前回のマンガで述べたように、
ポーランドを圧迫するロシアはオスマン帝国と第二次露土戦争(1787~1791年)を行っていました。
ロシアはオスマン帝国にかかりきり、
ならばロシアに干渉されずに国を改革するのは今しかない…!とばかりに、
ポーランドの改革派(愛国派)は1788年に4年にわたる長期議会(四年議会)を開き、
さまざまな法律を作り、
また、その総決算として憲法を作ることにしますが、
その憲法ができる際には一波乱あり、反対派もいました。
どうしてトラブルが起きたのか、
その内容をまず見ていこうと思います🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇1791年5月3日憲法
ポーランドは1788年から4年にわたる議会を開催(四年議会)、
1791年には「1791年5月3日憲法」(統治法)を作り上げます。
この憲法は、以下のようなものでした。
まず、前文にあたる部分には、
この憲法をなぜ作ったのかが述べられています。
「我々の制度の老朽化した欠陥」を認め、
「ヨーロッパがおかれている好機」を利用し、
「他国の屈辱的な命令や強制から自由に」なるため、
「祖国とその国境を守るために、断固たる決意をもって以下の憲法を定める」。
そして、憲法の内容は、以下の通りでした。
第1条 宗教の自由
第2条 シュラフタ(貴族[特権身分])の権利の保障
(一方で、1791年4月に作られた法律では、一定数の税金を払わないシュラフタの参政権は認められないことになった。また、一定数の税金を納める者は、シュラフタ身分が与えられ、参政権が与えられることになった)
第4条 農民
農民は、「よき配慮がなされ、法と国内統治権力の保護下に置かれなくてはならない」。「一定の土地を保有する農民は、それに付随する義務を排除することはできない」。
第5条 三権分立
「人間社会のあらゆる権力は国民の意思に端を発している。国家の統一や公民の自由や社会の秩序を…永遠に保つためには、…政治体制を3つの権力が構成せねばならない。」立法権・最高執行権・裁判権である。
第6条 立法権
議会は代議院と、国王を議長とし、司教・県知事・城代・大臣で構成される元老院から成る。「代議院は国民が全権であることの化身かつ統合体として、立法の聖域となる」。すべての議案はまず代議院で決議される。代議員で決まったことは続いて元老院に送られ、元老院に送られた法律が留保されたときは、次回の代議院に送られ、合意された場合は、採択される。議会は2年ごとに開催する。議決は全員一致制を廃止し、多数決制とする。
第7条 執行権
執行権は法律の範囲内で行われる。執行権には、法の制定権・課税権・公債発行権・予算変更権・宣戦布告、講和を行う権利は含まれない。
国王は、世襲制とする。「秩序を転覆させた空位期による周知の混乱」の回避・「世襲制時代の我々の祖国の繁栄と幸福の記憶」・「外国やポーランドの有力者に王権への野心を閉ざす必要」があるためである。
ザクセン選帝侯家(1697~1763年までザクセン選帝侯家が国王を務めていた)が代々ポーランド王につくこととする。
国王は「自分を通じて何も」行えないので、責任を持たず、身の安全を保障される。専制者であってはならず、この憲法を守らなければならない。
戦争の際の最高指揮権は国王にあり、司令官の任命も国王ができるが、国民はこれを自由に変更できる。
大臣の更迭について、両院合同の無記名投票で3分の2以上の賛成があれば、国王は直ちに別のものを大臣にしなければならない。
第8条 裁判権
「裁判権は立法権、国王いずれによっても行使できない」(司法権の独立)。
県・地区・郡ごとに第一審法廷を置き、判決に不服な際は各州の大法院へ控訴ができる。
第10条 国王の子どもたちの教育
国王の子どもたちに「国の憲法への愛情を植えつける」ように教育は行われなければならない。
第11条 兵役の義務
国民は、「自分の領土を守ることを義務付けられる」。「軍隊とは、国民に由来する」。国民は、「軍隊に褒美を与え、軍隊に敬意を表する義務を負う」。「軍隊は国境守備と普遍的治安維持によって国民を守る、すなわち国民の最強の盾とならねばならない」。軍隊は「執行権の従属下に置かれ、国民と国王に忠誠を誓い、国民の憲法の擁護を誓わなければならない」。
ポーランドが衰えてしまった理由の1つに、
王権が弱まり、シュラフタが強大化して、中央集権(国を一つにまとめる)を図るのが難しくなった、というのがありました。
そこで、この憲法(や法律)では、
①選挙王政を廃止、王の世襲を認めることで、王位継承の際の混乱を防ぐ。また、シュラフタから王の選挙権を取り去ることで、シュラフタの力も弱める。
②多数決制とすることで、物事が決まらなくなるのを防ぐ。また、シュラフタの拒否権を認めないことで、シュラフタの力も弱める。
③一定の税金を納めない者に参政権を認めないことで、マグナート(大貴族)に依存する貧しいシュラフタの票がマグナートに集中するのを防ぐ。これにより、マグナートの力を弱める。
(スタニスワフ2世の『回想録』には、貧しいシュラフタは「マグナートたちの従僕と化している。マグナートたちは自分ないし子供たちへの投票を彼らに要求する」…と書かれている)
④一定の税金を納める者にシュラフタ身分を与え、参政権を認めることで、
以前からいたシュラフタの割合を減らし、その発言権を弱める。
この3つによってシュラフタの力を抑えることにしています。
