愛知郡だけでなく、隣国の三河にも勢力を広げた織田信秀。
その分収入も増えたわけですが、愛知郡には一大商業地である熱田があり、
これで信秀は津島だけでなく熱田も治めるようになり、
その財力は相当なものになりました。
そして、信秀はこの潤沢な財力をもって、世の中の人を驚かすことを行っていくことになるのです…!(◎_◎;)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇伊勢神宮外宮仮殿建設費と内裏修理費の寄進
三重県にある伊勢神宮は、20年に一度、神社の本殿を新しく作り直す(遷宮)ことになっているのですが、これは飛鳥時代の690年から1300年にわたって続けられてきたことだといいます。
しかし、途中戦乱があったときには、この伝統を守ることはできませんでした。
例えば、南北朝の争乱の際には、外宮は1345年に作り直された後、1380年まで建て直されませんでしたし、内宮も1364年の次は1391年と、遷宮は延長されています。
そしてそれが極まったのが戦国時代で、
外宮は1434年、内宮は1462年に作り直された後、
外宮は1563年まで、内宮は1585年まで建て直されることはありませんでした(-_-;)
しかも外宮は1486年、戦乱に巻き込まれて炎上してしまっています💦
長い間建て直されなくなった伊勢神宮は荒廃の一途をたどり、
倒壊の恐れもあり、神職が本殿に入ることもためらわれるほどになったといいます(◎_◎;)
そのため、急場しのぎで本殿ではなく、スケールを小さくした仮殿が作られるようになったのですが、これすらもお金が集まらずに難儀する状態でした。
内宮の方は六角定頼(1495~1552年)の援助で仮殿を作ることに成功したのですが、
遷宮の順番は内宮→外宮→内宮→外宮であるのに、
内宮を先に建て直したのは良くない、と幕府・朝廷から注意が入り、
伊勢神宮は困り果ててしまいます。
その中で、援助を受け入れたのが織田信秀でした。
第一次安城合戦中の天文9年(1540年)6月6日に外宮の仮殿建立の援助を約束した織田信秀は、
黄金18枚、銭700貫文を提供したのです。
黄金18枚の価値はわからないのですが、
銭700貫文のほうはわかります。
1貫というのは、銭1000枚のことです。
銭1枚は、だいたい現在でいうと12円分の価値があったそうなので、
1貫というのは約12000円のことです。
これが700貫ですから、840万円分を提供したことになります。
この援助で外宮の仮殿は完成し、朝廷はその感謝の意味を込めて、
天文10年9月、織田信秀を三河守に任じました(しかし織田信秀は三河守を名乗らなかった)。
織田信秀は伊勢神宮の援助だけにとどまらず、さらに朝廷の内裏の再建もかって出るのです。
戦国期の朝廷は慢性的な金欠状態にありました。本来なら全国各地にある土地(御料所)から得られる税でなんとかなるはずなのですが、戦乱のため、納入が滞りがちになっていたのです。
そのため、1500年に亡くなった後土御門天皇の葬儀を43日間の間も実施することができず、次の後柏原天皇は21年間も即位式を行なえませんでした。
この2つの場合は、幕府の援助により何とかなったのですが、さらに時代が下ると、幕府の力も大きく衰え、幕府の援助も期待できなくなってしまいました。
天文9年(1540年)に後奈良天皇(1497~1557年)は内裏の修理を幕府に申し入れ、それを受けた幕府は大名たちに援助(国ごとに100貫)を要請しました。
これに対し、越前の朝倉氏は100貫、筑前(福岡県北西部)の麻生氏は300貫を出すなどしましたが、一方で、能登(石川県北部)の畠山氏・伊勢(三重県北部)の北畠氏がこれを断るなど、なかなか支援は集まりませんでした。
そんな中で起きたことを、興福寺の僧、多聞院英俊(1518~1596年)は天文12年(1543年)2月14日に次のように記録しています。
