無残な失敗に終わってしまった、 織田信秀にとって過去最大の作戦であった美濃攻略戦。
実は、美濃攻略戦直後の織田信秀の様子を詳細に記録していた人物がいるのです。
今回は、その記録に残された織田信秀を、マンガにしてみました!😊
敗戦直後の信秀の様子はどのようなものだったのか!?
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇京都からの使者
谷宗牧(?~1545年)は連歌師です。
以前のマンガで登場した宗長に師事した人物で、
連歌師の系統としては、宗祇→宗長→宗牧、という流れになります。
この宗牧は天文13年(1544年)、東日本を旅することを思いつき、
実際に京都~近江~伊勢~尾張~三河~駿河~武蔵~陸奥~(Uターンして)下野、と旅し、京都に戻る途中の下野佐野で亡くなっているのですが、
宗牧は死ぬ一年前に尾張に立ち寄り、織田信秀と会い、その時の様子を詳細に記録しているのです。
実は宗牧はただ旅していただけでなく、一つ頼みごとをされていました。
以前のマンガで紹介したように、
織田信秀は前年の天文12年(1543年)に朝廷の内裏修理に献金をしていましたが、
朝廷は東日本に向かおうとしていた宗牧に、
どうせ東日本に行くのなら、ついでに織田信秀に礼状と礼物(古今和歌集の写し)を渡してくれないか、と頼んだのです。
宗牧は伊勢から海路で三河まで行く予定で、尾張による予定はなかったので、
断るのですが、強く頼まれたのでついにこれを受けることになり、
それで宗牧は織田信秀と会うことになったのです。
しかし、宗牧が尾張についたのは11月、美濃での大敗の一か月後というかなり悪いタイミングでした。
そこで、宗牧は友軌という者を平手政秀のもとに派遣して様子を確認させたところ、
政秀は「この度美濃において、思いもよらない敗北があって、織田信秀は一人でようやく帰ってきたところで、楽しむことはできないような時期なのですが、信秀は早く会いたいと言っています」(「今度於濃州、不慮の合戦勝利をうしなひて、弾正忠一人やうやう無事に帰宅、無興散々の折ふしなから早々まかり下るへき」)と答えたので、
伊勢国の桑名から舟を使って津島に行き、
翌日(11月5日)、尾張那古野に到着しました。
そこで平手政秀が宗牧を出迎えて、
「今日は寒うございますね(西暦だと11月29日にあたる)、とにかく手を温めましょう、口を温めましょう、湯風呂・岩風呂はいかがですか」と丁重にもてなします。
(「平手出むかひて、けふの寒ささこそなと、まつなにやらむ手をあたゝめよ、口をあたゝめよ、湯風呂・石風呂よなと念比に人をもてなす」)
宗牧はそのもてなす様が、どうやら政秀の生まれながらの性分であることがわかると、遠慮せずにそれを受け入れました。
どうやら、病気になりそうそうなレベルの天候の悪さだったようです(;^_^A
(「発病もすへきあらしにてそ有ける」)
夕食の準備は平手政秀が自ら行うという徹底ぶりで、
息子の「三郎次郎・菊千代」が宗牧の盃に酒を注いだといいます。
この「三郎次郎・菊千代」を、織田信長・織田信勝・織田信包とする説があるのですが、
話の流れ的に考えておそらく平手政秀の子でしょう(;^_^A
織田信長は「三郎」ですが、織田信勝は「勘十郎」であり、織田信包の幼名はわかっていませんので💦
また、信包は1543年生まれとされており、そうなるとこの時1歳、酒を注ぐのはどう考えても無理でしょう(-_-;)
平手政秀の子どもたちも名前などが判然としないのですが…。
翌日、朝食前に織田信秀の館を訪れた宗牧は、ついに織田信秀と面会を果たします。
朝廷からの礼状・礼物の古今和歌集の写しを受け取った信秀は、
「今度の戦で、不思議に命拾いをできたのは、今日のためだったのでしょう。織田家にとっての名誉、これに過ぎるものはありません」と述べ、
