社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 尾張・三河に勢力伸長~松平氏の伝統芸・内輪もめ

2023年4月15日土曜日

尾張・三河に勢力伸長~松平氏の伝統芸・内輪もめ

 第一次安城合戦後、織田信秀三河(愛知県東部)進攻は停滞します。

なぜかというと、松平氏側に有能な人物が登場したために、手を出しづらくなってしまったからです。

これで松平氏は小康を得るのですが、

松平氏は伝統芸の内輪もめを起こしてしまうのでした…(-_-;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇内輪もめばかりの松平家

松平広忠岡崎城に復帰した後、松平家の中心人物となったのが松平信孝(?~1548年)です。

信孝は松平清康のすぐ下の弟であったようですから、広忠の叔父にあたります。

『松平記』では広忠が伊勢(三重県北部)に追い出されている間に岡崎城城主となり、

湯治に行っている間に広忠に城を乗っ取られてしまった…みたいに書かれていますが、

そうなるとその後松平家の中心人物になっている説明がつきません(;^_^A

『三河物語』を見ると、その部分の詳しい経緯が載っていて、

松平信孝は広忠を岡崎城に呼び戻したいと思っていたが、松平信定が注意を怠らず難しい、

そこで大久保新八(忠俊。1499~1581年)に、

「私は有馬温泉に出かける。城の者には、鍵を渡しておく。大久保新八が来たら鍵を開けるように言っておく」と伝えた。

大久保新八からそれを聞いた松平広忠は「大久保新八が来た」と偽って入城し、

岡崎城を取り戻したのだという。

つまり松平信孝は広忠の岡崎城復帰に貢献した人物であったので、

その功績によってその後の松平家の中心人物になったわけです。

信孝は外交によって松平家の危機を切り抜けようとし、

まず尾張(愛知県西部)知多郡の独立勢力、水野氏と同盟を図り、

天文10年(1541年)、水野忠政(1493~1543年)の娘、於大(1528~1602年)が松平広忠に嫁ぐことになりました。

翌年にはのちの徳川家康が生まれています。

(旧暦では天文11年12月26日、現在使われているグレゴリオ暦では1543年2月10日)

信孝は他にも駿河(静岡県東部)の今川氏にも接近を図っており、

水野・今川と手を組むことによって織田氏に対抗しようとしていたようです。

しかし、その中で事件が起こります。

『松平記』によると、

天文12年(1543年)1月、病気の広忠に代わり、松平信孝が今川氏のもとに使者として向かっていたが、その間に屋敷を乗っ取られ、岡崎城から追放される形となってしまった…というのです。

なぜこうなったのかというと、どうやら信孝は阿部定吉(清康を殺害した正豊の父。伊勢に追放された広忠につきそい復帰に貢献した。1505~?)ら松平家の家老たちに相談せずに話を決めてしまうことが多く、

それに不満を持った家老たちによって城を追い出されることになったようです。

家老たちは「信孝は岩津松平家の当主が亡くなった後にその土地を手に入れ、今また亡くなった康孝(清康の弟)の土地まで手に入れた。信孝は今は忠節を尽くしているが、今に松平信定のように主家に反抗するようになる」とその理由を説明していますが、

松平信孝は「これはなんということだ。私は忠節を尽くしているのに。これは阿部定吉の讒言によるものに違いない」と訴えましたがかなわず、

『三河物語』によれば、

「広忠殿には恨みはないが、家来の者たちは恨みに思う」と言い、

居城の三木城に籠もり織田信秀に寝返ったといいます。

これを見ると松平家の主導権争い、単なる内輪もめですね(;^_^A

しかし、松平家はこんなことをしている場合ではないと思うんですが…。

今川氏・水野氏と外交関係を結んでいた松平信孝を失っては、

松平家は織田家に加えて今川・水野も敵に回すことになります。

いったい何がしたかったんでしょう…(◎_◎;)

『松平記』にも、

上和田城松平忠倫岡城・三木城松平信孝上野城酒井忠尚が広忠に敵対することになったので、三河国中が広忠の敵になり、広忠は岡崎一城になってしまった…と書いてあります💦

しかし実際は田原城戸田氏と同盟を結んでおり、

天文14年(1545年)には戸田氏の娘と広忠は結婚しています。

戸田氏の娘と結婚?於大は?というと、

信孝追放後の7月に於大の父、水野忠政が亡くなると、

跡を継いだ水野信元(?~1576年)は松平信定の娘を妻としていることもあり、

親織田派でしたが、

水野信元は織田氏に接近し、その結果、天文13年(1544年)に於大は松平家から離縁されます。

水野氏は力関係からどうやら織田氏の従属下に入ったようで、

当時の熱田神宮の史料には「当殿様(織田信秀)愛知・知多悉く以て御手に入り候」(織田信秀は愛知郡・知多郡を手に入れなさった)と書かれています。

順調に尾張に勢力を拡大し、さらに三河の状況も有利なものになってきた織田信秀ですが、

ここで三河を攻めるのではなく、次に手を出したのは東ではなく北の美濃(岐阜県南部)でした(◎_◎;)

(『三河物語』には、信孝の寝返りを知った織田信秀が三河に兵を進め、上和田に砦を築いて松平忠倫を置いて帰った、その際に集まった三河の反松平広忠の武将たちが、岡崎は長くもたないでしょう、近いうちに攻め落として見せます、と言ってきたのに対し、主君の先が無いとみて見捨てたお前たちは人の数にも入らぬ、主君を助け岡崎に残った馬鹿者たちの方が見事だ、と言ったといいますが、これはありえないでしょう(;^_^A)

しかしこれが、順風満帆であった織田信秀のつまずきの第一歩となってしまうのです…。。

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