前回のマンガでは、織田郷広・織田久広の兄弟争いについてふれました。
この争いは結局、おそらく郷広と久広の妥協で、郷広は守護代職をあきらめるが、久広の次は郷広の子の敏広とする、ということで終わったようです。
これで一件落着かと思いきや、また次なる火種が表れ、織田氏はそれに巻きこまれることになっていくのです…💦
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇斯波氏の内訌
織田氏の内部抗争があった頃、主君の斯波氏も混乱状態にありました(◎_◎;)
なぜかというと、
1405~1409年に管領を務めた斯波義重(1371~1418年。斯波義将の子)が1418年に47歳で亡くなると、
その子の斯波義淳(1397~1434年。1409~1410,1429~1432年に管領)は1434年に37歳で死亡、
その子の義豊(1415~1432年)は父に先立って17歳で死亡していたため、
義淳の後を継いだ義郷(義淳の弟。1410~1436年)も落馬して26歳で死亡、
(『看聞御記』には、「馬陸梁落馬、絶入打頭云々」とある)
その子の斯波義健(1435~1452年)がわずか1歳で跡を継ぎますが、
これもまた1452年に子が無いまま17歳で死亡し、斯波氏の嫡流は断絶してしまいました。
こうも当主が連続して死ねば、混乱状態にならないわけがありません。
斯波氏の跡を継いだのは、一族の有力者・斯波持種(斯波義将の弟の孫。1413~1475年)の子、
斯波義敏(1435~1508年)でした。
この頃、幼少の斯波義健の後見を務めた甲斐将久(?~1459年。出家して常治。越前・遠江守護代)が斯波氏を上回る勢いで勢力を伸ばしており、これを面白く思わない斯波持種・義敏と対立します。
当時幕府は有力守護の力をそぐために、守護代と手を結ぶ傾向にあったのも、これに拍車をかけました。
1456年には、斯波義敏は甲斐の横暴を幕府に訴えますが、甲斐有利な裁定を出されてしまいます。
これは、政所執事の伊勢貞親の側室が甲斐常治の妹だった、という理由もあったようです(ひどい…)
怒った斯波義敏は、長禄元年(1457年)、京都東山の東光寺に引きこもってしまう、という事件を起こします。
また、甲斐氏の圧迫に苦しめられていた越前・尾張・遠江の国衆たちもこの裁定に怒り、
11月に起きた徳政一揆(この時の一揆は相当激しかったようで、『経覚私要鈔』には、「下として上を計らうの条、下剋上の至り、狼藉所行、未曾有のもの哉」と記されている)に乗じて、幕府に対する腹いせに京都で乱暴を働きました。(もはやヤクザの世界…)
幕府は甲斐常治・織田敏広・朝倉孝景・山名教豊(山名宗全の子)にこれの鎮圧を命じ、
国衆たちは越前の有力国衆である堀江利真の子・兄弟2人など36人を失うなど敗北します。
国衆たちの怒りはさらに燃え上がり、本格的な抗争に発展しそうになったので、
長禄2年(1458年)2月、幕府は斯波義敏の家来たちの所領を安堵することを条件にして、斯波義敏の引きこもりをやめさせます。
『碧山日録』によれば、幕府では、重臣会議で「斯波氏は足利氏の一族である。斯波氏で乱が拡大すると、その禍は足利氏に及ぶだろう」と話し合いがあり、斯波義敏を復帰させることにしたのだといいます。
また、斯波氏の戦力を、関東で幕府に逆らう足利成氏(1438?~1497年)征伐に利用したかった、という思惑もありました。
しかし、9月17日に足利成氏討伐を命じられた斯波義敏は「以ての外の迷惑」(『大乗院寺社雑事記』)と感じて受け入れず、甲斐常治も免除を願い出るありさまでした。
