織田信秀は尾張・三河に勢力を拡大させていく中で、続いて美濃(岐阜県南部)にも手を出していくのですが、その頃の美濃はどのような状態だったのか?
『信長公記』には当時、美濃を治めていた斎藤道三について書いている箇所があります。
現在の研究とは大きく異なるところもありますが、
ほぼ同時代人であった太田牛一にはそのように伝わっていたようです。
では、今回は、織田信秀の北のライバルとなった斎藤道三との戦いを見ていこうと思います!🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇真実の斎藤道三は??
『信長公記』には斎藤道三のことについて次のように書かれています。
曰く、斎藤道三は山城国西岡に住んでいた松波という者であった、
ある時長井長弘を頼って美濃に行き、使えるようになったのだが、
主人を殺し、長井新九郎と名乗るようになった、
その後長井の一族たちと戦いあうようになった、
その途中、大桑城にいた土岐頼芸に頼って力を借りて長井氏に勝利することができた、…と。
『信長公記』には、斎藤道三が1人ですべてをやってのけたように書いてありますが、
昭和40年代に発見された、1560年に六角義賢(1521~1598年)によって書かれた書状には、
「一、彼斉治身上之儀 祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主落にて、西村与申、長井弥二郎所へ罷出、濃州錯乱之砌、心はしをも仕候て、次第ニひいて候て、長井同名ニなり、又父左近太夫 代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斉藤同名ニ成あかり、…」
(斎藤義龍の祖父は京都の妙覚寺の僧で西村という者であったが、美濃に出て長井長弘に仕え、美濃の内乱の中で才覚を発揮して長井氏を名乗れるまでになった。斎藤義龍の父の斎藤道三は長井長弘の子の景弘を殺害して長井氏を乗っ取り、その後は斎藤氏を名乗るようになった、…)
…と書かれており、親子2代で出世していったことが明らかになっています。
斎藤道三父子が出世できたのは、当時の美濃が争乱状態にあったことが大きいでしょう。
当時の美濃の状態を簡単に記すと、
美濃守護・土岐政房(1467~1519年)が長男の頼武ではなく、次男の頼芸に家督を継がせようとしたのをきっかけに、
1517年、頼武・頼芸の間で抗争が起き、1525年になって頼武は敗れて頼芸が守護となった、
1535年、頼武の子の次郎(土岐頼充)は近江の六角氏・母の実家である越前朝倉氏の支援を得て美濃に復帰を図ったため頼芸と戦争になった、
(斎藤道三[この頃は長井矩秀と名乗る]は、この時頼芸方の中心人物として戦っている)
1538年、両者は和睦して、土岐頼充は美濃の大桑城に住むことを許されることになった、
(斎藤道三はこの年に斎藤を名乗るようになり、名前も利政と改めた)
1543年に斎藤道三は大桑城の土岐頼充を攻め、敗れた土岐頼充は尾張に逃走した(『別本仁岫録」に天文12年[1543年]に「大桑乱」と記されている)、
…ということになります。
土岐氏の内輪もめの中で、斎藤道三は勢力を強めていったのですが、
一方で、道三に敗れて尾張に逃げこんだ土岐頼充が織田信秀に助けを求めた結果、
翌年、美濃進攻が起きることになります。
〇織田信秀の美濃進攻
「或時、九月三日、尾張国中の人数を御憑なされ、美濃国へ御乱入」
(ある年の9月3日、尾張国中に軍勢を出すことを頼み、その軍勢をもって美濃[岐阜県南部]に進攻した)
…『信長公記』には、このように織田信秀が美濃に攻めこんだ、ということが書かれているのですが、
「或時」としか書かれておらず、何年か判然としていませんでした。
これまでは天文16年(1547年)説が主流だったようですが、
最近では天文13年(1544年)とするのがほぼ定説となってきているようです。
なぜかというと、
①天文13年9月付で、稲葉山城下の立政寺に織田寛近が禁制(攻撃しないという保証書)を出している。
②『定光寺年代記』に天文13年の「九月廿二日未刻、濃州井之口に於て、尾州衆二千人打死す」とある。
③次回のマンガでも紹介するが、内裏修理のお礼の死者として朝廷から尾張に派遣された連歌師・宗牧が天文13年11月6日に織田信秀と会った際に、「今度濃州において不慮の合戦、勝利を失いて弾正忠一人ようよう無事に帰宅」と記録している。
…以上のことから、信長公記に書かれている美濃進攻は、天文13年(1544年)のことと考えて差し支えないでしょう。
しかし、織田信秀はこれ以前にも美濃に進攻していたようで、
『信長公記』には、
「先年尾張国より濃州大柿の城へ織田播磨守入置かれ候キ」
…と書かれています。
「先年」というのは何年か前の年、ということなので、
天文13年(1544年)より2~3年ほど前に大垣城を攻め取っていたのでしょう。
(しかし「先年」の対象が「或時」でアバウトなので、前の年だった可能性もある)
とあり、この戦いの前に美濃の大垣城を攻略していたことがわかります。
織田信秀は三河だけでなく、美濃にも勢力を伸ばしていたことがわかりますが、
天文13年(1544年)の美濃進攻は先に述べたように、例のない尾張を挙げた大規模な出兵でした。
