前回のマンガで述べたように、少なくない被害を出しながらも、一時的に今川軍の進攻を押しとどめた織田信秀ですが、
次は美濃(岐阜県南部)に向けて動くことになります…(◎_◎;)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇織田信秀・斎藤利政の再戦
『信長公記』では、織田信秀が美濃に攻めこんだ理由を次のように説明しています。
…以前、大垣城を落としてそこに織田播磨守を置いていたが、9月22日の織田信秀との大合戦に勝利した斎藤道三は、「尾張の奴らは足も腰も立たなくなっただろう、大垣城を落とすなら今だ」と言って、近江(滋賀県)に援軍も頼んで、11月上旬に大垣城近くまで攻め寄せた。
その報を聞いた織田信秀は、「それならば出陣する」と言って、11月17日、援軍とともに木曽川・飛騨川を越えて、美濃に進入し、竹が鼻から茜部口に進出して各地に火を放った。斎藤道三はこれに驚いて大垣城への攻撃をゆるめ、稲葉山城に戻った。このように織田信秀が、時間をかけずにすばやく出陣して手柄を立てる様子は、言葉で言い表せないほどである。…
(「先年、尾張国より濃州大柿の城へ、織田播磨守、入れ置かれ候事。去る九月廿二日、山城道三、大合戦に打ち勝つて申す様に、「尾張者はあしも腰も立つ間敷候間、大柿を取り詰め、此の時攻め干すべき」の由にて、近江のくにより加勢を憑み、霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ候ひき。」
「霜月上旬、「大柿の城近々と取り寄せ、斎藤山城道三攻め寄する」の由、注進切々なり。「其の儀においては、打ち立つべき」の由にて、霜月十七日、織田備後守殿、後巻として、又、憑み勢をさせられ、木曾川、飛騨川の大河、舟渡しをこさせられ、美濃国へ御乱入。竹が鼻、放火候て、あかなべ口へ御働き候て、所々に姻を揚げられ候間、道三仰天致し、虎口を甘げ、井の口居城へ引き入るなり。か様に、程なく備後守軽々と御発足、御手柄、申すぱかりなき次第なり。」)
これを見ると、以前のマンガで紹介した、天文13年(1544年)9月22日の美濃での大敗の後、今が好機とばかりにその年の11月に大垣城に攻めこんだ…というように感じられますが、実際は天文13年(1544年)の11月のことではなかったようです。
なぜかというと、『信長公記』の続きに、
…11月20日、織田信秀が尾張を留守にしている間に、清須城の者たちが、織田信秀の古渡城を攻めて、町の入り口に放火、敵対を明らかにしたので、織田信秀は古渡城に戻った…
(「霜月廿日、此の留守に、尾州の内清洲衆、備後守殿古渡新城へ人数を出だし、町口放火候て、御敵の色を立てられ候。此の如く候間、備後守御帰陣なり。」)
とあるのですが、これについて、『武家聞伝記』にある文書には、
…尾張から織田信秀が攻めてきたと以前お伝えしましたが、この春から関係を結んでいた織田大和守殿が昨日の午前8時頃に(織田信秀の持つ)那古野城に攻め寄せたため、尾張国は全てこちらに味方しているような状態となりました、また、大和守殿の行動に合わせたのか松平広忠も行動を起こしています、織田信秀のことですが、美濃の本田というところに砦を築いて、昨夜攻撃を仕掛けてきましたが、午前2時頃に敗北して、織田信秀は髪を振り乱して逃亡、夜中だったので討ち取ることができなかったのは残念です…
(「尾州衆出張の趣、先書に啓達し候、よって織田大和守去る春以来申談ず筋目有りて、昨日辰の刻立ち進みて那古野及び内に至り候、然れば尾州一国一味し候、三州松平合せてか相働き候、織弾事、当国本田と申在所に要害を構え罷計、昨夜懸けられ候ところ、丑刻に敗北候、髪を捌けて山中へ罷り退き候へば、夜中の儀に候へば、これを討ち留めず候、無念に候」)
