社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 守護・斯波義達と守護代・織田達定の相克

2023年3月23日木曜日

守護・斯波義達と守護代・織田達定の相克

 美濃の争いの影響で、協調関係にあった清洲織田氏・岩倉織田氏は再び敵対関係となってしまいました。

清須織田氏は織田敏定が病死(戦死の説も)、跡を継いだ子の織田寛定も戦死するというすさまじい状況の中、

寛定の跡を継いだ弟の寛村は戦いの才能があったのか善戦し、

尾張での戦いを優勢に進めていましたが、

そんな時に、美濃で協力関係にあった石丸利光斎藤妙純に敗れて自害したという報告が入ります。

清須織田家は敗北を覚悟しますが、そこに再び思わぬ報告が入ってくることになるのです…!(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇遠江をめぐる争い

清須織田家と岩倉織田家の争いは、

清須織田家が優勢に戦いを進めていましたが、

美濃では清洲織田家が支援する石丸(斎藤)利光が自害して果て、

美濃での戦いを終わらせた斎藤妙純が尾張に兵を向けてくることが考えられ、

岩倉織田家方は勢いづいていました。

しかしここで、思わぬことが起こります。

石丸利光を支援した六角高頼を討伐するため、斎藤妙純は兵を近江(滋賀県)に向けたのですが、

はかばかしい結果を残せず、やむなく美濃に戻ろうとしたところで、

土一揆が発生し、なんと斎藤妙純ら1000人が戦死してしまったのです(1497年1月10日)。

最大の後援者を失った岩倉織田家は戦いを続けられなくなり、

清須織田家と和睦することになりますが、

その後の岩倉織田家の衰えは顕著であり、

1499年まで中島郡の妙興寺宛に岩倉織田家は文書を出しているのに、

それ以降は清須織田家が妙興寺に文書を出していることから察されるように、

中島郡など各所で岩倉織田家の勢力は減退し、清須織田家の勢力が伸長するようになりました。

岩倉織田家の当主の織田寛広は死んだ年すらもわかっていません(1504年以後の消息が不明)し、その後を継いだのが誰かもよく分からないほどです。

後に織田信長と敵対する岩倉織田信安は、出身が清須織田家であるらしいので、

16世紀前半には、織田嫡流の岩倉の伊勢守家は清須の大和守家に吸収されていたと見るべきでしょう。

実際、織田寛村の跡を継いだ織田達定(?~1513年)は、岩倉城の伊勢守家を継承していたという説まであります。

さて、この織田達定は、織田寛定(織田寛村の兄。岩倉織田家との戦いで戦死した)の子であったといわれています。

織田寛定が1495年に戦死した後、守護代を引き継いだ織田寛村は1503年頃には早くも降板して守護代を織田達定に譲っていますが、

本人は兄の子である達定が成長するまでの中継ぎであると考えていたのでしょう。

新たに守護代となった織田達定ですが、達定の「達」は、

守護斯波義達(1486?~1569?)から一字もらったものです。

織田寛定・寛村の「寛」はその前の守護・斯波義寛からもらったもの、

織田敏定の「敏」はさらにその前の守護・斯波義敏からもらったものですね。

織田達定が仕えた斯波義達は遠江(静岡県西部)に執念を燃やした男でした。

明応3年(1494年)、駿河守護・今川氏親伊勢宗瑞(北条早雲)が斯波氏の領国である遠江に侵攻、明応6年(1497年)には遠江中部まで取られてしまっていました。

斯波氏としてはすぐに反攻したかったのですが、明応4年(1495年)から尾張で争乱が始まったのでそれどころではありませんでした。

清須織田家・岩倉織田家の争いが止んだところで、

まず斯波義達の父・斯波義寛が遠江奪回のための軍事行動を起こすことになります。

斯波義寛は作戦を成功させるために、

管領細川政元や信濃の小笠原氏・関東管領・山内上杉家と手を結び、

今川・伊勢(北条)包囲網を築いています。

黒田基樹氏の『今川氏親と伊勢宗瑞』によると、

斯波義寛が山内上杉顕定に宛てて出した書状が残っており、

それには、

①遠江に理由なく今川氏親が攻めてきたが、家臣の争いがあって放置せざるを得なかった。

②尾張・三河が落ち着き、信濃の小笠原氏も味方についたので、今年の秋に遠江を攻めるつもりである。

③山内上杉殿は、斯波氏の支援のため、伊豆や駿河に攻撃をかけてもらいたい。

…といったことが書かれていたようです。

文亀元年(1501年)、斯波義寛は満を持して遠江中部に進攻、久野(蔵王)城・馬伏塚城を攻撃します。

しかし、小笠原氏の援護は得たものの、山内上杉が動かなかったため今川・伊勢を挟撃することかなわず、

逆に味方の天方城や斯波義寛の弟・義雄が守る社山城が落とされるなど、

苦戦して文亀3年(1503年)には遠江から撃退されてしまいます。

勢いに乗った今川・伊勢は進んで三河(愛知県東部)を攻め、

永正3年(1506年)に今橋(豊橋)城を攻略、

永正5年(1508年)には西三河の岩津城まで進出します。

そしてこの年、将軍に復帰した足利義尹(もと義材)により今川氏親は遠江守護に任命され、斯波氏は名実ともに遠江を失うことになってしまいました。

それに対して斯波義寛の子・斯波義達は遠江奪還に動き、

永正7年(1510年)、遠江の反今川勢力である大河内氏(三河吉良氏の家臣で浜松荘の代官を務めていたが、この頃には自立していた)・井伊氏の挙兵に合わせて遠江にうって出ます。

