社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 稲生の戦い~勘十郎殿・林・柴田御敵の事(1556年)

2023年6月19日月曜日

稲生の戦い~勘十郎殿・林・柴田御敵の事(1556年)

 尾張の北半分にあたる、上四郡の守護代を務めていた岩倉織田家の織田信安に敵対された織田信長

苦しい状況の信長に追い打ちをかけるように、

ある人物が敵対を明らかにします。

それは織田信長にとって今までで最大の危機となるものでした😰

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



※3ページ目は都合により公開いたしません🙇

〇織田信長包囲網の前にすでにあった信長包囲網

佐渡守秀貞(1513~1580)は、以前のマンガでも紹介したように、

信長に最初につけられた一番家老でした。

しかし織田信長との関係はそれほど良いものではなく、

村木砦の戦いの際には独断で別行動をとっています。

林秀貞はおそらく慎重で保守的な人物であり、

それが故に、新しいもの(武器や戦法、家臣もそう)をどんどん取り入れて、

1人で飛び出していくような軽率な行動をとる織田信長に尾張を任せていては国が持たないと考えたのでしょう。

弟である林美作守(1516~1556。名前は『信長公記』には書かれていないが、通具[みちとも]とする説も)とともに、

織田達成(信長の同母弟)の家老、柴田勝家と示し合わせて信長に敵対することを決めます。

しかし、弘治2年(1556年)5月26日、

そんな不穏な時に、織田信長が新しく守山城主となった織田信時(織田信長の弟とも兄ともいわれる。信長の兄である織田信広の同母弟であったらしい)を連れて、

なんと2人だけで林秀貞が城代を務める那古野城にやってきます😱

織田信長は林秀貞を試したのでしょうか?

それとも、林秀貞を信じていたのでしょうか?

おそらく、秀貞に反抗されるとまずいので、

2人だけで那古野城を訪れることで秀貞を信頼していることをアピールし、

林秀貞に反抗されないようにするための行動だったのでしょう💦

(村岡幹生氏は、『今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝』で、「信長が那古野城で林兄弟に対して、彼らが到底受け入れることのできない何らかの屈辱的要求を突きつけたがために、彼らが信勝派に走ったというのが真相であろう。守山城主安房殿を伴ったというから、その要求には、彼が絡んでいたのであろう。大胆な推定を述べるなら、林兄弟に対し信長は、軍事的緊張が高まった岩倉守護代への備えとして、彼らがその前線に立つことを要求し、そのために那古野からの移転を迫ったのではあるまいか。守山城主がそれに絡むとすれば、具体的には、守山・那古野の城主入れ替わりの要求である」としている)

そこで秀貞の弟で兄と違い武闘派の林美作守が、

兄に「能き仕合せにて候間、御腹めさせ候はん」(千載一遇の機会であるから追いつめて切腹させましょう)とけしかけます。

しかし、林秀貞は慎重で保守的な人物であるので、

「三代相恩の主君を、おめおめと爰にて手に懸け討ち申すべき事、天道おそろしく候。とても御迷惑に及ばるべきの間、今は御腹めさせまじき」(3代にわたって恩を受けた主君を殺すなどという恥知らずな行動をしては、天罰がおそろしい。どうせ困らせるようなことをこれからするのだから、今切腹させるようなことをしなくてもいいではないか)と言って、

ここでも信長を殺すことをためらって信長を生きたまま帰してしまいます。

(※秀貞は今回のマンガでも触れたように、3代にわたって織田家に仕えてきた家柄でした。

祖父は林通村美濃(岐阜県南部)の稲葉氏の出身であったという。

清須城岩倉城の中間地点にある、沖村(北名古屋市)に所領を得て、

以後代々受け継いだ。

父は林通安?~1553年]で、3代目が秀貞になる。)

秀貞としては織田信長の信頼アピールの行動もあり、織田信長を手にかけるのは忍びない状態になっていたのではないでしょうか。

信長の信頼アピールも功を奏さず、

林秀貞はそれから2日とたたないうちに、信長に対する敵対を明らかにします。

林秀貞の与力(有力武将に配属された武士で、家臣の家臣という扱いにはならない)である荒子城前田与十郎は林方(織田信勝方)につき、

同じく秀貞の影響下にあった米野城大脇城も同じ行動をとります。

さらに悪いことは続き、織田信長派であった守山城主の織田信時が、なんと家老の角田新五に殺されるという事件が起きてしまいます(◎_◎;)

