀も黙っておらず、さまざまな行動に出ています。

天文17年(1548年)1月に、作手城主・奥平定勝の弟、定友が今川氏に謀反、吉田城を攻撃していますが、これは織田信秀とつながっていたのではないでしょうか。

さらに、織田信秀は2月~3月頃に、相模(神奈川県)の大名・北条氏康(1515~1571年)に今川氏を挟撃することを持ちかけています。

それに対し、氏康は当時、関東での山内上杉氏・里見氏などとの戦いで手一杯であり、この上、今川も敵に回すことはできない状況にあったので、

「近年一和候といえども、彼の国より疑心止むこと無く候間、迷惑に候」(今川義元と和睦したとはいえ、まだ信用されていない時に、このような話をされては迷惑である)と答えて断っています。

北条氏康を動かすことに失敗した織田信秀でしたが、尾張にも侵入されて放置するわけにもいかず、三河の岡崎城攻撃を考えますが、それに対し、今川義元も太原雪斎に命じて兵を出し、ついに織田・今川は本格的な戦闘に突入することになります💦

ここで起きた戦いを小豆坂の戦いといいますが、

小豆坂の戦いが起きた年を1542年とする書物もあるのですが、

小豆坂の戦いが天文17年(1548年)に行われたことを示す今川義元が出した文書が複数あります。

西郷弾正左衛門あての、小豆坂での側面からの攻撃を誉めたたえる、天文17年3月28日の文書

松井宗信あての、小豆坂で最前線で戦い、殿軍も務めたことを誉めたたえる、天文17年4月15日の文書

朝比奈信置あての、小豆坂で最前線で戦ったことをほめたたえる、天文17年7月1日の文書

これらの史料から、小豆坂の戦いは天文17年(1548年)に行われた戦いだと考えるべきでしょう。

では、天文17年(1548年)の小豆坂の戦いはどのような戦いであったのか。

それについて、『松平記』・『三河物語』には次のように記されています。

『松平記』

天文17年(1548年)3月19日、織田信秀は岡崎城を取るために安城城から攻め寄せてきた、そこで今川義元は太原雪斎を大将に、両朝比奈(駿河朝比奈家の朝比奈信置と遠江朝比奈家の朝比奈泰能)は矢作川を下流の方から越えて上和田に陣を構え、小豆坂に進んだ、尾張勢は織田信広を大将とし、小豆坂で両軍が接近して戦いとなった、朝比奈信置が一番槍となり、岡崎衆を率いて織田信広隊を突き崩し、三町(約300m)ほども追ったが、尾張勢は二の備えが反撃して、岡崎衆の林藤五郎・小林源之助などが戦死した、しかし岡部元信が側面から尾張勢を攻撃して再び盛り返し、駿河衆の小倉千之介が尾張勢の先手の物頭「やり三位」などを討ち取った、尾張勢は力を落として敗北し、織田信秀は岡崎城を得ることができずに古渡の城へ帰っていった、この年の内に、岡崎衆が山中城(本宿城)を攻め落とし、守っていた松平重弘は落ち延びていった…。

『三河物語』

今川義元は「織田に人質がとられたのに、それでも織田につかないとは。この上は松平に加勢しよう」と言って、太原雪斎を大将として、駿河・遠江・東三河の兵を集めて出陣、藤河に着陣した、対する織田信秀もこれを聞いて清須の城を出て上和田の砦に着陣した、馬頭之原で対決しようと、夜明け前に出発して、山道を進んだ、一方、駿河衆も上和田砦を攻撃するため夜明け前に出発、小豆坂を登ったところで、織田信広を先陣とする尾張衆と遭遇し、互いに動転したが、気を取り直して戦いが始まり、織田信広は敗れて「盗人木」まで退却、ここにいた織田信秀が押し返したが、駿河衆もこれを押し戻した、ここで両軍は引きあげたが、尾張衆は2回押されて死傷者も多かったので、駿河衆の勝ちだといわれた、織田信秀は安城城に織田信広を置いて清須城へ去っていった…。

『松平記』と『三河物語』では多くの相違点があります。

①『松平記』では、織田が攻めたので、今川が松平を助けるために出陣しているが、『三河物語』では、今川の出陣を聞いて、織田信秀が兵を出している。

→距離的な問題もあるので、『三河物語』のほうが正確か?

②『松平記』では今川軍は矢作川を越えて上和田に布陣しているが、『三河物語』では藤河に布陣している。

→上和田砦は矢作川よりも東側にあるので、『松平記』の内容は位置関係的に誤り。矢作川を越えて~は、織田軍のことか?

③『松平記』は今川方の快勝のように書いているが、『三河物語』では今川方の優勢勝ちのように書いている。

→もし快勝したのであれば、そのまま安城城を攻撃しそうなものだが、攻めていないことから考えると、両軍とも被害が大きかったと考えるべきであり、『三河物語』の方が正確か。

④『松平記』では織田信秀は古渡城に帰っているが、『三河物語』では清須城に戻っている。

→当時、織田信秀は古渡に城を築いてここに移っていたので、『松平記』のほうが正確か。

以上から考えると、『三河物語』のほうが内容的に正確と思われるのですが、

『松平記』にしかない詳細な記述もあるため、今回のマンガは両者をミックスさせて描いてみました(;^_^A

さて、次は『信長公記』で小豆坂の戦いはどのように書かれているのかを見てみましょう。

八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取出し、七段に人数を備へ候、其の折節、三川の内あん城と云ふ城、織田備後守かかへられ候き。駿河の由原先懸にて、あづき坂へ人数を出し候。則ち、備後守あん城より矢はぎへ懸出し、あづき坂にて、備後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿初めとして既に一戦に取結び相戦う。其の時よき働の衆、織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿・織田造酒丞、是れは鎗きず被られ、内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名。那古野弥五郎、清洲衆にて候、討死候なり。下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度かかり合いかかり合い折しきて、各手柄と云う事限りなし。前後きびしき様体是れなり。爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。是れより駿河衆人数打ち納れ候なり。」[天理本では「前後きびしき様体是れなり」の後が、「後には互いに人数引退候也、尾張八郡に歴々在りと雖も、武篇の貴ぶべきは織田備後守一人と見えたり」となっている。]

