社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: はっきりしない織田信長の誕生日

2023年4月1日土曜日

はっきりしない織田信長の誕生日

 前回のマンガでも紹介したように、飛鳥井雅綱尾張に迎えて蹴鞠の会を無事成功させた織田信秀(弾正忠家)の尾張における勢力はさらに高まっていきました。

そのような中で、蹴鞠の会の翌年の1534年に織田信長が誕生します。

母は土田御前で、美濃(岐阜県南部)の土田(どた)に住んでいた、

六角氏の一族である土田政久の娘です。

弾正忠家は代々、生駒・土田系の娘と結婚していたようです。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇織田信長の誕生日はいつか?

織田信長は天文3年(1534年)に勝幡城にて生まれたのですが、

実は何月何日に生まれたのかははっきりしていないのです(;^_^A

あんなに有名人なのに…💦

比較的早くに作られた『名古屋合戦記』には、「天文3年の正月」とあり、

江戸時代に書かれた『総見記』は「天文3年の春(1~3月)」、

『土岐斎藤軍記』などは「5月28日」としています。

それに対し、『日本史』を書いたルイス・フロイスは、

「その年の第5月の彼が生まれた日に…神体を礼拝しに来るように命じた」という「暴挙に及んだので…歓喜が19日以上継続することを許し給うことがなかった」…つまり、誕生日から19日以上生きることができなかった、と書いており、

信長が本能寺の変で死んだのは天正10年(1582年)6月2日であるため、

その19日前…5月12日が誕生日、ということになります。

(当時は5月は29日まで)

フロイスはイエズス会総長あての書簡でも、

「安土山の祝祭から19日を経た時…彼の身体は灰燼となって…」と記しています(-_-;)

総長あて書簡は信長死後4か月後という一番近い時期に書かれたものであり(『名古屋合戦記』の可能性もあるが、成立年が不明)、

「5月12日説」がもっとも有力な説であるようです。

しかし、だからといって現在の私たちが5月12日に、織田信長誕生日だ!おめでとう!とやってしまってはいけません。

当時の日本で使われていた暦は「旧暦」…太陰暦というやつで、

月の満ち欠けによって1年をはかるやつです。

月が満月🌕になって、暗くなって🌑、また満月🌕になるまで、だいたい29.5日かかるので、これが12か月分にすると、1年は354日ほどになります。

これが積み重なっていってどんどんずれるわけですね。

1年で11日のズレ、3年たつと約1か月ものズレになってしまいます。

それを修正するために、3年に一度、「閏月」をもうけ、その時は1年を13か月としたのです(;^_^A

「織田信長 誕生日」と検索すると、「6月23日」と出てきます。

これは当時のヨーロッパで使われていた「ユリウス暦」によるもので、

ローマのカエサルが作った1年を365.25日とするものです。

しかし、実際の1年は、365.2422日らしいので、

徐々にずれができていってしまう。

(例えば、実際の1000年は365242.2日分なのに、

ユリウス暦の1000年は365250日分となり、7.8日も開いてしまう)

これを修正したのが「グレゴリオ暦」で、これは1年を365.2425日とするもの(グレゴリオ暦ができたのは1582年、織田信長が死んだ年なんですねー💦)。

信長の誕生日を5月12日とした場合、これをグレゴリオ暦に変換すると、

「7月3日」になります。。

グレゴリオ暦は現在でもつかわれているものなので、

一番正確なのは「7月3日」でしょう。

織田信長の誕生日を祝うならば7月3日にしなければいけません。


0 件のコメント:

コメントを投稿

新着記事

フロイスの岐阜探訪~「信長の極楽」⁉[岐阜城編]

  ※マンガの後に補足・解説を載せています♪ ● フロイスは岐阜城訪問について、書簡に次のように書いています。 …翌朝、私たちの宿は遠かったので(エヴォラ版ではこれに加えて「雨がさかんに降っていたので」とある)、ナカガウア[通称]・ファチロザエモン[本名](中川八郎左衛門重政) ...

人気の記事