織田信時は『信長公記』に「利口なる人」と書かれるほどの人物でしたが、

家老の坂井喜左衛門の子、孫平次と男色関係になり(当時は全く珍しくなかった)、孫平次ばかりを重用し、角田新五を軽んじるようになったため、

不満に思った角田新五は「城の塀が壊れたので直します」と言って、

城の塀のところにいき、その壊れたところから兵を引き入れて織田信時を切腹に追い込みます(◎_◎;)

孫平次はどうなったのか記述がありませんが、その後出番がないので、おそらく殺されたのでしょう。

城を乗っ取った角田新五はその後、岩崎城丹羽氏勝(1523~1597。丹羽長秀との血縁関係は無い、別の丹羽氏)といっしょに織田達成方についていることから、

おそらく織田達成方からの誘いを受けて、

織田信長派の織田信時を死に追い込んだものでしょう。

その後しばらく織田信長方と織田達成方で衝突は起こらず、

「奇妙な戦争」状態となっていましたが、

先に行動したのは織田達成方でした。

織田信長の領地である篠木を無理やり奪い取ったのです。

それに対して織田信長は、このまま庄内川の東側を奪われていくわけにはいかないので、8月22日、佐久間盛重に命じて、庄内川を渡ったところにある名塚に前線基地となる砦を築かせ始めます。

佐久間盛重はもともとは織田達成の家臣(家老?)であった者でしたが、

織田達成にはつかずに織田信長の方につきました。

同族である佐久間信盛は、先の守山城騒動の際に信長のために解決策を提案しており、だいぶ早い段階で佐久間氏は織田信長方になっていたようです(゜-゜)

織田達成としては、砦が築かれていくのを黙ってみているわけにはいきません。

いよいよ、兄弟決戦の時が近づいてきていました🔥

稲生の戦い

弘治2年(1556年)8月23日、雨で庄内川が増水したのを見て、

(『総見記』では8月に雨が降り続いていた、と書かれている)

これで織田信長は川を越えて名塚砦に救援に行くのは難しいだろう、

と考えた柴田勝家・林美作守は名塚砦へ出陣します。

『総見記』によれば、名塚砦はまだ一重の塀と、堀一つができただけの状態で、

攻められたらひとたまりもない状態でした💦

しかも、助けに行こうにも庄内川は増水して、『総見記』によれば鳥ではないと渡りづらいような状況…(◎_◎;)信長、大ピンチです💦

しかし、村木砦の戦いで荒れる海をものともせず押し渡った織田信長には、

増水した川くらいへっちゃらでした。

『総見記』によれば、名塚砦で泳ぎが上手なものが庄内川を泳いで清須城に到着、敵が攻めて来たと報告を受けた信長は、「今日某、後詰せずんば一定此の城落つべきなり、後悔何の益あらん、速やかに打ち立つべし」(今助けに行かなければ必ず砦は落ちるだろう、後悔しても何も得は無い、今すぐ出陣する)と言って700に満たない兵を率いて出陣、川を押し渡ります。

一方、織田達成方は、柴田勝家が1000の兵を率いて東側から、林美作守は700の兵を率いて南側から、名塚砦に向かって進んでいました。

織田信長はまず柴田勝家隊と戦うことに決め、8月24日正午ごろ、名塚砦の東にある稲生で柴田勝家隊と激突します。

柴田勝家隊は1000、対する織田信長は連れてきた700に満たない兵のうち過半数(南から進んでくる林美作守に対応するため、兵を分けた)であったので、

兵力の差は否めず、信長軍は押されていきます。

しかも相手はあの柴田勝家ですからね💦

柴田勝家は山田治部左衛門を負傷しながらも自ら討ち取ります。

他にも織田信長軍は「小豆坂七本槍」の1人、佐々孫介(佐々成政の兄)が戦死、

前線の兵は負けて織田信長の所へ逃げてきます。

織田信長の周囲には、織田勝左衛門(織田氏の一族?)・織田信房(「小豆坂七本槍」の1人)・森可成など40人がいました。

この40人が突撃し、柴田勢の大原という者を織田信房・森可成が討ち取ります。

そして、ここで織田信長が動きます。

『大音声を上げ、お怒りなされ候を見申し、さすがに御内の者共に候間、御威光に恐れ立ちとどまり、終に逃崩れ候キ』。

信長の大音量の怒声を聞いて、(織田信長のことをよく知っていることもあって)柴田勢の者たちは震えあがり、慌てて逃亡してしまった、というのです。

これはおそらく、織田信長と何度も行動を共にし、織田信長の才能を理解していた柴田勝家が織田信長は倒すべきではないと、兵を引いたというのが実際の所だったのかもしれません😕

