尾張守護代となり尾張に根付いた織田氏ですが、
織田郷広と他の織田一族との対立が見られるなど、
早くも織田氏に分裂の兆しが見え始めていました。
そして応仁の乱をきっかけに、織田氏は完全に分裂することになります…!🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇尾張国分割
前回のマンガでも述べたように、斯波義敏は斯波氏内部の対立(武衛騒動)に敗れて京都から没落しましたが、
その後、京都では有力大名の細川氏と山名氏とで主導権争いが発生します。
斯波義廉はもちろん母・妻の実家である山名氏につき、
一方で斯波義敏は細川勝元を頼り、畠山氏の内部分裂と共に、これが応仁の乱の原因の一つとなりました。
1467年、応仁の乱が起こると、
守護の斯波義廉は山名氏の西軍、斯波義敏は細川氏の東軍につき、
尾張守護代の織田敏広は斯波義廉に味方して西軍についたのですが、
応仁の乱の終盤で、織田氏から東軍側につく者が現れます。
その人物は、以前に述べた『日本外史』にも出てきた織田敏定(1452~1495年)です。
越前にいた織田家は尾張にやってきた後は、本家が尾張守護代となり、分家である大和守家が守護又代(又守護代とも。守護代のそのまた代官)となっていきます。
その分家の大和守家の出身であったのが織田敏定であり、
織田常松のひ孫と言われています。
織田常松の子が教長でしたが、その弟を五郎といい、大和守を名乗ったため、その家系を大和守家と言います。
織田五郎の子が久長で、その子が敏定になります。
『日本外史』では本家みたいな扱いでしたが、
実際は分家の大和守家の出身だったわけです。
敏定の母は越前守護代・朝倉教景(1380~1463年)の娘であり、戦国大名となった朝倉孝景(1428~1481年)は年はかなり離れていますがいとこにあたります。
この分家の敏定は途中の1476年頃に突然東軍についたので、
織田家も2つに分かれて相争うことになりました。
おそらく幕府から誘いを受けたものでしょうか。
敏広は京都や越前で戦っていましたが、
1475年、朝倉氏に越前から追い出され、斯波義廉とともに尾張に戻ってきていました。
文明8年(1476年)11月13日、織田敏定は尾張の守護所がある下津城を攻撃して放火しますが、
織田敏広は美濃(岐阜県南部)の斎藤妙椿(敏広の妻は妙椿の養女であった)の援助を得て盛り返し、
織田敏定を尾張から追放することに成功します。
1478年、幕府は上洛していた織田敏定を尾張守護代に任じて斯波義廉の攻撃を命じ、
美濃守護・土岐成頼、守護代・斎藤妙椿、信濃の小笠原家長(?~1480年)には織田敏定の加勢を命じました。
しかし斎藤妙椿はやはり、養女の夫である織田敏広の味方をし、幕府に逆らって織田敏定を攻撃します。
苦戦した織田敏定は清洲に城を構えて防戦します。
激しい戦いの中で、織田敏定は矢を受けて右目を失明しています。
翌年、幕府の仲介で和議が成立し、
織田敏広は葉栗郡・丹羽郡・中島郡・春日井郡・海西郡・山田郡の6郡を、織田敏定は海東郡と愛知郡(山田郡説もあるが、それだと2つの郡が分かれてしまう)の2郡を分けて支配することになりました。
織田敏広は岩倉城を築いて居城としたため、以後の敏広の系統を岩倉織田家と言います。
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