敗北に気を取られているようには見えなかったといいます。
(「今度不慮の存命もこのためにとてそ有ける、家の面目不可過之なと、敗軍無興の気色も見えす」)
また、「この先、美濃のことを思い通りにできたら、もう一度内裏の修理をお任せください」とも話したことに対しては、
宗牧は信秀の武人らしい心意気に感じ入り、
朝廷から任された役目は迷惑だと思っていたが、その気持ちも失せて、老後の自分を満ち足りた気分にさせた、と記しています。
(「濃州之儀一度達本意事も侍らハ、重ねて御修理の儀とも仰下され候やうにないない可申上云々、武勇の心きハみえたる申されやう、御言伝めいわくも忘れて、老後満足也」)
その後、宗牧は役目を終えたので帰るというと、
せっかくなので連歌会をやりましょう、と強く頼まれたのでやることになり、
信秀は、私の館では支障があるので平手の館でやりましょう、
発句(連歌会の初めに読まれる句)をお願いします、
と言うと、早くも連歌の会に参加する者に連絡した、といいます。
このテキパキぶり、織田信長を見るようです(;^_^A
血は争えない…。
そこで、呼ばれた織田丹後守(不詳)・喜多野右京亮(不詳)がやってきて、
今回は九死に一生を得た、と話したといいます。
やはりよほどの大敗北だったのでしょう。
そして連歌会が始まり、
宗牧は次の発句を詠みます。
『色かへぬ 世や雪の竹 霜の松』
この歌は中国の王安石(北宋の政治家。新法と呼ばれる政治改革を行った。1021~1086年のエピソードに着想を得ていたようです。
(「王荊公かむかしを思ひよせたり」)
そのエピソードとは、
王安石が宰相となった際、多くの客が祝賀に訪れたが、
王安石は黙って座っているままで、しばらくすると壁に次の詩句を書いた、
『霜箔雪竹鍾山寺、投老歸歎寄此生』
(年老いたらば霜や雪に覆われた竹のある鍾山の寺で生活したい)
…というもので、王安石の清廉さ、無欲さを表したものになっています。
宗牧の、色を変えない竹と松…というのは、王安石より前の、934年に詠まれた歌、
『いろかへぬ 松とたけとの すゑのよを いづれひさしと 君のみぞ見む』(『拾遺和歌集』)
があるように、よく用いられてきたものであったようです。
松も竹も葉は紅葉せずに緑でありつづけます(常緑樹といいます)。
その松や竹のように、王安石も宰相となったからと言って変わらないけれど、
周りの人は王安石が宰相になったということで態度を変えていますね(;^_^A
また、宗牧が歌で用いた「霜」はダブルミーニングになっていて、
実は織田信秀のことも表しています。
織田信秀は弾正忠家ですが、弾正忠というのは、
都の治安維持を担当する弾正台の、上から3番目にあたる役職(上から弾正尹・弾正弼・弾正忠・弾正疏)です。
(弾正忠家は自称しているだけなので、実際に都で治安維持はしていません💦)
この弾正台のもとになったのが、中国の御史台です。
この御史台は、朝廷の風紀の乱れを厳しく取り締まったため、
中国では寒さの厳しいときにできる霜に例えて、「霜台(そうたい)」と呼んだそうです。
…ということで、織田信秀は「霜台」とも呼ばれていたので、この歌は織田信秀にひっかけてあるのだな、というのは、参加者はみんな分かったと思います。
また、宗牧が王安石の歌を用いたのは、
戦いに負けて状況が悪くなっても、尊王(天皇を尊ぶ)の気持が変わらない織田信秀に感銘を受けたからだと考えられます💦
結局、その後の織田信秀は美濃で成功できなかったため、
内裏の修理に関わることなく亡くなってしまうのですが、
その尊王の気持ちは子の織田信長に受け継がれて、
上洛した信長は10年以上もかけて内裏の大規模な修理を行うことになります。
なんという親子の絆…!!( ;∀;)
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