と『信長公記』と同じような内容が記してあるのですが、末尾に書かれている日付には、
「8月12日」
と書かれているのです(◎_◎;)
8月ということは、9月22日の戦いと同年ということはありえなくなります💦
天文13年(1544年)の翌年以降ということになります。
では何年なのかというと、
長山寺所蔵の鷹司系図にある記事に、
…天文17年(1548年)8月、尾張の織田が美濃に乱入してきて、各地で合戦となって、織田治郎を討ち取った…
(「天文十七年八月、尾の織田が当国へ乱入。所々で合戦。織田治郎討捕。」)
とあるので、「天文17年(1548年)」の8月の可能性があります。
しかし、天文17年(1548年)であるとしたら、なぜ天文13年(1544年)9月22日の大勝からこんなに日にちが空いたのかが疑問になります。
天文13年(1544年)9月22日後、斎藤利政(道三)はどうしていたのかというと、
織田・朝倉連合を美濃から追い出したものの、再び土岐頼充をかついで美濃に攻めてくるかもしれず、国内もまだ動揺していたとも考えられるので、しばらく動けなかったのでしょう。
そこで、天文15年(1546年)9月、斎藤利政は土岐頼充の美濃復帰を許すという条件で朝倉と和睦することに成功します。この時、斎藤利政の娘が土岐頼充に嫁いだようです。
しかし土岐頼充と織田信秀は共に戦った間柄であったため、頼充に配慮して、まだ大垣城を攻めることはできなかったのでしょう。
しかしその頼充は天文16年(1547年)11月17日に急死します。
六角義賢の書状には、「次郎殿を聟仁取、彼早世候」(次郎[土岐頼充]に娘を嫁がせたが、その次郎が若死にすると、)とあり、若くして病死したことがわかりますが、『信長公記』には、土岐頼芸には次郎・八郎という息子がいて(実際は土岐頼武の息子)、斎藤道三は次郎に娘を嫁がせたが、これを毒殺し、…とあり、当時から毒殺の噂が出ていたことがわかります💦
跡を継いだのは弟の土岐頼香でした。
この頼香に、土岐頼充に嫁いでいた斎藤利政の娘が再び嫁いだようです。
『信長公記』には、
残った娘を、次郎の弟の八郎と無理やり結婚させ、稲葉山城下に住まわせた、…とあります。
しかし、斎藤利政は、『信長公記』によれば、
「五三日に 1度ずつ参り、御縁に「 御鷹野へ出御も無用。御馬など召し侯事、これまた、もったいなく侯 」と申し詰め、籠の如くに仕り侯間」
…3日か5日に一度は八郎(土岐頼香)に会って、
「鷹狩に行ってはいけません」「馬に乗ってはいけません」などと、
籠に閉じこめたように扱った…
というように、土岐頼香の行動を制限してお飾りのように扱ったようです。
これに不満を持った土岐頼香は、
『信長公記』によれば、
「雨夜の紛れに忍び出で、御馬にて尾州を心がけ御出で侯ところ、追いかけ、御腹めさせ侯。」
…八郎は雨の降る夜にひそかに館を出て馬で尾張に向かったが、道三はこれを追いかけて自害させた…
不満を感じて尾張に行こうとしたところを捕まり、自害に追い込まれてしまった、とあるのですが、
実際はどうやら挙兵して粘り強く抵抗していたようです。
『信長公記』では、織田信秀は大垣城を救援するために美濃に進入していますが、
木下聡氏は、『斎藤氏四代』で、土岐頼香の求めに応じて出兵したのではないか、としています。
斎藤利政が大垣城を攻めては、土岐頼香に加えて、織田も敵に回すことになってしまうわけですから、織田信秀が土岐頼香の求めに応じた、とする方が自然なように感じます。
しかし、織田信秀は稲葉山城に迫りながら、
その後、稲葉山城と大垣城の中間地点にある本田に砦を構えているので、