一方で国王の権力の方は大きく制限しており、
「国民」から成る中央政府の力を大きく拡大しています。
「国民」といっても参政権を持つのはシュラフタだけなので依然と変わりはないのですが、
「中央政府」の力を強めて、一部のシュラフタ(マグナート)の横暴を許さないようにしている点に意義があると思います。
〇憲法賛成派VS反対派の討論
5月3日、熱気に包まれたワルシャワの民衆が王宮を取り巻く中、
王宮内の元老院で憲法の採決が執り行われました。
11時に議会が開会すると、賛成派・反対派が次々に発言していきます。
<賛成派の主な意見>
スタニスワフ・ソウティク「今という好機を逃せばポーランドは外国の餌食になってしまう」
イグナツィ・ポトツキ「王権(というより中央政府の権力のことか?)の強化と世襲制は必要である」
イグナツィ・ザクシェフスキ「一部の者(大貴族であるマグナート)による支配を終わらせるべきである」
ピウス・キチンスキ「我々はロシアに従属することを待っているのか!シベリアやカムチャツカに連れ去られることを期待しているのか!この憲法は必ず決議されなければならない!」
<反対派の主な意見>
ヤン・スホジェフスキ「この憲法は専制をもたらす。自由を抹殺する憲法にポーランド人が反対していることをヨーロッパに知らせないといけない」
「支配を受けるようになるのならば、私は息子を殺す!」
アントニ・スタニスワフ・チェトヴェルティンスキ「憲法は自由の墓場である!世襲制だと選挙を通して国王に意見することができなくなる」
討論の中で、当初議員は賛成派110名、反対派72名であったのが、
反対派は30名ほどまでに減り、
憲法賛成派が圧倒的に優勢になったので、
国王スタニスワフ2世は賛成派の者たちと大聖堂に行き、憲法を守る誓いを立て、
ここに世界でアメリカ合衆国憲法に次ぐ、2番目の憲法が誕生することになりました。
〇続く憲法反対派との闘争
しかし、憲法反対派はまだあきらめておらず、
1792年2月に憲法の賛否を問うために開かれる地方議会に向けて、
憲法のネガティブ・キャンペーンを実施します(;^_^A
曰く、「ポーランドの自由にとって恐ろしい改悪」
曰く、「専制支配の源」
…といいますが、ここでいう「自由」とは、シュラフタの「特権」のことであって、ポーランド人民の自由ではないのです。
反対派は、財産の少ないシュラフタから参政権を奪ったこと、
財産のある者に新たにシュラフタ身分を与えて参政権を認めること、
シュラフタによる選挙王政を認めず世襲制にしたこと…に反対していました。
これはつまり、「特権身分」のシュラフタが、「既得権益」を制限されるのを嫌がっているのです。
自分達のことばかり考えて、ポーランドのことを考えていないのです。
彼らにとっては、シュラフタこそが全てだったのかもしれませんが(-_-;)
賛成派は、
「強力な行政権は必要だ」「(シュラフタの)自由は改良されなければならない」と反論しました。
1791年5月3日憲法のことを、賛成派も反対派も
「レボルーツィア」(革命・急激な変化)
と呼んでいましたが、
反対派は「改悪」といい、賛成派は「改良」と言っていたわけです。
そして運命の時、憲法の賛否を問う地方議会。
78ある地方議会の中で、賛成は60以上にのぼり、賛成派は大勝、反対派は完敗となりました。
反対派は憲法をすごく嫌がっていますが、
フランスは穏健的なのを批判しています。
シュラフタを完全否定しているわけでもありませんし、土地を取り上げているわけでもありませんからね。
1791年5月3日憲法は決して理想的なものではなく、
現実を見て、中央政府とシュラフタのバランスを考えて作られています。
だからこそ、賛成した人(参政権を持つのはシュラフタ)が多かったのでしょう。
『フランス革命の省察』などで知られるエドマンド・バーク(イギリス)や、
『コモン=センス』で知られるトマス・ペイン(イギリス出身、アメリカで活躍)は血を流すことなく憲法を成立させたことを評価しています。
(フランス革命では多くの血が流れましたからね…)
のちにアメリカ第3代大統領になるトマス・ジェファソンは
「文明社会における最大の成果」と激賞しています。
高評価の意見が多く、国内も賛成者が多数いるにかかわらず、反対派は反対するのです。
改革の際は、必ず不利益を被る人たちが出てくるものです。
(国や全体にとってはプラスではあるのですが)
その人たちが進歩の足を引っ張るわけですね。
(今回の5月3日憲法はその不利益を被るシュラフタに対するケアもされてはいたのですが。)
憲法にあくまで反対なシュラフタ(大貴族[マグナート]が中心)は、
1792年5月、マグナートであるスタニスワフ・シュチェンスヌィ・ポトツキを盟主にタルゴヴィツア連盟を結成し、
新憲法はフランス革命の影響を受けて民主主義の考えに感染したものであると批判し、
(…といっても、憲法以前から専制政治であったわけではなく、シュラフタ中心の議会政治であったのですが…。特権身分のシュラフタに他の一般人が混ざる[これが「民主的」な部分]のがイヤなのでしょう)
選挙王政・すべてのシュラフタの参政権…つまり5月3日憲法の核心部分の廃棄を求めて兵を挙げました。
しかし連盟は少数派で劣勢は免れ得ません。
そこで、連盟は、なんとロシアに助けを求めます。
「優れた公正な女帝であるエカチェリーナ2世を信用する」と言って…。。
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