なぜかというと、実は両者間で7月からすでに越前で戦いが始まっていた(長禄合戦)ため、それどころではなかったのです。
斯波方・甲斐方は越前で激しく争い、その様子は、『経覚私要鈔』に「主従合戦未曾有次第也」と書かれるほどでした。
幕府は12月に再度、斯波義敏に関東の古河公方征伐を命じ、義敏はついに重い腰を上げますが、
斯波義敏は近江(滋賀県)の小野まで進んだところで行軍を停止します(◎_◎;)
それどころか、劣勢になった味方を救うため、古河公方征伐軍を率いて越前に攻めこんでいます💦
幕府は命令に従わない斯波氏に怒り、周辺の守護大名に甲斐氏を支援するように命じます。
長禄3年(1459年)8月、敗れた斯波義敏は周防(山口県)の大内氏を頼って逃亡したため、
斯波氏の家督は義敏の子の松王丸(のちの斯波義良[1457~1513年])が継ぐことになりましたが、
甲斐敏光(8月12日に亡くなった甲斐常治の子)と越前の豪族・朝倉孝景によって寛正2年(1461年)、松王丸は出家させられ、
斯波氏の親族の渋川氏から義廉(1446?~?)が斯波氏に入って当主となりました。
ここに完全に斯波氏は甲斐氏に牛耳られる形となってしまったわけですが、
寛正4年(1463年)、なんと周防に逃れていた斯波義敏が赦免されるという出来事が起こります。
あれだけ幕府に逆らった斯波義敏の赦免に、『大乗院寺社雑事記』は「誠に以て天下の珍事たるべきか」と驚きが記されています。
赦免された理由としては、
『大乗院寺社雑事記』は、将軍・足利義政の母・日野重子が亡くなって百日目にあたり、母が極楽に行けるように恨みを持っていそうな者たちを赦した…とし、
『経覚私要鈔』は「伊勢守申沙汰」と記して、伊勢貞親が赦免するように足利義政を誘導した…とします。
『応仁記』によれば、伊勢貞親の側室と斯波義敏の側室は姉妹関係にあったそうで、
その縁で斯波義敏は許されたと思われます(伊勢貞親、公私混同すぎる…💦)。
赦免された義敏は次いで寛正6年(1465年)に上洛が許され、
翌文正元年(1466年)8月に義敏は義廉に代わってついに守護に復帰します。
これに『大乗院寺社雑事記』は「一天大儀出来、珍事云々」と反応しています。
同じく斯波義廉もあまりのことに驚き反発し、伊勢貞親のやり方に反発を覚える山名氏・細川氏などの有力大名も反対に回ります。
(斯波義廉の母は山名氏の娘であり、この年の8月に義廉が山名宗全の娘[養女とも]と結婚したという関係性もあった)
『文正記』にはこの時の京都の騒動が尾張にも及んでいたことが、次のように記されています。
「風(ほのか)にきく、文正元年丙戊七月中旬の比(ころ)従り、洛中躁動、天地覆す、諸国之軍兵,おびただしく馳上り、辺土に至るまで、雲の如く霞の如く充満す、其員幾千万と云うことを知らず、然る間、尾州守護代纖田兵庫助敏広、遠州陣を払い、しばらく汗馬を休め、気を甘け在国仕り、此の雑説をきいて上洛之支度有りと雖も、諸一族之僉議に依りて、京都の一注進を待つ処に、国中強人と同浪人与して、四方に蜂起し、剰え下津を襲わんと欲す、然らば大路小路城門城門櫓櫓に、役人を置きて、警固にすえ、乱株・逆木・雉堞(ししがき)等を構え、日夜に用心す、その威におののき、彀(やごろ)間近く攻め寄せず、駆け出して薙ぎ倒さんと欲すも、城の中は無勢なり、封疆広く、もしくは御方に野心の輩有て、強人・浪人に入れ替わられざらんやと、かけひき思案最中なり、彼の妖けつ姦賊屯すと雖も、京の静謐を聴いて、敗北