大垣城を包囲していた斎藤利政が稲葉山城に戻ろうとするのをさえぎろうとした…ととらえるべきなのかもしれません(◎_◎;)
斎藤利政としても、大垣城を攻める理由がありました。
大垣城を攻めれば、救援に来た織田信秀とともに土岐頼香が挙兵するでしょう。
そうすれば、土岐頼香を倒す口実ができるからです。
こうして織田信秀は美濃に進入し、
『信長公記』によれば、竹が鼻・茜部周辺に攻め寄せたわけですが、
「茜部」がつく地名がある地域 |
(織田信秀が攻めこんだ「竹ガ鼻」は、現在も羽島市竹鼻町として地名を残しています。「茜部」は、以前のマンガにも登場しましたが、岐阜市には「茜町・茜部菱野・茜部新所・茜部大野・茜部辰新・茜部神清寺・茜部寺屋敷・茜部本郷・茜部中島・茜部大川・茜部野瀬」があり、大茜部地帯(大茜部連合?)を形成しています。ちなみに茜部のすぐ上の地名は「加納」。)
先に述べたように、主家にあたる守護代・清須織田家が斎藤利政と通じて、
突然織田信秀の城(『信長公記』では古渡城、『武家聞伝記』の文書では那古野城。清須城~那古野城は6.6km、清須城~古渡城は9.1㎞なので、位置的に那古野城の方が正しいか)を攻撃します。
これを見ると、信秀・頼香は斎藤利政の手のひらの上で踊らされているようにしか思えません。
利政、おそるべしです(◎_◎;)
稲葉山城と大垣城のほぼ中間地点にある本田(瑞穂市)に砦を構えていた織田信秀は驚き、斎藤利政に打撃を与えてから退却しようとしたのでしょう、斎藤勢を夜襲しますが、これは見抜かれ、再びの惨敗を喫してしまいます。
『美濃諸旧記』には、「是に依って道三再び出馬し候、終に織田播磨守を攻出し、大垣の城を受取りて竹腰を入れ置きけるなり」とあり、
それからまもなくして、大垣城は斎藤利政に奪われてしまったようです💦
(新たに城主となった「竹腰」とは竹腰重直[道鎮]のことで、竹腰重直は織田信秀に大垣城を落とされた時の城主だったそうなので、再び大垣城主に返り咲いたことになる)
同盟相手が敗れ孤立した土岐頼香ですが、簡単には敗れず、
先に紹介した長山寺所蔵の鷹司系図にある記事には、
「二十五日饗庭城合戦。味方敗軍する。八郎大輔康門・鵜飼弥八郎・筑摩弥三吉長討死。政光は今度の戦で大功あり。同十一月牧野合戦。十一月晦日より十二月四日に至る。孫八郎光政・山田又七・長瀬新兵衛・同七郎・吉田伝兵衛・佐藤新五郎・足立与次郎・牧村源七郎・横幕彦三郎・河村市郎兵衛が同時に討死。長瀬城灰尽となる。天文十七申年十二月朔日討死。」
(8月25日、斎藤方の城である饗庭城[相羽城]で戦いがあり、斎藤方が敗北した、続いて11月30日~12月4日にかけて牧野で戦いがあった、これも斎藤方の敗北に終わり、長瀬城は陥落して、12月1日には鷹司政光も戦死した)
…とあり、斎藤利政もかなり手を焼いていた様子が伝わってきます。
これらの戦いは織田信秀の攻撃を受けたもの、とする説もありますが、
織田信秀は8月11日に大敗を喫しており、清須織田家も敵に回している状況で、
美濃に攻めこむ余裕があるとは思えないので、これは土岐頼香と、反斎藤利政勢力の力によるものでしょう。
土岐氏は衰えたといっても美濃の名門、腐っても鯛、土岐氏に味方する者が少なくなかったのでしょう。
しかし、奮戦していた頼香は、近江の大名、六角義賢の書状によれば、
「事に左右をよせ、生害させ申」
(利政はあれこれと口実をつけて頼香を自害に追い込んだ)
最後は追いつめられて自害させられてしまったようです。
先にも紹介しましたが、
『信長公記』では、尾張に逃れようとしたところを捕まって自害に追いこまれる場面が出てきていますが、それはこの時の事だったのでしょう。
利政はしかし、主君筋の土岐頼香を自害させたことは外聞が悪いと考えたのか、
