社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 弾正忠家の台頭

2023年3月27日月曜日

弾正忠家の台頭

 尾張では清須織田家岩倉織田家の争いは終結しましたが、

今度は守護斯波義達守護代の清須織田達定が争い、

守護代が自害する、

それが終わると遠江に攻めこんだ守護の斯波義達が今川氏に敗れ捕虜となる、

そして尾張に今川氏の勢力が入りこむ…

というように、16世紀初めの尾張は騒乱が続き、

守護も守護代も力を失ってしまうという状況になっていました。

そんな中で台頭してきたのが清洲織田家の重臣たちで、

特に力を伸ばしたのは、

後に織田信長を輩出する弾正忠家でした🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇弾正忠家の台頭

永正13年(1516年)12月1日に、守護代織田達勝は尾張中島郡妙興寺に安堵状を出していますが、

それと同時にほぼ同じ内容の安堵状が「信貞・良頼・広延」なる3人の人物からも出ているのです。

この3人は誰なのかというと、

織田信貞(定)・織田良頼・織田広延の3人であり、

『信長公記』にいうところの「此三人諸沙汰奉行人」

清須三奉行ともいわれる清須織田家の重臣のことだとされています。

なぜ安堵状が守護代の分だけでは不足なのかというと、

前の守護代である織田達定は1513年に守護の斯波義達と争って死に、

跡を継いだ織田達勝は織田達定の弟とされていますが、

織田達定の祖父・織田敏定が1450年の生まれ(1452年とする説もある)であるので、

その子の寛定は早くて1470年頃の生まれ、

その子の達定は早くて1490年頃の生まれとすると、

その弟とされる達勝は安堵状を出した頃20歳前後の年少であると考えられ、

年齢の面でも不足があったことに加え、

前の守護代・織田達定が守護と争って敗死していることからも、

守護代家の力が弱まっていたと考えられ、

衰えが見られる守護代家だけの安堵状では効力に疑問があると思われたからでしょう。

弱まる守護代家に対し、相対的に力が高まったのが三奉行でした。

この三奉行が守護代家とどのような血縁関係にあったかはよくわかっていません(;^_^A

安堵状に書いてある名前の順序からすると、

「広延>良頼>信貞」という序列になるようなので、

おそらく本家である守護代家に一番近かったのが織田広延だったのでしょう。

次の織田良頼は藤左衛門を通称とし、小田井城主でした。

小田井城は織田敏定が作ったとされる城で、

織田敏定が清須城を手に入れた後は織田良頼の父と考えられる良縁が任せられるようになったと言われています。

こちらも守護代家との血縁関係は不明です(;^_^A

さて、最後の信貞ですが、

この信貞は弾正忠を名乗る弾正忠家の当主で、

子があの織田信秀…織田信長の父であるので、織田信長の祖父ということになる人物です。

『信長公記』には、弾正忠家について、

「西巌 月巌・今の備後守…とてこれあり。代々武篇の家なり」と記されていますが、

「今の備後守」とあるのが織田信秀、「月巌」とあるのが織田信秀の父の織田信貞(定)(月巌は織田信貞の法名)、「西巌」とあるのが織田信貞の父の織田良信のこととされており、弾正忠家の初代が織田良信なる人物であることがわかります。

織田良信は織田敏定の弟とされ、中島郡に勢力を拡大しました。

妙興寺に残る文書には、

「妙興寺領花井・朝宮・矢合・鈴置・吉松、この五ヶ処、材岩の時召し置かれ候」

とあり、

文中にある「材岩」が別名・西巌である織田良信だとされているのですが、

織田良信が妙興寺の持つ5か所の土地を奪ってしまったことがわかります。

この文書には続きがあり、

「一木村は月岩の時召し置かれ候。今の御代に二段三段の処共を拾い集め、召し置かれ候はん由に候。代々かくの如く候いて、妙興寺即時に破滅候はんとて、一衆の歎きこれに過ぐべからず候…」

…と書かれており、

織田良信の子の織田信貞(法名・月巌)の代にさらに妙興寺から一木村を奪い、

その子の織田信秀の代には残った小さな土地までも没収するなど、

さらに中島郡へ勢力を拡大していったことが読みとれます。

織田良信の跡を継いだ織田信貞は中島郡だけでなく、

中島郡の南の海東郡にも手を広げ、勝幡城を築きます。

そして勝幡城からほど近い一大商業地、津島を勢力下に置くことを目論みます。

『張州雑志』には、その過程が記されています。

「大永年中、織田と諍論数度に及ぶ。同四年の夏、織田の兵津島を焼き払う。早尾の塁に退き、又戦う。この時、津島中ならびに寺社の什物・官符等焼失す云々。時に織田家和睦有て、同年十一月、信長公息女御蔵御方実は備後守信秀女、嫡大橋清兵衛重長後入道して慶仁と号すに入輿す。母は林佐渡守通村の女。これより津島一輩信長公麾下に属す」

大永年中というのは、1521年から1528年のことです。

内容を訳してみると、

…そのころ、津島と織田信貞との間でトラブルが何度も起き、

ついに大永4年(1524年)に織田信貞の兵が津島を焼き払った。

津島衆は早尾(現在の早尾町)に退いて合戦し、津島の大事な宝物・文書が燃えてしまった。

11月に和睦がなされ、信定(信長や信秀とか書かれているが、間違いだろう)の娘が津島の豪族に嫁ぎ、

以後、津島は織田弾正忠家の支配下に置かれるようになった…

…となりますが、1524年頃に織田信貞が津島を手に入れたことがわかります。

一大商業地・津島を押さえたことは大きく、

その財力が次代の織田信秀の飛躍を支えることになります🔥


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