逃走して、行方知れず、是故に泰山の安きに国を措く、同名次郎左衛門敏貞、七月十八日、時刻を移さず、小臣の身と雖も、最前に一騎馳せ上る事、当千と謂うべし、寔(まこと)に是三軍も帥を奪うべきとも、匹夫も志をば奪うべからず、其れ斯くの謂か、同参河守広成、八月四日に猛勢を引率して、洛中に入り、貴殿に対面し、艮(うしとら)の櫓を警固す、然らば敏広、其の身は国の固め為りと雖も、猶々京都の雑説は櫛の歯を引くが如く、夜を日に継ぎて、飛脚羽書刻々到来す、之に因り、八月下旬、国中の勢を分けて、家弟与十郎広近に指し副え、相従輩は、同名従父兄弟三郎広久・同名九郎三郎広泰、其の余の兵卒、あげて記すに耐えず、率いて上洛せしむ、…」
(文正元年[1466年]7月中旬頃、京都におびただしい数の諸国の兵士がやってきて、雲霞の如く充満した、その数は幾千なのか幾万なのかもわからないほどであった。そのため、尾張守護代・纖田敏広は、遠江に出陣していたが陣を払い、尾張に戻った。上洛の準備はできていたが、一族の話し合いで、京都からの報告を待つことになった。そこに、尾張の有力者と土地を失った浪人たちが協力して蜂起し、守護所のある下津を襲おうとした。そうであるからには、道・城門・櫓に、兵士を置いて固く守らせ、乱株・逆木・雉堞等を構え、昼も夜も用心した。敵方はその威を恐れ、突破しようと思っても、弓の射程範囲内に攻め寄せることができない。下津城の中は広いが、兵の数は少ないので、内応者が出て反乱勢を引き入れてくれないだろうかと考えて、その場にとどまっていたが、京都の様子が落ち着いているというのを聴いて、勝ち目が無くなったと判断した反乱勢はちりぢりになって逃走したので、ようやく一息つくことができた。織田敏貞[敏定とは別人]は、7月18日、反乱勢が去ってからすぐに、身分の低い家臣であったが、一騎で上洛して斯波義廉のもとに駆けつけた。勇者と言うべきである。「大軍であってもまとまっていなければ敗れることはあるが、身分の低い者であっても、意志が固ければ、その気持ちを変えることができない」というのは、このことをいうのだろう。織田広成は8月4日に軍勢とともに京都に入って斯波義廉に対面し、館の北東にあった櫓を守った。織田敏広は尾張に残っていたが、京都からはひっきりなしに窮状を伝える手紙が届いたので、8月下旬、尾張に残っていた兵士を分けて、弟の広近に与え、従兄弟の広久・広泰とともに上洛させた…)
尾張の内部も不穏になってきたので、守護代・織田敏広は上洛せずに留守番をしていたわけですが、
一方で、『応仁記』には、
「義廉は尾張の守護代織田兵庫助、其の弟与十郎に軍副被召上、越前・遠江の勢も召上らる、京都には甲斐・朝倉・由宇・二宮の被官共、多勢と申すに計なし、…」
(斯波義廉は織田敏広とその弟・広近に軍とともに上洛させただけでなく、越前・遠江の軍勢も上洛させた。京都には甲斐・朝倉・由宇・二宮らの軍勢もいたので、その軍勢は数え切れないほどになった)
…と書かれており、こちらでは織田敏広も上洛しています。よくわかりません(;^_^A
9月6日、集まった軍勢を背景にして、ついにクーデター(文正の政変)が起こり、伊勢貞親・斯波義敏などは没落することになりました(-_-;)
しかしこれで一件落着とはならず、次は細川・山名間で主導権争いが起こっていくことになり、これに斯波氏や畠山氏の内輪もめも絡んで、応仁の乱に発展していくことになるのです…(-_-;)
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