「或人びと、内裏の四面の築地の蓋を、尾張のをたの弾正と云う物、修理して進上申すべくの由申し、はや料足四千ばかり上り了る云々、事実においては不思議の大営か」
…内裏の修理を、尾張の織田弾正という者が買って出て、4000貫を提供したとのことだが、事実だとすると全く想像できないほどの大業である…
4000貫というと、現在でいうと4800万円もの大金です(◎_◎;)
英俊の記録を見ると、織田信秀の知名度は畿内においてかんばしいものではなかったことがうかがえますが、
そのような者が、4000貫もの大金をポンと出したので、よりいっそう驚きは強くなったのでしょう。
その後に駿河の今川氏もお金を提供していますが、今川氏は500貫文だったことを考えると、織田信秀の財力のすさまじさがわかります(;^_^A
(『御湯殿上日記』では「10万疋進上申す由」とあり、こちらでは10万疋=1000貫、になっている。1000貫としても今川の2倍である)
内裏の修理費を渡すために上洛したのは家老の平手政秀でした。
上洛した平手には天盃と太刀が与えられたそうです。
5月17日には大坂の本願寺も訪問しているのですが、
その時の様子は『天文日記』に次のように書かれています。
「一、尾州平手中務丞織田弾正被官為礼来就禁裏御修理為名代上洛之次ニ来。仍音信也。
一、以肴一献与湯漬令対面也。如此相伴之儀、雖不可有之事候、悪党と云、於尾張走廻対門徒一段悪勢者之間、此分調請候也。一段大酒云々。
一、盃次第、初献愚盃取上テ、令会尺、平手雖不可呑之事候、祝着ニ為可令存如此、経厚、兼澄、頼尭納之。湯漬、盃者愚鳥法(鳥居小路法院カ)ヘ一礼也、経厚、兼澄、平手、又経厚、頼尭、又平手、又愚、此節太刀出之。又兼澄、又々経厚、又々愚、又々平手、此時返之太刀遣之。又頼尭納之也。」
(織田信秀の家来、平手政秀は内裏修理の件で、織田信秀の代わりに上洛し、その次に大坂の本願寺に出向いた。
その平手政秀を酒と湯漬けでもてなしたが、主人の代わりで来た者をふつうはもてなさないのだが、尾張の各所で一向宗の門徒から財産を奪っている悪党であると聞いているので、一向宗に対しての態度をやわらげさせるためにもてなすことにしたのである。また、大酒飲みであるとも聞いていたからである。
酒宴は、まず私[証如]が盃を持ち上げて会釈をしてから飲んだ。次に平手[本当は飲む立場にないのだが、関係を円満にするために飲ませることにした]、鳥居小路経厚[京都青蓮院の坊官。1479~1544年]、兼澄[不詳]、頼尭[不詳]の順で飲んだ。次に湯漬けを食べた。そして再び酒。まず私が経厚殿に一礼してから飲み、経厚、兼澄、平手、再び経厚、頼尭、再び平手、再び私の順で飲んだ。この時太刀が用意された。酒は再び兼澄、そして経厚・私・平手が3度目を飲んだ。この時平手に太刀を渡した。最後に頼尭がもう一度飲んだ。)
この内容を見ると、
「門徒に対して一段と悪勢の者」
と書かれており、
本願寺からはヤマトタケルノミコトに退治された盗賊である「悪勢(おぜ)」に
例えられているほど、
織田信秀は一向宗(浄土真宗)に対して厳しい態度を持って臨んでいたことがわかります。
前回のマンガの解説部分で紹介したように、
織田信秀は長島の興善寺と敵対関係にあったようです。
(その後、織田信長にも敵対していくことになります)
どうやらこの頃の本願寺はまだ穏健というか、
先の加賀一向一揆、後の三河一向一揆、石山合戦のように一国以上の単位で織田信秀に立ち向かったわけではなかったようです。
悪党・悪勢と呼びながらも関係が悪化しないように酒でもてなしてますしね(;^_^A
本願寺も遠慮するほど、当時の織田信秀の威勢は強まっていたのでしょう。
その織田信秀に、さらに三河方面でよい情報が伝えられることになるのですが、
それは次回でお伝えしようと思います(;^_^A
0 件のコメント:
コメントを投稿