尾張守護・守護代がともに力を失う中、
台頭してきたのは奉行を務める弾正忠家でした。
織田良信・織田信貞(定)の二代で、中島郡・海東郡に勢力を広げ、
織田信貞の時には一大商業地である津島を手に入れて豊富な資金を獲得し、
経済力も拡大しました。
その織田信貞の跡を継いだのが、あの織田信長の父である織田信秀なのですが、
若いころの信秀について書かれている貴重な史料があります。
それを『言継卿記』というのですが、
信秀が出てくる場面は1533年…。
織田信長が生まれる1年前のことです!!😦
『言継卿記』には、筆マメな山科言継により、当時の尾張の様子が詳しく記されています。
今回は、その中でも印象に残ったエピソードをマンガで紹介したいと思います😆
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇蹴鞠による交流
天文2年(1533年)7月8日、織田信秀の招きを受けて、
権中納言の飛鳥井雅綱(1489~1571年)は蹴鞠を教えに尾張の津島にやってきました。
(雅綱は他にも、1525年に北条氏康、1549年に北条氏政・氏規に蹴鞠を教えています。)
山科言継(1507~1579年)は雅綱と18歳も歳の開きがありますが交友が深く、雅綱に誘われていっしょに尾張に行ったのですが、
言継はその時の様子を日記(『言継卿記』)に詳細に記録しています。
午後5時頃に織田信秀が雅綱を迎えに来て、雅綱は馬に乗って勝幡城に向かいましたが、
織田信秀は徒歩でその後を追ったといいます(「三郎不乗、跡に来候了」)。礼を尽くしているわけです。
夕食として冷麺と吸い物・酒が出ましたが、
その後、案内された新造の客殿の立派さに山科言継は驚いています
(「城之内新造に移候了、未徒移之所也、驚目候了」)。
9日、蹴鞠を信秀たちと午後2時頃から3時間にわたって行い、
その物珍しさから見物人が数百人も集まったといいます
(「見物之人数数百人有之」)。
10日も信秀たちと蹴鞠。
11日、織田右近という者と会話をしていますが、その中で、去年、織田信秀は守護代家と和睦(「和談」とある)をしたが、ようやくこの日、弟の信康を清須城に挨拶(「出頭」とある)に行かせた、という内容が出てきます。
ここから、1532年まで織田信秀は守護代家と対立関係にあったことがわかります。
12日、信秀たちと蹴鞠をしましたが、その途中で守護代・織田達勝が勝幡城にやってきて、一緒に蹴鞠をしました。
信康の清須城訪問の際に、蹴鞠に来られませんか、という話があったのかもしれません。
17日、信秀たちと蹴鞠。
18日、信秀たちと蹴鞠。
20日、信秀家臣の平手政秀の屋敷を訪れて、精巧な彫り物がしつらえてある太刀を贈られてビックリしています。また、風流な座敷の様子もすごかったようです(「太刀遣候了、種々造作驚目候了、数寄之座敷一段也」)。
21日、信秀たちと蹴鞠。
22日、信秀たちと蹴鞠。
23日、和歌の会、蹴鞠。那古野城主・今川氏豊(竹王丸。「那古屋十二歳」と書かれている)が蹴鞠を教えてもらうために勝幡城にやってきたので、信秀たちと一緒に蹴鞠を行う。
25日、信秀たちと蹴鞠。今川氏豊も参加。
26日、信秀たちと蹴鞠。今川氏豊も参加。
27日、今川氏豊が来たので、蹴鞠の作法を教える。氏豊、蹴鞠が大好きになったんでしょうね(;^_^A
林秀貞も蹴鞠の門弟となりました。
この日、勝幡城から清須城に移ります。
29日、信秀たちと蹴鞠。織田達勝も参加。
8月2日、織田達勝たちと蹴鞠。信秀は参加せず。
4日、達勝たちと蹴鞠。
5日、達勝は饅頭が百個も入った鉢を持ってきました(;^_^A
6日、達勝達と蹴鞠。信秀も参加。途中で飛鳥井雅綱が疲れを訴え、その後、寝込んでしまいます。
7日、織田信秀が藤左衛門の所に出向いた、これは去年の戦い以来始めてのことであるらしい、と書かれています。ここから、織田信秀は守護代家だけでなく、清須三奉行の1つである藤左衛門家とも争っていたことがわかります。また、信秀の伯父(母の兄)である、とも書かれています。
織田信秀の母は「いぬゐ」といいますが、父は藤左衛門家の良頼で、兄が良縁でした。「いぬゐ」は1527年にはすでに亡くなっています。
8日、雅綱は高熱を出し、信秀たちが見舞に来ました。
9日、信秀が再び見舞に来ました。織田達勝も見舞に来ます。
10日、信秀が見舞。
11日、信秀が見舞。
12日、信秀の代わりに平手政秀が見舞う。
13日、信秀は内藤という者を見舞に行かせた。達勝も見舞う。
14日、信秀・達勝が見舞う。雅綱の帰京の相談。雅綱の祈祷の実施。
15日、信秀・達勝が見舞う。
16日、達勝が見舞う。雅綱はこの日、ようやく回復しました。
17日、織田達勝・平手政秀たちが来る。達勝は別れのあいさつにと贈り物をする。
18日、平手政秀が来たので、葛袴を贈ったが、政秀はお礼に200疋のお金を渡しました。
銭一貫文=銭1000文=銭100疋、だそうなので、二貫文分のお金ということですね。これは現在だと12万円くらいの金額になるそうです。
19日、織田達勝たちが来る。
20日、京都に向かって出発。達勝・信秀たちが別れのあいさつに来て見送ります。織田右近は23日まで同行し、美濃の垂井まで来たところで別れました。
…以上、7月8日から8月20日まで1か月以上にわたって飛鳥井雅綱・山科言継は尾張に滞在していたわけですが、
後半は伏せっていることが多かったものの、計15日も蹴鞠をしています。
この期間中に織田信秀は対立していた織田達勝と関係を修復させることに成功させていますが、飛鳥井雅綱を招いた理由の1つにはそれがあったのかもしれません。
また、途中で那古野城主の今川竹王丸(氏豊)が頻繁に蹴鞠に参加していますが、
①勝幡城に泊まっていた
②飛鳥井雅綱が清須城に移ってからは蹴鞠に参加していない
…ということから、織田信秀と親密であったこと、織田達勝とは疎遠であったこと、がうかがえます。
しかし、この今川竹王丸(氏豊)に対し、織田信秀は驚きの行動に出ることになるのです…!!(◎_◎;)
0 件のコメント:
コメントを投稿