露土戦争でロシアがポーランドにかまっている余裕が無いスキを狙って、
各種の改革を断行し、中央政府の力を強める5月3日憲法を作り、ロシアの従属下から脱しようとしたポーランド。
しかし、権利を制限されることに反発する貴族たち(シュラフタ)は、
改革に反対してタルゴヴィツア連盟を作り挙兵、
そしてなんとロシアに助けを求めたのでした…(◎_◎;)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇ポーランド・ロシア戦争(5月3日憲法防衛戦争)
ロシアがポーランドの憲法賛成派と反対派の争乱に介入する際に、気になったのはオーストリアとプロイセンの存在でした。
オーストリアは憲法に賛成の立場を表明していましたし、
特にプロイセンはポーランドと防衛同盟を1790年に結んでいたからです。
しかし、両国にとって悩みの種がありました。フランスです。
フランスでは1789年にフランス革命が起きて絶対王政が崩壊しており、
その革命の影響が周辺国に及ぼうとしていました。
オーストリアはこれ以上革命が進展しないようにフランス政府に干渉し続けていたのですが、
これにフランス人は激怒し、ついに1792年4月20日、オーストリアとの戦争に発展しました。
1802年まで続くフランス革命戦争の始まりです。
ロシアのエカチェリーナ2世はこれでオーストリアは動けなくなったと確信、
さらにプロイセンについても二度目のポーランド分割を持ちかけて、
ポーランド側につかないように交渉しました。
1792年1月9日にはトルコとの戦争を終わらせたロシアは、
1792年5月18日、満を持してポーランドに侵入を開始します。
その大義名分は、
①ロシア軍がポーランド領内のウクライナにいることを難しくした
②ロシア人への迫害
③正教会への迫害
④四年議会で行われたエカチェリーナ2世への侮辱
…などが挙げられていましたが、
それらは名目にすぎず、実際はロシアから離れようとしているポーランドを再び従属化に置くことにありました。
ロシア軍の兵数は6万5000。数週間後には3万5000が加わり、合計10万の大軍となります。
しかし、ポーランドも多くの兵を徴兵しており、
7万人の兵を抱えていました。また、200門の大砲も保持していました。
プロイセンとの防衛同盟では、プロイセンは1万8000の兵を送ることになっていましたから、
それを合わせれば8万8000となり、ロシアに対抗できるような数字になります。
しかし、プロイセンはやってきませんでした。
その理由は、
「プロイセンは5月3日憲法の内容を事前に知らせてもらえなかった、
知らないうちに作られた憲法を守る義務はない」…というものでした(◎_◎;)
ポーランドは単独でロシアと当たらなければならないことになりました。
ポーランドの四年議会は国王スタニスワフ2世に軍の最高指揮権を委ねました。
スタニスワフ2世が司令官に任命したのは国王の甥のユゼフ・ポニャトフスキ(1763~1813年)でした。
この人物は決して血縁だけで選ばれたわけではなく、
オーストリア軍で働き、露土戦争で戦った経験を持っていました。
優秀な人物で、のちにナポレオンの下で働き、元帥に任じられたほどです。
この司令官を補佐したのが、
アメリカ独立戦争に参加して活躍したコシチュシュコ(1746~1817年)、
オーストリア軍で同僚であったミハウ・ヴィエルホルスキ(1755~1805年)達でした。
攻めるロシアは、ウクライナ方面軍が6万4千、リトアニア方面軍が3万3700の兵を有していましたが、これに対するポーランド軍は、
①[ウクライナ方面軍]ユゼフ・ポニャトフスキ率いる王冠軍団の5万2000 (1万3000の 騎兵と3万9000の歩兵)(※『リトアニアの歴史』では2万6000)
②[リトアニア方面軍]ドイツ南部に存在していたヴュルテンベルク公国の公子でポーランドのマグナートと結婚していたルートヴィヒ(1756~1817年)が率いるリトアニア軍団の1万8000( 7000の騎兵、1万の歩兵、1000人の砲兵)
…の2つで編成されていました。
しかし、リトアニア軍団を率いるルートヴィヒは戦争がはじまるとロシアと戦いを拒否して自分は最前線に出ず、撤退命令を繰り返しました。
ルートヴィヒの妻のマリア・アンナはこれに激怒し、夫婦は離婚します。
6月4日に司令官が交代されますが、リトアニア軍団はミールの戦い(6月10日)・ゼルバの戦い(7月4日)で敗北、6月14日には首都のヴィリニュスが無血開城するなど、劣勢を跳ね返すことはできず、ワルシャワ方面に向けて敗走します(72門あった大砲のうち65門を有したまま退却していた)。
ウクライナ方面では、ポーランド軍を包囲しようとするロシア軍の進撃に対し、
ユゼフ・ポニャトフスキは国境での防衛をあきらめて軍を後退させました。
そして6月18日、ツィエレンツェ(ジーレンツェ)の戦いが発生します。
ツィエレンツェはウクライナ首都のキーウと、東部の都市・リビウの中間地点にある部分です。(当時、キーウはロシア領、リビウはオーストリア領でした)
この戦いでユゼフ・ポニャトフスキはロシア軍を激戦の末に撃退することに成功しますが、被害は甚大なうえ、弾薬は尽きており、ツィエレンツェからさらに後退せざるを得ませんでした。
しかしこの勝利にポーランドは湧き、国王スタニスワフ2世は、
(第二次ウィーン包囲でオスマン帝国軍を破った)「ヤン3世以来の勝利だ」とこれをたたえています。
後退を続けるポーランド軍は、開戦1か月後にはウクライナにあった領土を失っていました。
その中でも、コシチュシュコがドゥビエンカの戦い(7月18日)で5300の兵でブク川を渡ろうとする2万5000のロシア軍の攻撃を防ぎ、4000人を戦死させる(ポーランド側は900人)、