しかも、昔から尾張斯波氏と犬猿の仲であった越前(福井県北部)の朝倉氏もこの戦いに参加しています。
仲の悪かった朝倉氏が参加したのには、
土岐頼充の母が朝倉貞景の娘であった、ということが関係しているでしょう。
土岐頼充が美濃守護に復帰できれば、朝倉氏は美濃に勢力を及ぼすことができます。
一方の斎藤道三も、8月に尾張との国境に城を築いたり、
土岐頼芸の妹を南近江(滋賀県)の大名六角定頼に嫁がせ、
道三の息子の斎藤利尚(のちの義龍)と北近江の大名・浅井亮政の娘を結婚させるなどして、
近江の大名と緊密な仲になったりすることで、織田・朝倉に対抗しようとしていました。
さて、1544年9月、織田氏と朝倉氏は共に1544年、斎藤利政を攻撃、
朝倉勢(大将は朝倉宗滴)は9月19日、赤坂で斎藤勢を破りました。
織田信秀も負けじと稲葉山城に籠もる斎藤利政を攻撃します。
この戦いについて、『信長公記』は次のように記しています。
「九月廿二日、斎藤山城道三が居城・稲葉山の山下村々に推し詰め、焼き払ひ、町口まで取り寄せ、既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引取り候所へ、山城道三、瞳と南へ向かつて切りかゝり、相支へ候と雖も、多人数くづれ立の間、守備の事叶はず、備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、歴々五千ばかり討死なり。」
(9月22日、織田信秀は稲葉山城付近の村々を焼き払い、城下町の入り口に迫ったが、すでに午後四時頃になっていて、日暮れが近づいていたため、一度城から下がらせることにしたが、半分ほどが引き上げたところで、斎藤勢がどっと攻めかかってきたのを支えきれず尾張勢は崩れ去って、織田信康・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・毛利藤九郎・岩越喜三郎をはじめとして5千人ほどが戦死した)
織田信秀の大敗北でした。
この戦いの模様については、
斎藤道三が緒川城の水野信元にあてて書いた書状からもうかがい知ることができます。
「一昨日辰刻、次郎・朝倉大郎左衛・尾州織田衆、上下具足数二万五六千、惣手一同城下に至り、手遣し仕り候、此の方人無く候といえども、罷り出で一戦に及び、織田弾正忠手へ切り懸け数刻相戦い、数百人討ち捕り候、頸注文これを進らせ候、此の外敗北の軍兵、木曽川へ二三千溺れ候、織弾六七人召し具し退かれ候、近年の体、御国に又人もなき様に相働き候条、勝負を決し候、年来の懐此の節候、随って此の砌松三へ仰せ談じられ、御国相固められるは尤に存じ候、…」
(おとといの午前9時頃、土岐頼充・朝倉教景・尾張織田勢、合わせて2万5千~6千の兵が稲葉山城に攻め入り、こちらは人数が少なかったが、城を出て戦い、織田信秀の軍と数時間戦い、数百人討ち取った、討ち取った武将の名前を記した紙はそちらに送ります、また、逃げ去った敵兵は木曽川で2・3千人が溺れ死んだ、織田信秀は6・7人だけで尾張へ退却していった、尾張に人がいなくなるほどの大戦果であり、こちらが優勢となったのがはっきりした、ですから、織田を見限ってこちらにつき、松平広忠とともに城を固めて織田に抵抗するのが当然と言えましょう…)
〇戦死した人々
織田軍は大勢の武将が戦死しました。
1.織田信康
織田信秀の優秀な弟で、美濃に近い犬山城の城主を務めていたといいます(異説もあり)。
以前のマンガで紹介したように、小豆坂の戦いでも活躍しています(異説もあり)。
2.織田因幡守(いなばのかみ)
この人はよく分かりません(;^_^A
大垣城主であったようです?
尾張南部を支配する清洲織田家の三奉行(残りの2人は織田信秀、織田寛故)の一人。織田信友の父でしょうか??
3.織田主水正(もんどのかみ)
この人はさらによくわかりません💦
4.青山与三右衛門(よそうえもん)
織田信長の補佐につけられていた三番家老です。
1564年に稲葉山場の戦いで戦死した青山与三左右衛門信昌は弟。
5.千秋紀伊守(季光)
熱田神宮の大宮司です。宮司が戦いに参加していたんですね💦
そういえば「麒麟が来る」でもそういう描写がありましたね😕
次回のマンガでも登場します(;^_^A
6.毛利十郎
この人もよく分かりません💦
桶狭間で死亡した毛利十郎敦元とは別人。
7.毛利藤九郎
家老・寺沢又八の弟です。毛利十郎と関係ありそうですね。
8.岩越喜三郎
この人もよく分かりません😓
[原文]
さて、備後殿は国中を憑み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。或る時、九月三日、尾張国中の人数を御憑みなされ、美濃国へ御乱入、在々所々放火候て、九月廿二日、斎藤山城道三が居城・稲葉山の山下村々に推し詰め、焼き払ひ、町口まで取り寄せ、既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引取り候所へ、山城道三、瞳と南へ向かつて切りかゝり、相支へ候と雖も、多人数くづれ立の間、守備の事叶はず、備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、歴々五千ばかり討死なり。
0 件のコメント:
コメントを投稿