社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 絶頂期の織田敏定~簗瀬河原の戦い(第二次六角征伐)

2023年3月15日水曜日

絶頂期の織田敏定~簗瀬河原の戦い(第二次六角征伐)

 第一次六角征伐で斯波氏は大軍で出陣し、

その貢献度の高さでもって朝倉氏に奪われた越前の奪還を幕府に承認してもらおうとしたのですが、

朝倉氏は管領細川政元と親しく、聞きいられなかったので、

斯波氏は勝手に帰国してしまいます。

悶々とする斯波義寛織田敏定でしたが、

なんと、越前を取り戻すチャンスが舞い込んでくることになります…(◎_◎;)

それはなぜか。

将軍・足利義尚が突然病気で倒れ、23歳の若さで亡くなったからでした。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇第二次六角征伐での織田敏定の活躍と朝倉征伐の内定

1489年、9代将軍・足利義尚が死ぬと、跡を継いだのは足利義尚の父・足利義政の弟、足利義視の子、…つまり、従兄弟の足利義材(のちに義稙。1466~1523年)が10代目の将軍となります。

しかし、1491年、後見人である足利義視が亡くなると足利義材の立場は急に微妙なものとなってしまいます。

当時の幕府の実力者は足利義政の妻・日野富子と管領・細川政元でしたが、

日野富子とは親の足利義視が対立したため仲が悪く、

(日野富子が足利義材の従兄弟にあたる[義材の父である義視の兄、政知の子]である清晃[のちの足利義澄]を大事にしたため)

細川政元とは、義材が庶流の阿波細川家の細川義春を重用したため(足利義材の妻は細川義春の妹)仲が悪くなっていました。

その中で父・義視を失ってしまったので、義材は心細い気持になったでしょう。

そこで義材は、義視が死ぬ前から考えていた、六角征伐を成功することで、

将軍として存在感を発揮するための実績作りをしようとしました。

(表向きには討伐の理由は、六角高頼が勢いを取り戻してきたから、ということにしていました[『蔭涼軒日録』])

延徳3年(1491年)3月に実施予定であった六角征伐は、1月に足利義視が病死したことにより延期されていましたが、

4月21日、ついに足利義材は六角征伐を6月に行うことを宣言しました(実際出陣したのは8月27日)。

すると、命令を受けた大名だけでなく、命令を受けていないものまで参陣したため、

「雲の如し、霞の如し」「惣じて数万人なり。…常徳院殿(足利義尚)御出陣に百倍なり」『大乗院社事雑事記』『実隆公記』)とされるほどの大軍になったといいます。

集まった大名には、細川・畠山・斯波の三管領家をはじめとして、赤松・山名・京極・一色の四職、阿波細川家・淡路細川家・若狭武田・土岐・北畠・仁木・大内氏がいました。

大軍で攻め寄せる幕府軍に対し、六角氏は前回と同じように甲賀郡に逃げ込んでゲリラ戦を展開します。

その中で六角高頼は11月4日に、重臣の六角(山内)政綱を使者として送り、和睦を図りますが、

足利義材はなんと、織田敏定と浦上則宗(赤松氏の重臣。 侍所所司代・山城守護代。1429~1502年)に命じて六角政綱を襲わせ、その配下30余人ともども殺させます。

織田敏定はこの後、剣を義材から与えられ、人々は「千載の名望」であると羨んだといいます。

翌年(延徳4年[1492年])3月、六角氏は反撃に出て、幕府軍の先鋒、細川氏の家臣・安富元家を攻撃し、これを敗走させることに成功します。

これに対して足利義材は赤松・斯波・若狭武田に攻撃を命令します。

『蔭涼軒日録』などによれば、この総大将は斯波でした。

そして出撃したのが織田敏定(斯波)、浦上則宗(赤松)、逸見弾正(若狭武田)が指揮する1千の兵でした。

延徳4年3月29日、簗瀬河原(東近江市)で織田敏定らの1千は六角氏の4千の大軍と激突し、なんとこれに大勝します。

敵の首の多くは織田敏定が奪ったといいますから、織田敏定は大活躍したわけです。

足利義材は続いて斯波義寛を先鋒に任じ、甲賀郡を攻撃させます。

六角高頼は伊勢国に逃れますが、そこでも北畠氏の攻撃を受け、多くの損害を被って壊滅してしまいます。

足利義材はここで勝利宣言を行い、明応元年(7月19日に明応に改元した)(1492年)12月14日に京都に凱旋しました。

足利義材の得意や思うべし、です。

しかし、『菅別記』12月13日条には、

六角氏の籠もる甲賀郡を長い時間がたっても誰も攻めようとしない、人々はもう敵はいないと訴えたので、将軍は帰京を決めたという、これが事実であれば、将軍の帰京は甚だ迂闊(うかつ)であったといえよう…とあり、

また、『大乗院寺社雑事記』12月23日条には、

近江はまた六角氏のものに戻ってしまった。ひどいことだ…とあって、

どうやら当時の人々には六角征伐は失敗だと映っていたようです(◎_◎;)

そこで足利義材は翌年(明応2年[1493年])2月15日、

失敗を取り返すためか、余勢を駆ってかはわかりませんが、

今度は河内の畠山基家(第二次六角征伐に参加した畠山尚順と対立していた人物。応仁の乱で活躍した畠山義就の子。1469~1499年)征伐に乗り出しますが、

足利義材は畠山征伐を終えた後は越前朝倉氏征伐を考えていたといいます。

『蔭涼軒日録』延徳3年(1491年)10月11日条には、

伝聞形式ではありますが、

六角征伐に参陣中の斯波義寛が足利義材から、

(朝倉)貞景御退治」と書かれた朝倉貞景討伐の命令書を受けとった、と書かれています。

それに対し、織田敏定は「貞景」の二字だけではわかりにくいので、

「越前国朝倉孫次郎貞景」と書き改めていただけないか、

と足利義材に伝えたところ、

そのように御内書が改めて作り直されたので、斯波義寛は面目を保つことができた…と書かれています。

「…武衛(斯波義寛)賜御内書、(朝倉)貞景御退治云々、織田大和守(敏定)聞于相公(足利義材)云、貞景之二字許如何、改書云、越前国朝倉孫次郎貞景退治云々、如此御改書有之、弥武衛御面目之至也云々、…」

足利義尚は朝倉氏に親和的でしたが、打って変わって足利義材は朝倉氏に否定的だったことになります。

応仁の乱の際に、父・足利義視の属した西軍を裏切った朝倉氏に怒りを持っていたのかもしれません。

元家臣だった朝倉氏が独立している状態になっていて、なんとかしたい斯波義寛、自分より格下であったのに越前守護まで成り上がった朝倉氏に不満を覚えている織田敏定の両名にとって、この話は願ってもみないものだったでしょう。

『大乗院寺社雑事記』明応元年(1492年)2月21日の条には、

…どうやら朝倉は越前から退き、元のように斯波が越前を治めることになるらしい、と人々が噂していた…、と書かれており、当時、斯波氏の越前復帰は世に広く知られるまでになっていたことがわかります。

織田敏定は六角征伐で大功を挙げ、そして将来の朝倉征伐の承認も得ました。

この時がまさに織田敏定にとっての絶頂であったのです。

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