現在のポーランドもヨーロッパの中では大きいほうではあるのですが、
(面積は31万㎢で、ヨーロッパでは9位、世界では69位)
最盛期のポーランドは面積は現在の3倍以上の100万㎢もありました(◎_◎;)
(現在のヨーロッパだとロシアに次いで2位に入る大きさになる。
2位のウクライナは60万㎢なので、それよりも1.7倍ほど大きい)
今回はヨーロッパの大国であった時のポーランドについて見ていこうと思います😆
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇ポーランド王国の誕生
現ポーランドの起源は、民間の言い伝えによるものですが、グニェズノの近くに住む貧しい農夫のピャストの子、シエモウィトという者が、8世紀にポピェルという現地の君主を倒して支配者となったことに始まると言います。
その後、シエモウィトのひ孫にあたるミェシュコ1世(935?~992年)の時にキリスト教に改宗、神聖ローマ帝国に貢物を差し出すなどして神聖ローマ帝国を後ろ盾にすることに成功(これでポーランド公となる)、その援助を受けてボヘミア王国(現在のチェコ)からシロンスク(ドイツ名シレジア。ポーランド南西部にあたる)を奪うなど勢力を拡大、
次のボレスワフ1世勇敢公(966?~1025年)はその異名の通り勇猛で、ボヘミア王国からクラクフ周辺を攻め取り、
さらには神聖ローマ帝国からも(!)土地を奪いました。
死ぬ直前に王位につき、ポーランド公国は王国に昇格しています。
ボレスワフ1世死後のポーランドは混乱が続き、
王が亡命したり、ボヘミアの反撃に遭ったり、神聖ローマ帝国と争ったり、
モンゴル軍の侵入を受けたり、ドイツ騎士団の東進を受けたりして衰退していきました。
その中で現れたカジミェシュ3世 (大王。1310~1370年)は外交で譲歩しながら(ドイツ騎士団に東ポモージェ[グダンスク(ドイツ名ダンツィヒ)を含む海岸沿いの地域を、神聖ローマ帝国にはシロンスクを譲った)ドイツ騎士団・神聖ローマ帝国と和睦に成功して情勢を安定させた上で、
ハンガリーの支援を受けてウクライナ方面に領土を拡大させました。
これだけ見ると「大王」と称されているのがナゾなのですが、
カジミェシュ3世の功績は主に内政面にあり、
①クラクフに大学を設置、②刑法などの法典の整備、③私有地化されていた王家の土地を回収、それに反発して起きた反乱を鎮圧、④貨幣改革、⑤税制改革…などを行って、のちのポーランド王国の隆盛の基盤を築きました。
ドゥウゴシの書いた年代記には、「カジミェシュ3世は土と木でできたポーランドを煉瓦のポーランドに変えた」と記されています。
このカジミェシュ3世は1370年、落馬がもとで死にましたが、跡継ぎとなる男子がいなかったため、
甥にあたるハンガリー王ラヨシュ1世(1326~1382年)が王に選ばれ、ルドヴィク1世となります。
この際、ルドヴィク1世は王に選ばれるために、貴族(シュラフタ)たちに新たに税を課さないという譲歩をしていました。
このルドヴィク1世も男子が無く、
中小貴族たちに対し、毎年6~24グロシュ納めさせていた土地税を永久に2グロシュに引き下げる・それ以外の負担をほぼ免除するという譲歩の代わりに、末娘のヤドヴィガ(1373?~1399)を女王にすることを認めさせます。
ポーランドは混乱の中で貴族の力が高まっていたのですが、ルドヴィク1世の2度にわたる譲歩により、決定的に貴族が大きな力を持つようになります。
〇ヨーロッパの大国~リトアニア=ポーランド王国
ポーランドは一時、ヨーロッパで最大の面積を持つ国だったことがあります。
1386年、ポーランド女王のヤドヴィガと、リトアニア大公ヨガイラ(1362?~1434年)が結婚して、リトアニア=ポーランド王国が成立したのですが、
その面積は100万㎢、人口は1200万を数えました。
ヨガイラはポーランド王家と特段血のつながりはなかったものの、
東に勢力を広げつつあったドイツ騎士団という共通の敵がいたこともあって(1383年にはドイツ騎士団にリトアニアの首都のヴィリニュスを攻撃され大略奪を許している)、
結婚と相成ったのです。
ヨガイラはポーランド名ヤギェウォで、ここから始まる王朝をヤギェウォ朝(ヤゲロー朝)といいます(1386~1572年。日本だとほぼ室町時代にあたる)。
ヨガイラは即位してヴワディスワフ2世と名乗り、
1410年にドイツ騎士団に戦いを挑んでグルンヴァルト(タンネンベルク)の戦いでこれに勝利します。しかし、ドイツ騎士団の首都、マリーエンブルクを包囲してもこれを陥落させるだけの力はまだありませんでした。
その後も断続的にドイツ騎士団と争ったヴワディスワフ2世は、1422年、メルノの和約によりジェマイティヤ(リトアニア北西部で海岸部にあたる)を奪い返すことに成功しました。
ヤギェウォ朝3代目のカジミェシュ4世(1427~1492年)は1454~1466年の13年戦争で、再びドイツ騎士団を破り、マリーエンブルク(マルボルク)を陥落させ、東ポモージェの回復に成功します。