マルクスフで行われた小規模な戦闘(7月26日)でユゼフ・ポニャトフスキ率いる騎兵隊がロシア軍を破る、などの活躍は見られました。
しかし次第に首都のワルシャワに迫られる苦しい戦局の中で、
国王スタニスワフ2世は戦争終結を図ってロシアと交渉をし、
エカチェリーナ2世の孫のコンスタンチンに王位を譲ることも提案しましたが、
ロシアはこれを受け入れませんでした。
そこでスタニスワフ2世がとった行動は、なんと憲法反対派のタルゴヴィツア連盟に降伏し、戦闘停止をポーランド軍に命令する、というものでした。
国王や大臣などから成る、「法の番人」と呼ばれる評議会が執行権を行使するのですが、
スタニスワフ2世は、12人の大臣(ポーランド6人、リトアニア6人)にタルゴヴィツア連盟に降伏すべきかどうかを審議させます。
7月23日に行われた評議会では、
7対5でタルゴヴィツア連盟に国王が加盟することが決定されました(反対の5人のうち3人[イグナツィ・ポトツキ、スタニスワフ・ソウタン、カジミェシュ・ネストル・サピエハ]はリトアニアの大臣であった)。
その結果をもって、王室副大臣のフーゴ・コウォンタイ(1750~1812年)は、
スタニスワフ2世に「陛下、今日、タルゴヴィツア連盟に参加する必要があります、明日ではありません、一刻を争うのです、ポーランド人の血が流れているのですから」と言い、早急に決断することを勧め、
それを受けてスタニスワフ2世は翌日、タルゴヴィツア連盟に加盟することを決め、軍隊に戦闘停止命令を出すことにしたのでした。
決戦の準備をしていた司令官たちはこの決定に不服であり、
ユゼフ・ポニャトフスキは国王からもらった勲章を返上、
「私はそのような邪悪なことに対して準備ができていなかった」
「恥をかくことよりも死ぬまで戦う方がましだった」
と発言、
国王の暗殺・もしくは誘拐を提案されたものの、それは断り、
軍を離れてウィーンに逃れています。
コシチュシュコもドイツのライプツィヒに逃れました。
スタニスワフ2世の決定には軍人だけでなく、他の国民も不満を持ち、
7月24・25日にはサクソン庭園で愛国派はデモを起こし、
「王がいなくても憲法はある!」と叫びました。
スタニスワフ2世はこの状況におびえ、
ロシアに早くワルシャワを占領しに来るように要請しました。
まもなくポーランド全土が制圧されましたが、
その一部はプロイセンが占領したものでした。
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744~1797年)は、
「フランス革命の影響からプロイセンを守るために、ポーランドに軍隊を送らざるを得ない」と言ってポーランド北西部を占領したのです。
スゴイ言い分ですね(◎_◎;)
しかも同盟していた相手なのに…。
ポーランド憲法反対派のタルゴヴィツア連盟によって支配されるようになりましたが、
そのやり方は抑圧的であったため、政情は不安定なものになりました。
この状況を見て、エカチェリーナ2世は力のないタルゴヴィツア連盟にポーランドを任せ続けるよりは、ポーランドを分割して獲得したほうが良い、と考え、
プロイセンと共に第二次ポーランド分割に乗り出します。
タルゴヴィツア連盟は驚いて、分割決定に抗議しましたが、後の祭りでした。
逆に分割されることはないだろうと思っていたのがスゴイです(-_-;)
〇第二次ポーランド分割とポーランドの保護国化
1793年、分割条約について話し合うための議会が開かれることになりましたが、
議員を決めるための選挙では、四年議会に参加した者・憲法採択に参加した者の参加は禁止されました。
また、ロシア・プロイセンに占領された土地の者も選挙には参加が許されませんでした。
すでにポーランドでは無くなっていたのです。
反対派と考えられるものは議会から追放され、自宅に隔離されました。
貧しい多数のシュラフタたちは、ロシアから賄賂をもらって、
ロシアが指定した議員に投票したといいます。
これが憲法賛成派の心配した点であり、
そのために憲法では貧しいシュラフタから参政権を取り上げていたのですが(-_-;)
1793年7月22日、議会はロシアに領土を分割することを承認しました。
タルゴヴィツア連盟の面々は、領土を割譲する代わりに、
残ったポーランドの土地を手に入れることの無いように約束させました。
一方、ポーランドは裏切者であるプロイセンに領土を譲ることを認めようとしませんでした。
そこでロシアは9月23日、議会の会場を軍隊で囲み、大砲を周りに並べました。
そしてプロイセンとの条約に承認しない限り会場を出ることはできないと脅しました。
議員たちは沈黙で対抗します。
議長のビエリンスキーは署名に同意するか、と3度尋ねて、反応がなかったので、
「沈黙は同意を意味する」と述べて、満場一致で条約は承認された、と発言しました。
続いて1793年10月14日、ポーランドはロシアと永久同盟を結ぶ条約に同意させられましたが、
この条約により、ポーランドは次のことを認めることになりました。
・ロシアはポーランドに軍事基地を建設できるし、いつでも軍隊を送ることができる。
・ポーランドはロシアの同意なしに他国と同盟を結ぶことはできない。
・ポーランド軍を1万5000人に縮小
・選挙王政、拒否権の復活(5月3日憲法の否定)
・タルゴヴィツア連盟の解散
あるポーランド議員は、この条約によって、ポーランドははロシアの1つの州になった、と嘆きました。
一方、エカチェリーナ2世は次のように述べたといいます。
…私はフランスから広がる革命のウイルスを撃退した、
それだけでなく、かつてキエフ公国に属していた、正教会の人々が住む土地を取り戻した、と。
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