順調に勢力を拡大していた織田信秀ですが、
その信秀を脅かす強敵が東から現れます。
その人物は松平清康、あの徳川家康の祖父でした🔥
しかし織田信秀はこのピンチを乗り切ります。
どのようにして危機を乗り越えたのか。
今回はそれについて見ていこうと思います!😆
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇森山崩れ(守山崩れ)
徳川家康の祖父である松平清康(1511~1535年)は、
信ぴょう性が低い書物ではありますが、『三河物語』によれば、1523年に家督を継ぎ、安城城主となりました。
清康の父の信忠(1490~1531年)はまだ33歳でしたが、家臣たちから力がないと見られて引退を迫られた結果、清康が受け継ぐことになったようです(◎_◎;)
清康は家督を受け継いだ時は12歳でしたが、この年には早くも戦功を賞した判物が残っており、
戦場に出ていたことがうかがえます。
1524年頃に岡崎松平家と戦い勝利して山中城・岡崎城などを奪い、
本拠を山中城に移します。
一方で、柴裕之氏は、『青年家康』で家督を継いだ時安城城主にはなっておらず、
叔父の松平信定が安城城を継承し、清康は山中城に移された、と書いており、
『三河物語』に書かれた内容とだいぶ違いが見られます。
岡崎城についても、
柴裕之氏は、安城城から追いやられた清康は岡崎松平家に接近し、婿養子となることを条件に和睦、岡崎城に入った、としており、これまた印象が違ってきます💦
また、岡崎城は当時は明大寺城と呼ばれ、清康により現在の位置に作り直されたようです。
清康はその後、
1849年に編纂された『徳川実紀』によれば、
1529年に東三河の吉田城(今橋城)を攻撃、迎撃した牧野信成を討ち取って城を落とし、
次いで田原城を攻めて降参させると、
牛久保城・設楽城・西郷城・二連木城・田峯城・野田城なども慌てて降伏した、
翌年には熊谷直盛の守る宇利城を落城させた、…とされていますが、
どうやらそれを裏付けるような資料は乏しいようで、『新編安城市史』では疑問を呈されているようです💦
柴裕之氏は、『青年家康』で、清康は諸家から抗争の解決・援軍を頼まれたのを積極的に受け入れたものではないか、としています。
(つまり攻略目的ではない。勢力は拡大できるが)
どうやら確からしいのは、
1533年頃に西三河の三宅氏と争い、1534年、広瀬城の三宅氏と寺部城の鈴木氏が連合して攻めてきたのを岩津で撃退し、信濃(品野?)から来た兵も岡崎城近くの井田野で打ち破った、というものです。
清康はこの際、三河国三宮である猿投神社の堂塔9つを焼いています。
おそらく、清康に敵対したからでしょう。
『徳川実紀』によれば、
尾張近くでの清康の大勝利に、守山城主の織田信光(織田信秀の弟。1516~1556年)は恐れをなして、
清康に金品を贈り、尾張に攻めこまれることがあれば美濃の侍たちも味方に引き入れて先鋒を務めます、と言ったといいます。
それを受けて清康は1535年、尾張の守山城を攻めるために岡崎城から出陣します。
信頼できる資料である『松平記』には、
「森山の城主御味方仕、美濃の侍衆多内通の事有。雑兵一千余騎にて駿河よりも御加勢有て打立給ふ。其日石崎に着陣有。」
…とあり、駿河の兵…つまり今川の兵も味方に加わっていることがわかります。
また、守山城に向かう途中に石崎(岩崎)城を経由していることから、
尾張の東端にあたる岩崎城をすでに攻略していたことがうかがえます。
岩崎城歴史記念館のサイトにある記述によれば、岩崎城は織田信秀が築城したもので、荒川頼宗が守っていたが、1529年に清康によって攻め落とされた…そうです。
また、同年には尾張の北東端にある品野城も攻略したようです。
品野城を守っていたのは坂井秀忠で、織田信秀の家臣とされているのですが、
これらの内容はどうやら信ぴょう性の低い『三河物語』に拠ったものなのですが、事実とすれば、
→織田信秀が愛知郡・山田郡の大半を支配するまで勢力を拡大していたが、
織田信秀は尾張の三河と接する部分を清康に奪われ、勢力を後退させていた…
ということになります。
そしてさらに清康が尾張に深く攻め込んできたわけで、織田信秀にとって一大危機であったわけですが、
守山城に到着した清康に思わぬ情報が尾張の者からもたらされます。
『松平記』によれば、それは、
清康の叔父の松平信定が織田方に寝返り、上野城にたてこもっているというのです。
清康方の武将たちは、