ドイツ騎士団との戦いは1525年、ジグムント1世(1467~1548年)の時に終わりを告げ、騎士団はポーランドに臣従し、騎士団領はプロイセン公国となり、ポーランドの保護下に入りました。
しかし一方で東方ではモスクワ大公国との戦いが始まり、イヴァン3世(1440~1505年)の前に大幅に領土を削り取られ、続くヴァシーリー3世(1479~1533年)によって1514年、重要都市スモレンスクが陥落させられました。
また、ポーランド国内では中小貴族たち(シュラフタ)がますます勢力を拡大させており、
高位の聖職者と貴族の筆頭だけが参加できていた国王評議会に加え、1493年には下院(代議院)が作られてシュラフタたちも代表者を出席させて国政に参加できるようになり、国王評議会は規模を拡大させて全国議会(セイム)となっていましたが、
1505年には国王はこの議会の同意なしに新たに法律を作ることができなくなり、
1530年には全国議会(セイム)でシュラフタたちにより王は生きている間に王位継承者を決めることが禁止(王の死後、その子どもたちの中から選挙で選ぶ)、
1537年の戦争の際にはジグムント1世のシュラフタ軽視の傾向に反発して戦争への参加を拒否、ジグムント1世が動員令の撤回に追い込まれるなど(1422・1454年の戦争の際にもシュラフタたちが参加を拒否している)、
王の力は相対的に低下していっていました(-_-;)
次のジグムント2世(1520~1572年)が跡継ぎ無くして死ぬと、
その後は全てのシュラフタが加わった選挙により王が選ばれるようになりました。
それによって選ばれたのが、なんとフランス皇子のアンリ(ポーランド語ではヘンリク)でした。
即位にあたって、シュラフタたちは新国王に①存命中に後継者を決めないこと、②開戦・講和については議会と協議して決めること、③特別税は議会の承認を必要とすること、④国王が以上の約束を守れない場合は家臣たちは忠誠を拒否できること、を認めさせようとしましたが、
ヘンリクはこれを拒否、1574年にはポーランドを脱出してフランスに帰国、急死した兄の跡を継いでアンリ3世(1551~1589年)となりました。
王がいなくなったため再び選挙が行われ、王となったのはハンガリー貴族でトランシルヴァニア公のステファン・バトルィ(1533~1586年)でした。
当時、ポーランドとロシア(元モスクワ大公国)は、16世紀後半にリヴォニア(エストニア南部・ラトビア北部)をめぐって断続的に抗争を続けていました。
1558年、ロシアのイヴァン4世(1530~1584年。モスクワ大公であったが、1547年に皇帝となった)はリヴォニアを攻撃し、1563年にポロツクを攻略するなど戦いを優勢に進めていましたが、
バトルィは王に即位すると、ロシアに対し積極的に反撃し、1579年にポロツクを奪い返し、1581年には逆にロシアに攻めこんでプスコフを包囲しました。
苦戦したイヴァン4世は1582年、ポーランドと休戦協定を結び、ロシア軍はリヴォニアから撤退、リヴォニアはポーランドに戻ることになりました。
バトルィは国内では大貴族(マグナート)のサミュエル・ズボロフスキと対立、1584年にこれを処刑してシュラフタと緊張が生じることになります。
1586年、バトルィが子どもの無いままに死ぬと、スウェーデンの王子が選挙で王に選ばれ、
ジグムント3世(1566~1632年。1592~1599年にはスウェーデン国王も兼ねたが、1599年に叔父のカールとの内戦に敗北してスウェーデン王位を失った)として即位します。
ジグムント3世はバトルィの路線を引き継いで、ロシア攻撃とシュラフタ弾圧を目論みます。
絶対王政を望んだジグムント3世とシュラフタたちは対立、ついにシュラフタと内戦状態(1606~1609年)となりますが、ジグムント3世は1609年、これを屈服させ、以後、シュラフタの力は弱まっていきます。
国内をおさめたジグムント3世は、1609年、さっそくロシアに遠征し、1610年、クルシノの戦いでロシア軍を破ったポーランド軍は、なんとモスクワまで進出してこれを占領し(翌年にはモスクワから撤退)、1611年には約100年ぶりにスモレンスクを奪回しました。1618年、ロシアと休戦協定を結び、ロシアから多くの領土を奪い取ることに成功しました。
この時の領土がポーランドの最大領土で、ポーランドは絶頂の時を迎えました。
経済的にもポーランドは非常に好調で、ヨーロッパの人口増加に伴ってポーランド・ウクライナの平原で生産される穀物の需要が高まり、
1490年頃には6000ラスト輸出していた小麦・ライ麦は、
1620年代には7万5000ラストも輸出されるようになっていました。
この頃、ポーランドで生産された穀物は約60%も輸出に回されていたといいます。
当時、シュラフタは関税免除・外国商人と直接契約できるなどの特権を手に入れており、そこから得られる富はかなりのものになっていたようです(◎_◎;)
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