16世紀にロシアを上回るほどの繁栄を誇ったリトアニア=ポーランド王国も、
17世紀になると途端に衰えていきます💦
なぜポーランドは力を失ってしまったのか、
今回はそれについて見ていこうと思います(゜-゜)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇斜陽
1620年、ポーランドはオスマン帝国と戦い、ツツォラの戦いで大敗します。
1621年、三十年戦争などで有名なスウェーデン王グスタフ2世アドルフの攻撃を受け、
スウェーデン・ポーランド戦争(1621~1629年)が起き、
序盤はリトアニアのリガを失うなど敗戦を重ねますが、次第に体勢を立て直し、
1629年に戦争は終結しますが、リトアニアの一部を失ってしまいます。
ヤン2世(1609~1672年)の時、
ウクライナでシュラフタによる収奪に怒りを覚えていたコサックたちの反乱(1648~1654年)があり、
1654~1660年にはロシア・スウェーデンと戦争になり、
ロシアとの戦争に敗れてウクライナの領土などを失い、スウェーデンとは苦戦しながらも押し返しますが、リガを失ってしまいました。
1640年以降のポーランドは経済的にも下降線をたどるようになっていました。
それまでの主力商品であった穀物の売り上げが低下していったのです。
なぜかというと、西ヨーロッパでジャガイモの栽培がおこなわれるようになったことが大きいと言われています。
西ヨーロッパでジャガイモが栽培されるようになったのは、
大航海時代の結果、アメリカ大陸からジャガイモが伝わったことによります。
さらにこの頃(1648~1660年頃)のポーランドは戦争とペストの流行により、
人口の4分の1を失い、国力は大きく低下していきました。
退潮のポーランドを盛り返させたのがヤン3世(1629~1696年)であり、
彼は1673年、ホチムの戦いでオスマン帝国を破って名を挙げ、
翌年、王に選ばれた男でした。
1683年、オスマン帝国によるウィーン包囲が起きると、
オーストリアと連合していたポーランドはこれを救援、
ヤン3世は軍制改革に努めて強化していた重装騎兵でオスマン帝国軍に突撃してこれを破り、
キリスト教世界の英雄と呼ばれるようになりました。
しかし一方でロシアの力は次第に強まってきており、1686年、ヤン3世はロシアの圧力に屈してロシアにとって有利な条約を結ぶことになります。
また、ヤン3世は、選挙で選ばれた弱みもあり、シュラフタに対して強く出ることができませんでした。
当時、議会は完全一致制で、1人の反対でもあれば議事は決まりませんでした。
17世紀後半に開かれた44回の議会のうち、15回は中断があり、2回は一つも法律を作れずに解散されたといいます。
ポーランドは前進しようにも、シュラフタに足を引っ張られていたのです。
次に王に選ばれたアウグスト2世(1670~1733年)の時に、
絶対王政を導入しようとしてシュラフタとの内戦が起こり、これにロシアが介入して解決したので、ますますロシアの影響力は強まっていきました。
アウグスト2世が死ぬと後継をめぐってポーランド継承戦争(1733~1735年)が起こりますが、
アウグスト3世(アウグスト2世の子。1696~1763年)はロシアの力を借りてこの戦争に勝利、国王になりますが、ここまでくるとロシアとの優劣は明らかでした。
こういう状況の中で、国王を中心に団結してロシアに立ち向かっていかなければならないはずですが、
ルソーは、『ポーランド政府論』(1771年)で、「ポーランド民族は、すべてであるシュラフタと、無である市民、無以下の農民、の3つの身分からなる」と述べているように、
シュラフタたちは自己の権益のことばかりを考えて行動しており、
また、彼らの横暴により、18世紀前半には議会はまったく機能しなくなっていたといいます。
ポーランドは自ら壊れていったのです。
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