逃げる柴田勢に対し、織田信房は追撃戦に入ります。

家来の禅門という者は、河辺平四郎という者を倒し、織田信房に首を取るように勧めましたが、織田信房は「首を取る暇はない。倒した者はそのままにして、先へ進んで追撃せよ!」と叱られています😓

柴田勢の追撃を織田信房に任せた織田信長は、

続いて南から攻め寄せる林美作守勢の攻撃に移ります。

間もなく、黒田半平という者が美作守に挑みかかります。

しかし、美作守は兄と違い武闘派だけあって、

長く戦った末に、半平の左手を切り落とす奮戦を見せます。

しかし、そこに織田信長がやってきて、大将自ら勝負を挑みます。

『信長公記』には、「其時、織田勝左衛門御小人のぐちう杉若、働きよく候」

書かれていますので、林美作守に負けそうになった信長を、

横から救って槍ででも刺したのかもしれません。

信長はたいへん杉若をほめて、「杉左衛門尉」という名前を与えたそうです。

信長は杉若の助けもあり、林美作守を討ち取ります。

『信長公記』には「御無念を散じられ」(悔しい気持ちをお晴らしになった)とあるので、

信長が子どものころからずっと仕えてきた林美作守が裏切ったことが相当悔しかったのだと思います。

織田信長勢は逃げる敵を斬りに斬り、翌日首実検をしましたが、

「天理本」によればこの時、「林美作頸をば御足にてけさせられ候也」とあり、

信長はなんと林美作守の首を蹴り飛ばしています(◎_◎;)

信ぴょう性は乏しいですが、江戸時代中期に罹れた『常山紀談』には、1582年、武田氏を滅ぼした際に、武田勝頼の首を蹴飛ばした、という話が載っていますが、元ネタはこれでしょうか…(゜-゜)

それはさておき、戦いの後の首実検ですが、そこで並べられた首はなんと450以上もあったといいます。

織田達成軍は1700人ほどいましたから、4分の1が命を失ったことになります。

裏切ったものを許さない、信長の苛烈さがここに見えます。

一方で、この戦いでは守山城の織田信時を殺した角田新五も討ち死にしているのですが、

信長はおそらくこのタイミングで以前織田秀孝を誤って?殺した織田信次(以前のマンガ参照を守山城主に戻しています。

感激した信次は織田信長に必死に仕え(『総見記』に「信長公の御厚恩忝く存ぜられ」とある)、のちに長島の戦いで戦死しています。

優しい一面も見せているわけですね(゜-゜)

さて、敗れた織田達成は勢力下に置いていた多くの城を失い、末盛城・那古野城に閉じこもらざるを得なくなります。

信長は2つの城を何度も攻撃し、町を焼き払っています。

信長の母、土田御前は末盛城にいました。

土田御前は見知った清須城にいる村井貞勝・島田秀満を末盛城に呼び寄せ、

謝罪の言葉を信長に伝言させました。

信長はこれを聞いて信勝を許し、

信勝は土田御前・柴田勝家・津々木蔵人(信勝の側近)を連れて、織田信長にお礼の言葉を言いに清須城に行っています。

信長は林美作守だけでなく、その兄で、一番家老でありながら裏切った林秀貞にもブチギレていましたが、

林秀貞は、信長が信時と2人だけで那古野城に来た時、美作守が殺すように言ってきたのを止めたのです、と信長に伝えます。

すると、信長はその時のことを思い出して殺すのを止めたということです。

ここで許すのがすごいですね💦素直というか、純真というか…。

林秀貞は文官としての能力がある人ですから、殺すのが惜しいとも思ったのかもしれませんが。

ともかく、織田信長は最大のピンチを乗り切りました。

この後、信長は尾張統一に邁進することになります🔥

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