「森山も内膳殿むこ、大給源次郎殿へも内膳むこ、小川水野も婿の契約あり、長澤の上野殿も婿也。是ハ由々鋪大事なりいかがせん」
…と動揺したそうです。
なぜ動揺したのかというと、
守山城の織田信光・大給城の松平親乗(大給松平家)・小河城の水野信元・長沢松平家で上野城主(名前は不明)は、いずれも松平信定の娘を妻にしていました。
これらの者たちも織田方に回るのではないか、と考えたのです。
それに対し、清康は松平信定のことをよく知っているが、恐れるに足りない男だ、(「清康は少もさわき給ハず、何内膳殿武勇の程日来(ひごろ)知するしたり恐るるにたらさる事也、と中々驚き思召事なし」)と発言し、驚く様子を見せなかったといいます。
そのころ、清康家臣に阿部定吉というものがいましたが、
松平信定と親しくしていたので、信定とつながっているのではないか、と陣中で噂されるようになっていました。
そんな時、清康の馬が陣中で暴れだし、周囲の者たちが騒ぎ出したのを、
阿部定吉の子、正豊は父が殺されそうになっているのだと勘違いし、
駆けつけて清康を斬り殺してしまいます。
残された松平軍は岡崎に引き返しますが、
そこに織田信秀が松平信定と組んで三河の大樹寺まで攻め寄せてきます。
清康の弟の松平康孝が大将となり、井田でこれを迎撃したもののいかんせん少数であり(700~800ほどであったという)
松平勢は多くの死者を出します。
(『松平記』には、「随分の侍衆悉討死、林、青山、植村、高力父子等」…とある)
しかし、織田信秀は「清康が死んでも、その家来たちはなかなか寝返ろうとしない」と驚き、
織田信秀は岡崎城には攻め寄せず和睦して尾張に帰ったといいます。
残った松平信定は岡崎城に入り、松平清康の子の広忠を追放して岡崎城を乗っ取ります。
織田信秀の和睦の条件がもしかすると松平信定を岡崎の城主にすることであったのかもしれません。
…以上が清康死亡の「森山(守山)崩れ」の顛末なのですが、
まず推測できることは、
織田信光の清康への寝返りは偽りであり、兄の織田信秀・妻の父である松平信定と協力して守山城へ誘い出したものだろう、ということです。
そしてもう一つは、
清康を殺害した阿部正豊も直後に殺されているのですが、
父の阿部定吉は何もおとがめなしであったということから、
清康に服属したと者たちからの了解があって実行された暗殺であったということです。
柴裕之氏は、清康の度重なる軍事行動に松平家中で不満が高まった結果、起きた事件だろうと推測しています。
清康としてはあちこちに手を出して三河で勢力を伸ばそうとしたのですが、
そのやり方には無理がありすぎ、だんだんと孤立・内部に敵を増やしていったのでしょう。
一方で味方を増やしていったのが松平信定でした。
その松平信定は三河の桜井城を本拠としていたのですが、
尾張とも深い関わりがありました。
以前のマンガにも登場した連歌師の宗長は、大永6年(1526年)2月に守山城を訪れたときのことを日記にこう書いています。
「廿七日、尾張国守山松平与一館千句、清須より織田の筑前守・伊賀守同名衆に、守護代坂井摂津守、皆はじめて人数、興ありしなり、
あつさ弓は なにとりそへ、はる野かな
新地の知行、彼是(かれこれ)祝言にや」
…守山城にある松平信定の館で、千句(千の句を続けて詠むこと)の興行を行った。清須城からは織田良頼(藤左衛門家。小田井城主)・織田伊賀守(不詳)・小守護代坂井大膳が集まり、松平信定が土地を新たに与えられたことを祝った。
ここからは、1526年時点で松平信定が守山城主となっていた・もしくは守山周辺に土地を得たことがわかります。
当時は守護代家・藤左衛門家と弾正忠家が対立していたと考えられ、
守護代家・藤左衛門家が松平信定を味方につけるために、
守谷城主にした・もしくは守山城周辺の土地を与えたのではないでしょうか。
しかしその後、守護代家と弾正忠家が和睦した1532年より前か後か、いつの時期かはわかりませんが、
松平信定は弾正忠家の織田信秀の弟、信光に娘を嫁がせます。
守山城主も織田信光に交代したようですが、
そのころから謀略が練られ、
岡崎城を手に入れるのを手伝ってもらう代わりに守山城を信光に譲ったのかもしれません。
なんにせよ、森山崩れで得をしたのは織田信秀と松平信定でした。
織田信秀としては東の強敵がいなくなり、
松平信定としては念願の岡崎城主になれたわけです。
謀略で松平清康を葬った織田信秀は、
尾張・三河における勢力拡大に一層邁進していくことになります🔥
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