1535~1536年にかけて、
強敵・松平清康が死に、姉の結婚相手であり、弟の舅(妻の父)である松平信定を岡崎城に入れ、
清康の子・広忠を岡崎城から追い出す事に成功した織田信秀は、
続いて尾張国内の勢力拡大を図っていきます。
そこで目をつけたのが、なんと友好関係にあった今川氏豊(以前のマンガに登場)が持つ那古野城でした…!(◎_◎;)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇那古野城乗っ取り
『信長公記』には、織田信秀による那古野城攻略のことは触れられていないのですが💦
『名古屋合戦記』によると、那古野城攻略の経緯は次のようなものであったといいます。
織田信秀と今川氏豊は共に連歌が好きで、扇子箱に句を入れて贈りあっていたが、
ある時使者が那古野城に行く際に誤って小田井川に箱を落としてしまった。
それを知った氏豊は、勝幡と那古野は道も遠く、使いの者を送りあうのも時間がかかって待ちきれない、今回のように箱を無くすこともある。10日ほど那古野に泊まられるのはどうですか、そこで心行くまで連歌を楽しみましょう、と提案をした、
その後、信秀は何度も那古野城を訪れ、ある時は数日間、ある時は10日余り、那古野城に滞在するようになった。
その中で信秀は、「本丸ニ向ヒ窓ヲ切リ開カル」…泊まっていたところに、城主が住む本丸に向けて窓を作った。
今川の家臣たちがこれを矢狭間(矢を射るための穴)ではないか、と怪しむと、今川氏豊は、
織田信秀殿は風流な人だから夏の風を取り入れるために穴をあけたのであろう、
「此人ニカギリ別心有ルベキト覚エズ」…織田信秀殿だけは裏切るとは思えない、と答えて気にしなかった。
ある時、那古野城に滞在していた織田信秀は急に苦しみ始めたため、
3月11日に大勢の親族が那古野城に集まった。
すると夜になって、那古野城の市場周辺で火災が起き、南風が激しかったので、周囲の寺社に延焼、城に火の粉がかかるまでになり、人々が動揺する中で、
城の東南から勝幡勢が那古野城に乱入、内部にいた勝幡の者たちもこれに呼応して城内に火を放ち、本丸に向けて攻撃を仕掛けます。
火事に集まってきた今川の者たちは、鎧などを何も身につけていなかったのでろくに抵抗もできず、全員討ち取られてしまいました。
今川氏豊は混乱に紛れてなんとか城を脱出、母方の縁を頼って京都に落ちのびていった…と。
また、江戸時代に尾張藩士が記した随筆、『塩尻』には、この事件について記した後、応仁の乱以降、このようなことばかり起きたので、人々の心は山犬やオオカミのようになってしまった…と書かれています。
『名古屋合戦記』・『塩尻』両方とも、那古野城攻略は享禄5年(1532年)のこととしていますが、
以前のマンガで触れたように、1533年の時に今川氏豊は那古野城主として健在なので、
1532年ではありえず、天文7年(1538年)になって突然信秀が那古野城周辺に書状を出すようになったので、
那古野城攻略は1538年とするのが現在通説となっているようです。
織田信秀がこのタイミングで那古野城を攻撃したのは、
駿河(静岡県東部)の今川義元(氏豊の兄)が天文6年(1537年)2月、外交方針を転換して北条氏と対立、
天文8年(1539年)まで戦いとなっていた(第一次河東一乱)時期であり、
今川氏が今川氏豊を救援しに来ることはできないと考えたからかもしれません。
こうして那古野城を手に入れた織田信秀は、さらに尾張に勢力を拡大していくことになるのですが、
一方、敗れた今川氏豊は京都に逃れた後、兄の今川義元に迎え入れられて駿河で余生を過ごしたという説があります。
山科言継は弘治3年(1557年)3月に、「今朝、今川那古屋殿へ隼人を遣わし、太刀にて礼を申し候いおわんぬ。所労と云々」と記録していますが、この「今川那古屋殿」が今川氏豊のことだと言われています。
もしかすると、尾張を攻撃して那古野城を奪還した際には、弟である今川氏豊を戻すつもりだったのかもしれません…ね。
その後の氏豊の様子は不明なのですが、今川氏滅亡が1569年で、氏豊はその時47歳ですから、生きている可能性は十分にあります。
氏豊は、今川氏の滅亡をその目で見て、何を思っていたのでしょうか…。
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