しかし今川氏は強く、永正10年(1513年)に遠江における斯波氏の拠点・深嶽山城(三岳城)が陥落、再び遠江を失ってしまいました。

『名古屋合戦記』にはその顛末が次のように書かれています。

…後柏原天皇の頃(1500~1526年)、駿河の今川氏親は尾張の守護・斯波義達と敵対して戦った。その頃、三河国の臥蝶の地頭・大河内貞綱は吉良氏の家来であったが、近年自立して周囲に威を振るい、三河の武士を手なずけて今川領を奪おうとしたところ、氏親が攻めようとしてきたので、貞綱は慌てて斯波氏に援軍を頼んだ。義達は援軍を承諾し、貞綱は遠江国の引馬城に籠もった。氏親はこれを討伐しようと考えて、永正10年(1513年)3月、1万余りの兵を率いて遠江に進み、斯波義達は遠江の深嶽城に入った。今川家臣・朝比奈泰以がこれを夜襲したところ、尾張勢は敗れて奥山(三河との国境に近い所にある)に逃れた。

敗れた斯波義達は尾張に帰るのですが、そこで大事件が起きます。

『定光寺年代記』にはこうあります。

「尾州(尾張)尽く乱る」

尾張で争乱が起こったというのですが、

何が起きたのかというと、尾張守護・斯波義達と尾張守護代・織田達定が合戦に及んだのです(◎_◎;)

二人が戦うことになった経緯は明らかになっていませんが、

その理由として考えられるものは、

遠江奪還に織田氏が関わった形跡は全く見られず、守護と守護代の溝が深まっていた。そこに斯波義達が遠江で敗れて帰ってきたので、今が好機と織田達定が斯波義達に攻撃を仕掛けた…

というものでしょう。

しかし結果は意外なことに、

「尾張に国に於いて、武衛屋形(斯波義達)衆、織田五郎(達定)と合戦す。五郎生涯(生害。自害すること)す。侍衆三十余人討死す」『東寺過去帳』)…

織田達定の大敗に終わり、織田達定は自害に追い込まれることになりました。

織田達定を討伐した斯波義達は永正13年(1516年)、遠江の大河内氏からの救援要請に応えて再び遠江に出兵しますが、

『名古屋合戦記』には、上四郡を治める織田信安が出兵に反対し、参陣しなかった、と書いてあり、万全の体制ではなかったようです(◎_◎;)

今川氏親は3万の兵を率いて出陣、引馬城を包囲します(『名古屋合戦記』)。

氏親は金堀職人を動員して引間城の水の手を断つなどの作戦に出た結果、

翌年8月19日に斯波義達・大河内氏の籠もる引間城が陥落、大河内一族は滅亡します。

『宗長日記』にはその時の模様が次のように記されています。

「武衛又子細ありて出城。ちかき普斎寺と云う会下寺にして御出家、供の人数おのおの出家、尾張へ送り申されき」

命は助けられたものの剃髪させられて、尾張に送還されることになってしまった、というのですね(◎_◎;)

『名古屋合戦記』には、この時、今後今川氏に歯向かわないことまで誓約させられた、と書いてあります。なんという屈辱…( ;∀;)

こうして、20年以上にわたって続いた遠江争奪は今川氏の勝利で終わったのです。

『名古屋合戦記』は戦後の様子を次のように記しています。

…斯波義達は隠居して子の義統が跡を継ぎ、織田大和守などがこれを補佐した。今川氏親は大永年間(1521~1528年)のはじめに尾張に那古野城を築いて末子の氏豊を城主として入れ、尾張の押さえとした。義統の妹が氏豊に嫁ぎ、こうして織田・今川間は安定して落ち着くようになった。

今川勢力が尾張の内部に入ること・今川氏豊に斯波義達の娘が嫁がせることを斯波氏は認めており、

ここから、斯波氏が今川氏の下風に立つことになってしまったことがうかがえます(◎_◎;)

遠江での失敗後、斯波氏の影響力は大きく落ち、存在感を急速に失っていきます。

一方で、斯波義達と争って敗れた守護代の清須織田家も力を失っており、

しばらく尾張はリーダー不在の時期が長く続くことになります。

その中で力を伸ばしていくことになるのが、

清須織田家の重臣で清須三奉行と呼ばれる因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家であり、

この中の弾正忠家は、のちに織田信長を輩出することになるのです…!🔥

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