美濃攻略に失敗した織田信秀。
勢力を弱めた織田信秀に対し、東の三河では松平広忠が立ち上がります…!(◎_◎;)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇三河での勢力拡大と今川氏との対立
天文13年(1544年)、美濃で織田信秀は大敗しますが、
松平広忠に目立った動きはなかったようです。
前回のマンガで登場した宗牧の書いた『東国紀行』には、
11月中旬頃に、阿部定吉が尾張国境まで出陣したことが記されていますが、
短期間で帰城しています。
(「安部大蔵なと知人、をはりさかひまで出陣の事ありていまた不帰、…翌日大蔵も帰陣したれと、」)
松平広忠が動くのは翌年の9月のことでした。
安城城周辺を回復するために出陣したのです。これを第二次安城合戦と呼びます。
この戦いで松平広忠は敗北、殿軍を務めた本多忠豊(忠勝の祖父)が戦死しています。
一方で織田信秀もまだ敗戦から戦力を立て直すことができておらず、
安城城を攻め落とすことなく尾張に戻ったようです。
この年の7月から11月にかけて駿河(静岡県東部)東部で今川氏と北条氏の争い(第二次河東一乱)が起き、今川氏が勝利して戦いが終わります。
今川義元はこれによって東部の不安を無くすことに成功し、以後、三河進攻を始めていきます。
天文15年(1546年)、今川義元は家臣(軍師ともされる)太原雪斎に命じて三河東部の戸田宣成が守る今橋城を攻撃、11月15日ころにこれを陥落させました。
義元はここで今橋城を吉田城に改めたようで、以後、吉田城を拠点に三河に勢力を拡大していくことになります。
翌年の天文16年(1547年)7月頃には山中城を勢力下に置きますが、
今川氏の進出を脅威に感じた織田信秀と松平信孝は、天文15年~16年頃に大平・作岡・和田に城を築城(または修築)してこれに対抗したため、
今川家臣の松井宗信は山中城を修築して織田信秀・松平信孝に備えたようです。
そこで今川氏は南に転じて、9月、渥美半島の戸田氏の本拠である田原城を攻撃しますが、激しい抵抗に遭い、敗北してしまったようです。
一方、ほぼ時を同じくして安城城を攻撃した織田信秀はついにこれを陥落させることに成功、ついで岡崎城に迫ります。
進退窮まった松平広忠は子の竹千代(後の徳川家康)を人質に差し出して織田信秀の降伏した…と『愛知県史』・『青年家康』はしていますが、
そうなるとその直後の松平広忠の行動との整合性が取れないため、
織田信秀に降伏した、とするのは誤りでしょう。
たしかに、
①天文17年(1548年)3月11日付の北条氏康が織田信秀に送った書状
「よって三州の儀、駿州へ相談無く、去年かの国へ向かい軍を起こされ、安城の要害則時に破らるの由に候。毎度御戦功、奇特に候。ことに岡崎の城、その国より相押さえ候につき、駿州にも今橋本意に致され候」
(三河のことについて、今川氏に相談することなく、去年[1547年]進攻し、安城城をすぐに落とされたとのこと、毎度のことながら、すばらしいことです。さらに岡崎城も抑えたことによって、今川氏も今橋城を思うようにすることができた)
②9月22日付の菩提心院日覚の書状
「三河は駿河衆敗軍の様に候て、弾正忠先ずもって一国を管領候。威勢前代未聞の様にその沙汰ども候」
「岡崎は弾えかう参の分にて、からがらの命にて候。弾は三州平均平定、その翌日に京に上り候」
(三河では今川軍が敗北したこともあり、織田信秀が三河を制したとのこと、その威勢は前代未聞だそうである)
(松平広忠は織田信秀に降参したため、織田信秀は三河を平定し、その翌日に京都に上ったそうである)
…という、松平広忠が織田信秀に降伏したとする文書があるのですが、
①は信ぴょう性に疑問が持たれており、②は遠く越中国(富山県)にいる僧の聞き書きなので正確性に欠けます。
大石泰史氏の『今川氏滅亡』には、
1547年以降、織田信秀が三河で出した文書は見つかっていない…ことから、
岡崎城を攻略したというのは織田信秀のプロパガンダであろう、としています。
(また、岡崎を降伏させた翌日の上洛についてもそれを裏付ける資料はないとしています。)