(8月上旬、今川軍は三河の正田原に進んで陣を構えた。その頃、安城城は織田信秀が守っていた。今川軍の先陣は太原雪斎で、小豆坂に進んだ。そこで、信秀は安城城を出て矢作川を渡り、小豆坂で今川軍と戦った。その時活躍したのは、信秀の弟である信康・信光・信実、織田信房は槍傷を受けた、内藤勝介は有名な武士を討ち取った、下方定清・佐々正次・佐々孫介・中野一安・赤川景弘・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口教継は、三・四度と敵に突進し、それぞれ多くの手柄を立てた。非常に厳しい戦いで、那古野弥五郎は清須織田家から加勢に来てくれた者であったが太原雪斎に討ち取られた。この後、今川軍が安城城周辺に多くやってくるようになった。)[天理本部分…互いに引き退いた、尾張国には優れた武士が多くいるけれども、勇敢な武士といえば織田信秀ただ一人であろう]

8月というのは誤りですね。

『官本三河記』など8月とする史料もあるのですが、今川義元の書状はいずれも8月以前に出ているので…(;^_^A

「駿河の由原先懸」とあり、由原なる者が今川軍も先陣であったと書かれているのですが、この由原というのは、どうやら名字が「庵原」である太原雪斎のことであるようです。しかし大将の雪斎が先陣というのは考えづらく、これも誤りでしょうか。

この戦いで活躍した一人に、織田信康が出てきますが、

織田信康は1544年の美濃攻めの大敗の際にすでに戦死しているので、これも誤りです。

この信康を除いた残りの活躍した人物を紹介すると、

織田信光守山城の城主。以前のマンガに登場。

織田信実…調べても小豆坂の戦いに参加した以外のことは伝わっておらず💦、若くして亡くなったものと思われます。。

織田信房織田という名字ですがこれは祖父が与えられたもので、血はつながっていないようです。

内藤勝介…那古屋城主となった吉法師(織田信長)の補佐につけられた家老の4番目(①林秀貞②平手政秀③青山与三右衛門)。

下方定清源氏の小笠原氏の一族。守山城から少し南にいったところにある、上野城の城主(三河の上野城とは別)。その後も何度も信長公記に出てきてかなり活躍しているのですが、「信長の野望」にはほとんど出てきません(ナゼ)(-_-;)…と思ったら、最新作「信長の野望・新生」に登場するという話が!すげぇ!😍

統率 69 武勇 84 知略 34 政務 13 ですか…

かなりの脳筋…(;^_^A アセアセ・・・

佐々政次佐々孫介どちらもあの佐々成政の兄。成政は?というと、1536年生まれと言われているので、そうなるとこの時まだ12歳頃なので、戦いには参加していなかったのでしょう。

中野一安源行家の子孫であるといいます。由緒正しいですね~😦以前のマンガで出てきた今川氏豊の娘を妻としていました😮今川氏豊の娘は尾張に残っていたんですね…。今川氏の娘と結婚とは…さすが源氏の血筋、といったところでしょうか??💦その流れで今川氏についてもよさそうなもんなんですが、織田氏にせっせと仕えてその後も活躍しています。

赤川景弘…詳しいことはよくわからない人物であるものの、佐久間信盛村井貞勝らと連名で書状を出したりしているので、けっこう地位の高い武士だったようです。

神戸市左衛門永田次郎右衛門…一切がナゾの人物。永田次郎右衛門は、天理本ではこの戦いで戦死したことになっている。

山口教継大内氏の一族であるという。愛知郡笠寺の武士で、同じ愛知郡にあり、三河との境目の近くにあった鳴海城を任されるほど信秀から信頼されていた。

…となります。

(天理本では他に、土肥孫左衛門は膝を斬られて退却した、と書かれている)

また、この戦いで活躍した人物は「小豆坂七本槍」とたたえられており、

「織田信光・織田信房・岡田重能・佐々正次・佐々孫介・中野一安・下方定清」

…の七名なのですが、この中で岡田重能のみ信長公記に出てこないのがよくわかりません…(;^_^A

岡田重能1527~1583年)は文武両道の武士で、話が上手であった…と、

友人であった小瀬甫庵「太閤記」に書いています。

「七本槍」というと、賤ヶ岳のを思い浮かべますが、

福島正則・加藤清正は、「自分たちは小豆坂のパクリですよ」と笑ってしゃべっていたという話があるので、けっこう名の知れた存在だったようです。

この七本槍と呼ばれる者たちの活躍はあったものの、

『信長公記』には、厳しい戦いであった、今川軍が周辺に現れるようになった(天理本では互いに引き退いた)とあり、

『松平記』『三河物語』と同じように織田軍の劣勢に終わったことが記されています。

いくつか誤りは見られるものの、全体的に見れば『松平記』や『三河物語』とだいたい同じ経過を示しており、ここからもやはり小豆坂の戦いは天文17年(1548年)にあったことを裏付けることができます。

さて、織田軍の劣勢に終わったものの、今川氏の攻勢をある程度とめることに成功した織田信秀は、続いて、美濃でのリベンジのために動くことになります…(◎_◎;)

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