天文18年(1549年)の5月頃までに出家し、これ以降は「道三」を名乗ることになります。
しかし、斎藤道三はまだ止まりません。
まだ排除すべき土岐氏の人間がいたからです。
先にふれた六角義賢の書状には、
「其外兄弟衆、或ハ毒害、或ハ隠害にて、悉相果候」
(頼香の兄弟たちも毒殺・暗殺され、ことごとく死んでしまった)
…と書かれています。
そして最後に残ったのは、守護の土岐頼芸でした。
木下聡氏の『斎藤氏四代』によれば、天文19年(1550年)の冬頃に土岐頼芸は美濃から追放されたようです。
『信長公記』には、
土岐頼芸は大桑城にいたが、道三は金銭をもってその家来たちを味方につけ、
大桑城から追い出すことに成功した、
土岐頼芸は織田信秀を頼って尾張に向かった…と、
土岐頼芸追放の顛末が記されています。
しかし実際は、土岐頼芸は尾張ではなく近江の六角氏のもとに逃れていたようです。
土岐頼芸の妻は六角定頼の娘であり、尾張に行くよりもこちらに行く方が自然でしょう。
そもそも土岐頼芸はずっと信秀の敵の斎藤道三方でしたし。
天文20年(1551年)7月5日に、近衛稙家(元関白。1503~1566年)が今川義元に対し、土岐頼芸が美濃に復帰できるように織田信秀と協力したいので、信秀と和睦してほしい、詳細は六角定頼から知らせがある、という内容の書状を送っています。
これを見ても、六角定頼が中心となって、土岐頼芸の美濃復帰に動いていたことがわかります。
しかし翌年に頼みの六角定頼も亡くなったため近江を去り、その後は関東の常陸(茨城県)・上総(千葉県中部)などを流浪し、最終的に甲斐(山梨県)の武田氏のもとに落ち着きます。
その後、1582年に織田信長により武田氏が滅ぼされた際に捕らえられてしまいますが、美濃に戻ることを許され、念願がかなった土岐頼芸はこの年に亡くなりました。80歳の高齢であったといいます。長生きはするものですね…( ;∀;)
さて、美濃での再度の大敗に加え、尾張での内戦も始まった織田信秀は、大いに勢力を弱めていきます。
苦しい状況の織田信秀は、方針転換を迫られることになっていきます…💦
〇補足
マンガ中の落首(立札に世の中を皮肉った歌を載せたもの)に出てきた、
「昔はおさだ」の「おさだ」は「長田忠致(ただむね)」のことですが、
長田忠致は、主人である源義朝(源頼朝の父)が平治の乱で逃げてきたのを
かくまうと言って油断したところを暗殺した人物です。
源頼朝の挙兵の際、どんな神経をしてるかわかりませんが
源頼朝の味方になります。
源頼朝は「がんばれば美濃・尾張(おわり)をくれてやる」と言ったそうで、
長田忠致ははりきりますが、戦争後、ほうびではなく死刑を言い渡されます。
「美濃・尾張をくれるといったではないか」、という長田忠致に、
源頼朝は「約束通り身の終わりをくれてやる」と答えたそうです。
頼朝は憎さのあまり、爪をはがし、肉を切り、皮をはぐというやり方で長田忠致を数日かけて殺すという残忍な処刑を行いますが、
今回出てきた斎藤道三も「牛裂きの刑」という残忍な処刑を行っています。
これは、罪人の両手・両足を複数の牛の角に縄で結び、
複数の牛を逆方向に走らせて罪人の身体を引き裂くという残酷なものです。
斎藤道三は織田信長に協力的な人物で、織田信長が斎藤道三を滅ぼしたわけでもないですから、
太田牛一がわざわざ斎藤道三を悪く書く理由がありませんから、
『信長公記』に書かれた悪行はだいたいが真実であったと思われます。
それだからこそ、後のマンガで描くように、味方が少なく非業の死を遂げることになるのだと思います😰
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