また、もし松平広忠が織田に降伏したとするならば、長年敵対している松平信孝が広忠の上に立つことになるわけで、それは広忠にとって受け入れられないことでしょう。
織田信秀の圧迫を受けた松平広忠は、織田信秀に降伏した…とするよりも、
織田信秀に対抗するために、これまで敵対していた今川氏と組むことにし、
竹千代を人質として今川氏に送った…とするのが自然です。
そうなると怒り狂うのが、松平広忠と同盟し、今川氏と田原城で激しい攻防を繰り広げていた戸田氏です。
戸田氏は、そちらが今川氏に裏切るなら、こちらは織田氏に裏切ろう、と考えるでしょう。
そこで、今川氏に送られる途中の竹千代を奪い、織田氏に送り、それをもとに織田氏と結んだのではないでしょうか。
(『松平記』では、尾張勢が岡崎城を攻め取ろうとしていた、今川が援軍としてきたが、人質を出すようにとの話があった、そこで広忠は竹千代を人質に送ることにしたが、途中、田原城の戸田康光の弟、戸田五郎が「しおみ坂」で竹千代を奪い、尾張に行き、古渡の城主、織田信秀に差し上げた、信秀は大変喜んで銭百貫を与えた、そして広忠に使者を出して「今川を離れ尾張につけ、そうしないと竹千代を殺すことになる」と伝えたが、広忠は、「人質の命を惜しんで今川に背くことはできない」と答えたので、信秀は「広忠は良将である」[「扨々広忠ハ良将也」]と言った、人質となった竹千代に、高野藤蔵が優しくし、小鳥などを与えたので、後に高野藤蔵は土地を与えられた…とあり、
『三河物語』では、広忠が今川に援軍を頼んだところ、今川は人質を送れと言った、そこで竹千代を送ることにし、田原経由で駿河に送ろうとしたが、戸田康光は銭千貫で竹千代を尾張に売った、広忠は「織田に差し出した人質でもないから、どうとでもなさるがいい」と信秀からの要求を断り続けた…とあり、
『徳川実紀』では、織田信秀が岡崎城を攻めようとした、広忠は多勢に無勢なので今川に援軍を頼んだ、すると義元が人質を要求したので、石川数正・平岩親吉などがついていったが、戸田康光が「船でお送りしよう」と言って、子の五郎政直と協力して尾張に船を送ってしまった、織田信秀は広忠に「わしに降参せよ、そうしなければ竹千代を殺す」と言ったが、広忠は「竹千代は今川に送ったのだ、それを戸田が婚姻の縁を忘れて織田に送ったのだ、一人の子どもへの愛情で今川との長いよしみを変えることはない」と返事した、信秀はこれに感心したのか、竹千代を殺すことなかった…とあります。
当時は戸田と今川は戦争中だったので、田原を経由することはあり得ず、そのため、『三河物語』『徳川実紀』の内容は誤りでしょう。『松平記』の内容が一番正確かと思われます。
ちなみに売られた金額については、『駿府記』に、徳川家康が家来に、わしは幼いころ、又右衛門というものに銭五百貫で売られたと言った、とあります。
銭百貫・五百貫・千貫と違いがありますが、百貫だと120万円、五百貫だと600万円、千貫だと1200万円なので、どれも相当な大金です…(◎_◎;))
9月28日に松平広忠は渡・筒針に進んで松平信孝と戦っていますが、
(『松平記』によれば、松平広忠は敗れ、松平忠次[五井松平家]・松平喜蔵・鳥居忠宗[鳥居元忠の兄]が戦死した。松平忠次を討ち取ったのは鳥居久兵衛だったが、この久兵衛は忠次と従兄弟どうしであったという)
これには今川氏が「竹千代を相助けるべく」援軍を出していた、と『土佐証文』にあります。
竹千代が奪われたからこそ、「助ける」という表現になっているのでしょう。
また、松平広忠は信孝と争っていますが、もし織田信秀に竹千代を差し出して降伏していたとしたら、裏切りを責められて竹千代が殺される可能性もあり、信孝と戦うこともしなかったでしょう。
ですから、私としては、松平広忠は織田信秀には降伏していなかったし、
竹千代は、今まで敵対していた今川氏に助けを求めるために人質に送られた、と考えます💦
さて、松平を通して、織田・今川の関係の緊張は高まっていました。
そしてついに、両軍は激突することになるのです…!🔥
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