苦戦しながらも尾張の内の2郡を得た織田敏定。
分家でありながら、尾張の中に独自勢力を築くことに成功したことになります。
そしてさらに、織田敏定は躍進していくことになります…!🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇鈎の陣と朝倉氏との対立
1481年、織田敏定は岩倉城にいる本家の織田敏広に攻撃を仕掛け、これに勝利します。
突然の軍事行動には、織田敏広を陰に陽に援護していた斎藤妙椿が前年に死去していた影響があったと考えられます。
織田敏広はこの戦いで戦死したとも、年内に病死したともいわれています。
敏広の跡を継いだのは弟・織田広近(?~1491年)の子、織田寛広でした。
織田広近は1459年に小口城を、1469年に犬山城の前身となる木ノ下城を築いた人物です。
織田敏定と織田寛広の間にはしばらく協調関係が続き、
岩倉織田家の当主が寛広に交代した1481年には織田敏定・織田寛広・織田広近で上洛し足利義政に会い、
長享元年(1487年)・延徳3年(1491年)には幕府による二度にわたる六角氏征伐に、斯波義寛(斯波義敏の子。越前で朝倉氏と戦っていたが敗れ、1483年に清須城に入っていた。1457~1513年)に従って共に出陣しています。
この六角征伐は、応仁の乱中に六角氏が奪った、近江(滋賀県)の寺社や幕府奉公衆の土地の返還を、幕府が要求したのに六角氏が応じなかったことから起きた戦争でした。
『蔭涼軒日録』には、「近江に土地がある者は、六角氏のために年貢を得ることができなくなり、中には餓死した者もいる」と奉公衆が窮状を将軍に伝えたうえで六角征伐実施を訴えた、ということが記されていますから、六角氏の横領はよほどひどいものであったようです(◎_◎;)
そして実行された1487年の六角氏征伐は、『大乗院寺社雑事記』に「今度惣大将武衛」とあるように、斯波氏が総大将を務め、織田氏を中心とする5千~8千の斯波軍が幕府軍の主力となっていたといわれています。
(『蔭涼軒日録』には、「織田与次郎(寛広)、同じく大和守(敏定)を首として、人数五千ばかり」とあるが、別の記事には、斯波義寛の軍勢は「三百九十一騎、人数八千ばかり」と書いてあり、よくわからない)
この戦いの際に、斯波氏の家来であったが独立した朝倉軍と一緒の陣になるという気まずい場面もありました。
その際、織田敏定は、
…応仁の乱で敵方の西軍にいた朝倉氏を寝返らせる際に、細川勝元様は「大敵である朝倉氏を厚く迎えるならば、他の西軍の武将たちもこちらに寝返るだろう。これはそういう戦略なので、納得できないかもしれないが、了解してもらいたい」と言われた。それなのに、なぜ寝返った朝倉孝景が死んだ後も、朝倉氏の独立を許されるのか。三管領家の斯波氏に対して、なんというひどい仕打ち、こんな屈辱を受けては、斯波氏は幕府にお仕えすることはできない。
…と幕府に訴えています。
しかし、管領の細川政元(細川勝元の子。1466~1507年)は
「武衛(斯波氏のこと)与間事ハ不一決云々、細川申沙汰也」と
『大乗院寺社雑事記』に書かれているように、
斯波氏の言い分を認めませんでした。
朝倉氏は一族の者を細川政元に人質をとして出すなどして関係を築いていたので、
このような朝倉寄りの結果となったのでしょう。
怒った織田氏は翌年3月に陣を引き払って尾張に戻ってしまいます(斯波義寛は前将軍・足利義政に会ってから12月に帰国)。
この斯波氏と朝倉氏の対立が、幕府を揺るがす事件が起きる原因の一つとなっていきます(-_-;)💦
0 件のコメント:
コメントを投稿