越前国(福井県北部)の織田荘で起こった織田氏は、
いよいよ尾張に移る時がやってきます。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇尾張国守護代となった織田氏
織田氏の祖と考えられている織田常松は、
1399年に起こった応永の乱で活躍したとされ、
山﨑布美氏は、これが尾張守護代に任命される道筋になった、としています。
(藤原信昌の劔神社文書奉納から6年後なので、やはり藤原将久=織田常松のような気もしますが…(;^_^A)
尾張の守護代となった織田常松は1429年頃に亡くなり、
その子とされる教長(朝長)が守護代を継ぎます。
1429年、将軍・足利義教は、斯波義重の子・斯波義淳(1397~1434年)を管領に任じようとしましたが、義淳はこれを断ります。そこで義教は、斯波氏の重臣、甲斐氏・織田氏・朝倉氏に義淳を説得するよう命じましたが、越前・遠江守護代を務める実力者・甲斐将久(後に出家して常治[じょうち]。?~1459)は義淳は管領の器ではないから説得はできない、と命令を聞きませんでした。織田・朝倉も同意見だったといいますが、この時の織田はおそらく教長だったと思われます。
このエピソードからは、すでに守護とその重臣間で溝ができたことがわかります(◎_◎;)
さて、織田教長ですが、1431年頃にははやくも織田淳広なる人物に守護代が移っています。
(常松が長生きしたため、子の教長は長く務められなかったのではないでしょうか)
織田淳広は謎の多い人物で、誰の子どもかもわかっていません。
時期はいつかはわかりませんが、
淳広の次の守護代は織田教長の子である織田郷広(?~1451年)がなります。
織田淳広が途中に挟まっているのは、教長が死んだとき、まだ幼かったからでしょうか。
1441年、織田郷広は、家来が貴族の荘園から年貢を奪い取る横暴をしたのを訴えられるのですが、
「志波民部少輔(斯波持種)絶交、甲斐入道并織田一族等皆以絶交」
という事態になり、周囲がすべて敵になり、
孤立無援となった郷広は尾張から逃亡します。
おそらく織田郷広追放の首謀者となった甲斐将久は、
「郷広がいなくなっても織田一族がいるから安心してほしい」と貴族に伝えています。
ここからは斯波氏の重臣間でも対立があったこと、織田一族の中でも争いがあったことがわかります(;^_^Aヤバイ…
代わって尾張の守護代になったのは郷広の弟の久広でした。
その後、織田郷広はどうなったかというと、
1451年に守護代復帰の運動をして、将軍・足利義政から守護代再任の承諾を得ますが、
義政の母の日野重子の反対のためにあえなく再任は取り消されてしまいます。
どうも甲斐将久が日野重子に手をまわしていたようです。
それでも郷広は今度は主君の斯波義健(1435~1452年)に守護代復帰を願い出るなど粘りますが、ついには足利義政の同意を得た甲斐将久の手の者によって殺害されたといいます(自害に追い込まれたという説もある)。
その後、尾張の守護代職は1456年頃に、どういう経緯か詳しくは不明なのですが、織田郷広の子である織田敏広(?~1481年)に受け継がれます。
この織田敏広の代に、あの応仁の乱が勃発し、それに巻きこまれる形で、織田氏も2つに分かれて相争うことになるのです…!(◎_◎;)
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